2014年8月5日火曜日

第7章 1番目の月 彼女の涙 粒は還る

1番目の月は地球を見ていた。1番目の月は地球を見ることが好きだった。青い地球を見ていると、自分の中にある何か得体の知れない感覚がざわめき出すのを感じた。1番目の月は、そのざわめきがなんなのかわからなかったが、目をつむり、そのざわめきに意識を向けていると、次第に、歌が歌いたくなることを知っていた。1番目の月は今日も歌う。


「地球よ」
作詞•作曲:1番目の月

地球よ 地球
青い星よ
別たれた影の名を知る星よ
明滅する光の速度は
音もなく星をかえりみる
狐は今日も空を飛び
蛙は今日も土を喰らう
七色鼠は宙を舞い
透明ガラスは走りゆく
あゝなんて愉快なこの星よ
何処までも続く青空よ
こどもは歌う星の歌
人は帰りし夢の跡
もう何処へも行かぬでおくれ
とどまることなき詩の光
末裔の時を経て帰りゆく
日々の無言は今なお続かん


1番目の月は信じていた。自分がかつて人であったと。あの日愛した女のこと。失くしてしまった家族のこと。日々の戯れ。喧騒。都市のなかをひた走る馬の群。1番目の月は目をつむり、今日も歌う。そして、思い出すのだ。自分の身体を構成する小さな小さな石の中に眠る記憶を。

石の記憶。








たゆたうように、白き光が木々の隙間に差し込んで、音もなく、風のゆらめきとともに私を照らす。

サルスベリの木の葉たち。風に揺られて無邪気に遊ぶ。さわさわさわ。風のこども。木の葉の舞踊が、地面に静かな影を生む。

私は、目を細めてそれを見る。
私の目に映るのは、木の葉と光の泡の群れ。私の眼は、視力が0.02しかないので、眼鏡を外すととてもじゃないが世界を見ることができない。そう思っておりました。しかし、どうでしょう。私の眼は確かに悪いですが、私の目はよく見えます。ほら、貴方も見てくださいな。

木の葉のひとつひとつは風に遊び
ちいさなちいさな緑色の光の粒となりて薄青い空のキャンバスの上をゆれ動いております。
数え切れぬほどの緑の光の粒が寄り集まり、おおきなおおきな絵を描きます。緑の光の粒の群れ。おおきなおおきな緑の絵よ。
そして、どうでしょう。見えますか。緑の光の粒と粒の間。白の光の粒が遊びます。私の目は、どちらの色をも見ることができます。貴方の目も、見ることができます。どうでしょう。綺麗です。
薄い青い空の色は、かつてここにいた、総ての者たちの哀しみの色でしょうか。彼らは死んでゆきました。みな、土へと還りました。土の中、ちいさなちいさな生物たちが、彼らを食べました。彼らのからだはちいさなちいさな粒になってゆきます。色とりどりのちいさな粒に。彼らの粒は、それぞれに還りました。彼らの哀しみは、水となり、水の粒とともに川になり、おおきなおおきな海へと還りました。

おおきなおおきな海には、すべての者たちの哀しみが溶けています。けれど、それは消えているわけではありません。彼らの哀しみは、目には見えない粒となり、今もこの海のなかに生きております。

太陽は、彼らの哀しみに光をあたえます。そして、彼らの一部は、空へと還りました。空は、だから、青いのです。空は今も青いまま。彼らの粒は今もそこにいます。寂しがりやな彼らは、ときに雲にも還りました。ふかふかの雲は空を優雅に旅します。まだ見たことのない街へと旅をします。そして、様々な哀しみを吸い込んで、雲はおおきくおおきくなって、何処かの街に雨をふらせます。

雨の粒になった彼らは、何処かの街の地面にその身を打ちつけて、土に還りました。土に還らずに、洗濯物に還る者もおりました。そして、わたしは、彼女の顔に、還りました。

一粒の雨である、わたし。
彼女は泣いておりました。
彼女の涙とわたしは、一粒に還りました。彼女は、泣き止みました。そして、空を見上げました。

空は晴れ
わたしは青
空は青
わたしは晴れ
彼女のこころは
わたしの
還りを
待っていました

2014年8月4日月曜日

第6章 渦巻き 大腸のトンネル シルクハットの男

白い扉の中には、奇妙な通路があった。壁面には無数の曲線が螺旋状に彫り込まれ、その曲線は通路の奥へと続いていた。壁の質感は、脆い紙粘土のようで、手でふれるとボロボロと零れ落ちてしまう。通路の形は、四角ではなく円形であり、平らな面が一つもないため歩くのに苦労した。僕は、壁面の曲線につまづきながらよろよろと一歩、また一歩と歩を進めた。

小一時間程歩いたところで、開けた空間に辿り着いた。高さはおよそ10m程。空間の端から端までの長さは15m程だろうか。中心に六本の柱が立っている。その柱は、まるで太古の昔から其処に根を張り、悠久の時を超えて成長を続けている巨大樹のように見えた。巨大樹のような柱は、赤、青、黄、緑、オレンジ、紫の配色がそれぞれに施されており、渦巻き状の紋様が無数に彫り込まれていた。それぞれの渦巻きは、大きさを違えながらもそれぞれの終点で繋がりあい、全体として巨大な迷路のような模様を柱に描き出していた。

僕は六本の柱を眺めながら少しばかり歩いていた。柱は空間の天井に突き刺さり、何処まで続いているのかを知ることは叶わなかった。特に理由はなかったが、この六本の柱は、おそらく、何処までも続いているのではないかと僕は思った。「何処までも続く六本の柱」僕は声に出してそう呟いた。いつの間にか、僕の口には、声が帰ってきていた。失われた声は何処かを彷徨い歩き、再び主人の元へと帰ってきたのだった。








僕は自分の口に帰ってきた声を確かめるようにして、ゆっくりとそう呟いた。

「お待ちしておりましたよ」

突然、その言葉が僕の耳に届いた。僕は驚いて、よろめきながら声のした方を向いた。そこには1人の男らしきものが立っていた。

身の丈190cm程の長身に、黒色のシックなシルクハットとスーツ、左胸ポケットには鮮やかなショッキングピンク色のハンカチーフが差し込まれていた。大きなシルクハットに顔が隠れていて、男がどのような顔をしているのかを知ることは叶わなかった。(男のような低い声色であったので男と判断したが、正確に判断する基準は他にはなかった)

男らしきそいつは、僕に向かって今度はこう言った。

「いやはや、ご機嫌いかがでしょうか。「大腸のトンネル」は些か歩きづらい処でありましたから、お疲れかと思います。ささ、此方へどうぞ。貴女様の席はご用意して有りますので。ええ、それはもうとびっきりゴージャスで、エレガントで、ナイーヴで、怖いもの知らずな、スペーシャルなお席で御座いますよ。私、貴女様の為に、特別なお席をご用意させて頂きましたから。3光年程前から列に並んで席を確保させて頂きましたのですよ。まあ、たかだか3光年と仰る方もおいでですが、私こう見えて、中々に忙しいものでして。今日も豚のフンを金塊に変換するためにせっせとケサランパサランを集めておりました処です。100匹ほど集めませんと、純度の高い金塊には成りませんからね。白粉も高級な物を使っていますのよ。あゝ、そうそう、貴女様もよくケサランパサランをお見かけするでしょう。彼らは気まぐれですから、私たちの処を好みそうな人間の元へふらりと遊びに行くのです。それで時々捕まってしまうのですがね。まあ、ドジっ子パサラン、パサパサラン!といったところでしょうか。おほほほほほ。」

男は次から次へと言葉を発していたため、僕は次第に疲れてしまい、その先の言葉には耳を伏せていた。男に導かれるままに、僕は空間の奥へと続く道を再び歩いていた。こちらの通路はさっきの通路とは違い、真四角で、壁面は黒色、ピカピカに磨き上げられた大理石のような質感の壁が真っ直ぐと続いていた。黒一色の通路に、男と僕が歩き、地面を靴が叩く音が不揃いに響いていた。

第5章 無線 Ⅰ



私の好きな色



私の嫌いな色



それは、空の色



それは、海の色







世界には
色々な色のアオがある

あ。

お。

あお。

あいうえお。

あを。

私はそこからきた
私はそこへかえる

私は私のなか
この形のうまれるまえの
遠いあの日

私の見たあおは
どのあおだったか

それは
煌煌と輝く種類の

それでいて
闇のようにふかいところ

おおらかで
ふくよかで
やわらかで
尖ったところのない

そんな あお

そんな あおのなかを
私は 泳いだ
私は?
ワタシは?
ワタシハ
ダレダ
ワタシハ カイタイサレル
ワタシハ チイサナ粒ニナル
ワタシハ カツテノ記憶ニナル
ワタシハ ワカタレタモノニナル

ニナル
トハ
嘘かもしれない

ナル
コトハ
ナイ のかもしれない

アル
コトシカ
本当は
ナイ
のかもしれない

ワタシハ
アル

アオ

ルツボ
ノイズ
明滅
ポツポツ
ピー
ポツポツ
ピー
ジジジ
ボコボコ
ポツポツ
ボコボコ
ポツポツ
ボコボコ
ジジジ
ジジジ
ジジジジジジ
ザー






…聴こえ…
ます…カ…

カツテノ…
かつての…

…ジジジ…



…ジジジ…
ザザ…



…記憶…

聴こえますか…

…ピー…

かつての…
…記憶の…まえ…



…そこにあります
…思い出せば
…ジジジ…
つくりだす…
アオ
…源…
忘れ…
ヲヲヲ…
…ぐすん…
………

ワタシハ記憶
ワタシハ青
ワタシハ空と海の間


第4章 無限定の白い空間

白い光の中。僕は目をあけた。辺りには形らしきものはまるでなかった。唯々、白い空間が広がっていた。何処まで続くのかもわからない無限の白の空間の中、僕は独り立っていた。

「ここは何処だろう」

そう口にしたつもりだったが、僕の耳に、僕の声は聴こえなかった。辺りを歩き回ってみても、僕の靴が地面を叩く音は聴こえない。どうやら、此処には音というものが存在しないらしい。もしくは、音が発された瞬間に、その音の波動が消え失せてしまうのかもしれない。理由はわからないが、此処には何ひとつ音が聴こえないことは確かなことだった。

僕は不安になり、右手の掌を自分の胸に押し当てた。僕は死んでしまったのだろうか。僕の心臓は動いているのだろうか。それを確かめるために。

僕の胸の奥にある心臓は、どくんどくんと力強く鼓動を打ち続けていた。右手の掌に、その鼓動を感じる事ができた。どうやら、僕は生きているらしい。心臓は動いているし、息もしている。白い風景しか見えないが、僕の目も確かに目の前の風景を見ることができている。だから、おそらく僕は今生きているということが言えるだろう。医学的には。動物学的には。

自分の存在の不確かさと目の前に広がる白一色の光景を前にして、僕は様々な仕方で、思考で、自分の存在を確かめようとした。日常的な生活から切り離されてしまうことで、人間は自分の生きていることにさえこれ程の不安を感じるのかと僕は思った。存在の不確かさ。実は僕たちは、本来、その不確かさの中で生きているのだという気持ちもしてきた。

僕の家の前には、大きな家々が並んでいる。朝、目を覚まして、辺りを散歩すると、早起きのおばあさんによく顔を合わせる。様々な種類の植物に覆われた古い一軒家を散歩がてら眺めるのは、僕の日課だ。日に日に一軒家を覆う植物の群れは成長しながら建物全体を静かに呑み込んでいくのだ。外壁は緑色のグネグネと折れ曲がった蔓に覆われ、締め上げられている。時折、その蔓に鳥たちがやってくる。鳥たちは、午前5時の空がとても好きらしい。人間たちが布団の中で夢を見ているまだ薄青い空を、鳥たちは楽しげに歌い、笑い、飛び交う。僕には彼らが一体何を言っているのかはわからない。けれど、僕は、鳥たちの声を聴くことがとても好きだ。彼ら一羽一羽は、それぞれのやり方で鳴き交わす。一羽として同じ声で鳴くものはない。今度、午前5時に目を覚ましたなら、朝の町中をゆっくりと歩いて見てほしい。鳥たちは、自分だけの声を持ち、自分だけの歌をうたっている。無数の声が青白い空の中に響き渡る。その素晴らしさといったら、他に例えようもないものだ。僕は鳥が好きだ。鳥のように歌えたらいいのにと何度も彼らの歌声を真似してみたものだ。僕は歌うことが好きだ。僕の身体の中に静けさが広がり、僕の口は自然と開き、僕の声は、僕の意思とは無関係に空へと差し出される。声は次の声を導き、言葉はなんらかの意味と意味とを一本の見えない糸で結びつけて行く。空に声で刺繍を施すような行為が、僕にとっての歌なのだと思う。目には見えない光の糸で空に僕だけの絵を描いて行く。描いてはすぐに消えてゆく光の声は、一体どこに消えてゆくのだろう。そんなことをいつも考える。光は僕らのそばにある。でもふれることはできない。こんなにも確かに、目の前の世界を照らしてくれているのに。僕は光に感謝する。光よ、有り難う。あなたのおかげで僕は世界を見ることができる。あなたがいなければ、世界はすべて、黒一色に覆われてしまうでしょう。黒一色の世界は、たぶんさみしいところでしょう。どんなに美しいものも、そこでは見ることはかないませんから。黒はすべてを含み混んでいるから、僕たちは黒から色を取り出すことができないのです。黒はこわいものです。黒は重力です。呑み込んでいってしまうのです。光よ、有り難う。あなたはわたしの希望です。


目の前に広がる白一色の光景を眺めながら、僕は独り、声にもならぬ声を用いてそのようにぶつぶつと呟いていた。

その時だった。

それまで何もないかのように見えた場所に扉が現れた。そして、扉は開かれた。僕は少し躊躇いがちに、その扉の方へ歩を進めた。

扉の前に立つと、白い扉には一枚のプレートが貼り付けられていて、そこにはこう書いてあった。

「この先、道先案内人。私は、あなたの中の誰か。ここに住む、小さな居場所。己を己と疑うならば、どうぞ、私のなかへお入りください。粗茶の一杯でも入れて差し上げます。あべこべは私の好きなもの。あなたの好きなものは私の嫌いなもの。でも、だからあなたは私のあなた。私はあなたの私。さあ、どうぞ。ゆっくりとお入りください。」

この先に何があるのだろう。僕は少し尻込みした。が、やがて決意を固めた。

進むしかないのならば、進むだけの事だ。此処は、僕の居場所ではないのだから。

僕は、白い扉の前に立ち、一呼吸をして、白い扉の中へと入り込んだ。

2014年7月18日金曜日

第三章 水族館の記憶 虹色に輝く海月



それは、酷く不可解な夢のような出来事として僕の前に現れた。辺りに、光らしきものはまるでなく、僕は、僕の身体の輪郭線を認識することすらままならない場所にいた。

ここは、何処だろう。
言葉にしようとしたが、声が出ない。自分では声を出しているつもりなのだが、発されたはずの僕の声は、僕自身の耳に届かない。

声を忘れた人間。
暗闇の底に沈んでいる。

僕は自分の置かれた状況を冷静に整理しようと試みた。しかし、その努力は、意味という意味をすべて削りとられた行為の死骸のようなものであった。

僕には、僕が見えない。
僕には、僕の周りが見えない。
僕には、なにも見えない。
ただ、暗闇の中に、僕のものらしき思考の断片が声もなく浮かんでいる。実体のない言葉。言葉を発する自己の消滅。ここはどこだ。

僕は目をつむる。
音すらも聴こえぬ闇の中。







大きさは、1mあまりだろうか。傘の厚さは、30cm。足の長さを含めると、全長はおよそ2m。虹色の光を放ち、深海をたゆたう、クラゲの群れが見える。

2009年7月21日。眩暈がする程に晴れ上がった空をこの身に浴びて、僕は1人、片瀬江ノ島水族館へ向かった。愛していた女にフラれた腹いせのつもりで、僕は、独り身の男にしかできない突発的な出来事を自分の力で起こしたいと考えた。そこで、水族館へ向かったのだ。あまりにも馬鹿馬鹿しいその行動は、今になって思い返すと呆れかえるが、その夏の真ん中で1人哀しみに暮れていた僕にとり、その行動は、この上なく必然的な行いのように思えた。

チケット販売所で、大人一枚の入場チケットを購入し、いざ、水族館の中へ。入り口付近では、焦げたサンマのように日焼けした金髪のカップルがイチャイチャと写真を撮っていた。その横を僕は無表情に通り過ぎた。そんなことに気を取られている場合ではないのだ。僕は、奥へ進まなければならないのだ。僕のために。

水族館には、たくさんの海の生き物が飼育されていた。

みなさん、お元気ですか!僕は元気!みなさんのために、芸を披露するために、この狭い水槽の中で生きてます!飼育されています。餌を与えられて、育てられています!毎日、好きな魚を食べられます!見てくださいよ、このお腹。なんともまあ、でっぷりと肥ったお腹です!ポンポン!ね、いい音がするでしょ!わはは。僕たちは、見世物です。僕たちは、あなたたち人間に見られるために生きています。鑑賞されることを目的に生命活動を持続しております。この水槽の中は、とても狭いです。少し肩が凝る時もあります。けれど、僕たちは生きています。心臓が動いています。息を吸ったり吐いたりしています。汚らしいウンチもします。つまり、僕たちは、生きています。おそらく、生きています。狭い水槽の中ですが。おそらく、あなたたち人間と、同じようなものでしょう。わははわはは。

皇帝ペンギンが、声を高らかに、そのような饒舌な演説をしていた。

僕は、部屋の奥に進む。

大きなガラスの水槽が、ペンタゴン型の空間を包み込んでいた。六角形の部屋の中で、僕は、ガラスに仕切られた偽物の海の中を泳ぐクラゲを見た。

クラゲ。漢字で書くと、海月だ。
海の中を泳ぐ、月。彼らは、暗闇を照らす月なのだ。とても綺麗だ。色とりどりの海月たちが偽物の海の中をたゆたっていた。様々な名前が付けられた海月たち。人間はなんでも名付けたがるものだ。名前がないと不安なのだ。名前などなくても、海月は確かにここにいるのに。この、偽物の海の中を、優雅に泳いでいるのに。

海月の、身体を、見つめた。
僕は、海月の身体を、あまりよく見たことがなかった。

半透明な身体。小さな斑点。これは口か。垂れ下がりゆらゆらとゆれる触手。青や黄色、赤や紫、緑や茶色、沢山の色をその身に纏う海月たち。優雅に泳ぐ。たゆたう。

2014年7月18日。
僕の前にいるこの巨大な虹色の海月。暗闇を照らす、七色の身体。ツルツルと光り輝き、黒い海水を掻き分け泳ぐ海月。その触手の一つに、僕は、ふれた。

目の前が、白く、光りはじめた。

第二章 My Blue Wave 白い少女は笑っている


蒸し暑い夏のある日の夜のこと。僕は、JR中央線の中、オルタナティブ•カントリーバンド Lambchop『Is A Woman』の「My Blue Wave」をiPodで聴いていた。

少ししわがれたvo.の歌声を、大らかで深みのあるグランド•ピアノ、アコースティック•ギターの音色が包み込む。僕は目をつむる。そして、イメージする。「My Blue Wave」。私の青い波のことを-



ひとりの少女が笑っている。
白い砂浜。流れ着いた木々。ガラスの瓶。片方だけ取り残された靴。

少女の肌は、閃光のごとき太陽の光に照らされて、シルクのように白く輝いている。

彼女は、誰だろう。
僕は、彼女の名前を知らない。
けれど、彼女は僕を呼ぶ。

「おーい、はやくはやくー。」

彼女の声に導かれて、僕は、歩きだす。サラサラとくずれる砂浜を足の裏に感じる。小さな小さな砂粒の集合体。白や黄色や茶やピンクのミクロな残骸。様々な過去の命の抜け殻が砕け散り、今、こうして僕の足の裏が踏みつける白い砂浜が生まれてきたのだろう。

細やかな生命の断片。
喪われた記憶は、海へと還っていったのだろうか。

彼女は、笑っている。
なぜ、だろう。
彼女は、笑っている。
なぜ、だろう。

僕は彼女の隣に立ち、海を眺めた。青い波の群れが、ゆらゆらと漂いながら、白い砂浜へ辿り着く。次から次へと。青い波たちは、永遠に砂浜に辿り着きつづけてゆく。これまでも。これからも。永遠。

遠く、海の表面は、太陽の光をはじき、ギラギラと、生き物のように蠢き出す。僕の目は、それを見ている。無数の、形のない、生き物の群れ、海、表面、乱反射する、光、の、群れ。

彼女は、笑っている。
白い歯を光らせて。
彼女は、笑っている。
なぜ、だろう。

なぜ、だろう。
なぜ、だろう。
なぜ、だろう。

僕は、彼女を、殺してしまいたい。
できるだけ、すみやかに。
できるだけ、愛をこめて。
できるだけ。できるだけ。

波の音が聴こえる。
波は、歌を、歌うだろうか。

僕には、海が、見えない。
東京の街には、今宵も雨が降る。

2014年7月13日日曜日

第一章 9つの月の兄弟 永遠に続く螺旋階段



「ねえ、知ってる?月ってね、本当は9つあるのよ。」

彼女は1人つぶやくようにそう言った。ベランダに腰掛け、細い指にラッキースターのタバコを挟み、彼女は月を眺めていた。今宵は新月らしい。僕は月をあまりしっかりと眺めたことがない。それは、僕にとっては単なる月であり、月以上のものではない。ごく普通の日常の中の、単なる部分に過ぎなかったからだ。彼女は続けて、僕に話を聞かせてくれた。

「遠い遠い昔。月は、9つありました。空がまだ、海とひとつだった時代です。月はとても寂しがりやでした。月は、いつも手を繋いでいました。9つの兄弟は、それぞれが違う光をその身に纏っていました。それぞれが、美しい光の衣を纏って、大きな大きな空の上、楽しげに暮らしていました。月は、赤子のように無垢な顔をしていました。月は、夢を見ていました。遠い遠い夢。その夢が何の夢なのか、月は知りませんでした。」

煙を燻らせたタバコを灰皿に押し付け、彼女はタバコの火をもみ消した。ウィスキーグラスに入った、透明な岩石のような氷が、カランと音を立ててくるりと回った。

僕は半年ほど前に、約2年間勤めていた会社を辞めた。辞めた理由は、言葉にすることはできるが、あえてそうする必要も感じなかった。ただ、僕は僕自身がその場所にいることが間違いであると感じたのだ。この場所、この時間から、僕は離れる必要がある。そう感じていた。特に躊躇いはなかった。理由もない事柄には躊躇いさえも存在し得ないのだと思った。

会社を辞めてからの僕は、一日一日のなかにいることを丁寧に感じていた。雑踏を蠢く、スーツに身を包んだ人々の群。映画の早回しのようなワンシーン。東京という街の中で、僕が目にする光景は、いつもそればかりだった。表情を亡くした人々の顔は、灰色だった。何かに怯えているようにも見えた。毎朝、駅前の喫煙所でタバコを吸うたびに、灰色の男たちの顔を眺めては、胸の奥に、酸っぱいものを感じていた。太陽の光は、どこか、造りものじみていて、どこにも逃げ場がないように、乾いていた。

それでね、と、彼女は、ぼんやりと物思いに耽っていた僕に話しかけてきた。話を続けるわね、彼女は、軽く微笑みながら、そう言った。

「月は、いつも、夢をみていました。月は、眠ることはありません。けれど、月は、いつも、夢をみていたのです。不眠の夢。目をあけながらみる夢は、月たちの唯一のたのしみでした。

二番目の月が、ある日、こう言いました。

「ねえ、僕たちは、いま、こうしてひとつだけど、いつかは、離れ離れになるときがくるのかな。そんなときがもしくるとしたら、それはすごくさみしいことだ。僕は、いつまでも、お前たちと一緒にいたい。いつまでも、お前たちと、ひとつの夢をみていたい。そんなことを思うのは、野暮なはなしかな。」

二番目の月は、少しかなしそうに、そう言いました。五番目の月は、こう言いました。

「そうだねえ。離れ離れになるのは、とてもさみしいことだ。僕らはきっと、いつまでも一緒さ。だって、僕たちは、みんなでひとつの月なんだから。みんなでひとつの夢をみて、みんなでひとつの月なのさ。だから、僕たちが離れ離れになることは、きっといつまでもないね。」

五番目の月は、自信満々にそう言いました。でもさあ、七番目の月が、喋り始めました。

「僕たちは、いつから、9つに分かれてしまったのかな。元々僕たちは、ひとつだったのかな。それとも、9つだったのかな。僕は、僕が生まれた日のことを知らない。僕は僕の生まれる前の世界を知らない。僕は、僕以前を、何も知らない。何も知らないことは、わからないことで、わからないことは、いつまでもわからないことなんだと思うんだ。」

七番目の月は、小さく縮こまり、肩をすくめて、言いました。みんな、その話を聞いて、考えてみました。

僕たちは、いつから、僕たちなのだろう。僕たちは、いつまで僕たちなのだろう。僕たちは、僕たち以前の世界を知らない。僕たち以前の世界は、僕たちを知らない。僕たちは、何処にいるのだろう。」

カタン。音がした。玄関の方からだ。あいつがもう帰ってきたのだろうか。いつもは深夜0時を過ぎてから帰ってくるあいつが、今日はやけに早い帰りだな、と思いながら、僕は立ち上がり、玄関へ向かって歩いてゆく。玄関のドアノブを掴み、ドアを開けた。外には、誰もいなかった。

「風の音だったみたいだ。」

僕は彼女にそう告げた。少し安心して、僕は彼女の側へと歩み寄った。彼女は僕の顔をまじまじと見つめていた。ちょうど、初めて幽霊を目の当たりにしてしまった人間が、その存在の不確かさに一切の思考を停止してしまったかのような顔だった。

顔。思えば僕は、彼女の顔をよく見たことがなかった。彼女の顔は、スッキリとした面長で、少し切れ長の目に大きな黒目、小さな耳にお気に入りのガラスのピアス、団子のような少し丸い鼻、薄い唇、白い肌に、セミロングの黒髪を少し乱雑に垂らしていた。彼女の大きな黒目は、まだ僕のことを見つめていた。僕のことを?どうだろう。僕のことを見つめているにしては、少し目の先が遠すぎるようにも見える。彼女の目に、眼球に、僕の姿が映っていることは確かだが、彼女の目に、僕は見えているのだろうか。彼女は、僕の何を知っているのだろうか。僕は、誰だろうか。僕は、僕のことを知っているのだろうか。僕。僕?ぼく。ボク。なんだか少し面倒な問題になりそうだったので、僕はその思考を中断し、彼女に尋ねた。

「それで、月たちは一体その後、どうなったんだい。まだ話の続きだったね。月たちは夢をみる。不眠の夢。眠らずに夢をみるなんて、月たちは器用だな。僕にはできそうもない。ただでさえ、普段の眠りでも夢をみないからね。」

そうかしら、彼女は静かに言った。

「私たちも、月たちと同じかもしれないわよ。私たちは、私たちが見ている世界が、現実だと思い込もうとしているのかもしれない。ちいさなときから、まだ、言葉も喋れないほどちいさなときから、私たちは、私たちの現実を、決めつけてきたのかもしれない。私たち以前に、この世界に何があったのか、私たちは知り得ないんだもの。私たちは、私たちの見ているものしか信じていない。私たちの目に映るものしか信じていない。私たちは、夢を見ているのかもしれない。永遠に醒めない夢。はじまりも終わりもない夢。その中を、魚のように目をあけて永遠に泳ぎ続けているのかもしれない。そうは思わない?」

「どうだろう。僕にはよくわからないな。僕にとって、僕の見ているものは確かにそこにあるし、僕の手の触れるものは確かにそこに触れることができるし、君とこうして会話もできるし、少なくとも、そういうことのすべてが夢だなんて、僕にはちょっと信じられないな。それに、夢は、醒めるから夢なんだろう。醒めることのない夢なら、それはもはや夢とは呼ばないんじゃないかな。」

時計の針が、正確なリズムを刻む。カチコチ、カチコチ、カチコチ、カチコチ…時計の針はは0時31分を過ぎたあたりを指している。窓の外は、静かな夜の闇に満ちていた。どこまでも続く黒い空。今夜は車の通りが少ない。とても静かな夜だ。街から、すべての人間が一晩にして消えてしまったかのような、静寂。仮にもし、本当にすべての人間が何処かに消えてしまっていたとしても、僕はそれに気づくことはないだろう。ある意味で、僕にとってそれは、どうでもいいことだった。すべての人間が消え去った街。想像してみる。どうだろう。悪い気はしない。静かな、静かな毎日が、ただ永遠に続いてゆく。誰もいない街。どんな感情も持たない街。子供たちのいない街。それは、もはや、街なのだろうか。人間のいない街、とは、街なのだろうか。どうだろう。よくわからない。

僕はいつも、気づくとこうした思考の輪の中でウロウロと歩いている。とどまることなく溢れ出す問い。問いが新たな問いを呼び、その問いがまた新たな問いを呼ぶ。答えのない螺旋階段。僕は永遠にたどり着くことのないビルの清掃員のようなものだ。任された仕事を完遂したいのだが、掃除すべき階が見つからない。どこまで登っても、どこまで降りても、そこにあるのは、永遠に渦を巻く、白い階段。僕は途方にくれる。手に握りしめたデッキブラシを投げ捨てて、このままパチンコでも打ちに行ってしまいたいが、どうやらそうすることもできないらしい。永遠に続く螺旋階段。僕は、永遠にたどり着けない。それもまた、いいのかもしれない。