2016年4月21日木曜日

外へと出るための森、その、夜の散歩

ふと誘われるようにして、夜の森へと散歩にでかけた。基本的には、夜の森には近寄らないことにしているのだけど、今夜はどうもそれが必要だと感じたのでそうした。夜の森は人間の入るところではない、ということは一面としてはわかっていて、だからふだんはそこへは近寄らない。そこは人間にとっての外なので、そこは危険なところなので、軽い気持ちででかけると帰り道をわすれてしまう。それは森にかぎらない。夜という時間にはそういう危うさがいつでもある。たとえそうして歩きでるのが人間の街だとしても、ときにはその見慣れた風景のなかで、しかし夜であるというその理由だけで、そこはいつものそこではないということになり、途方もない不安定さとともに、道端に立ちすくむときもある。そこは夜であるというだけでもうそこではないということがあるのだ。それはではどこなのか。それは夜のなかのそこである。そしてそれはそこでありながら、そこでさえないところにひらかれてしまっているために、ぼくはそこでそこではないそこのなかに呑み込まれて、帰り道を見失うことになるのである。それは危険なことだ。けれど僕はときどきそれをする。それを求める。それを必要とする。欲求よりは欲動であり、欲動でありながらそれはぼくにとっては必要である。そういう位相のなかにあり駆り立てられる散歩というものが夜にはあったりする。

家から国道とは反対の坂道をのぼりいつもの森へむかった。森へはいるには途中で右手にはいる必要があるのだけど今夜はどうも右手の森は深すぎると感じ、行ったことのない左手の道をまずは歩いてみた。その道はすぐに行き止まりとなっていた。家々が行く手を阻んだ。しかたないので来た道をもどり、右手の森へと歩きいった。夜の森はおそろしい。こわい。そんなことは知っているしそれはあたりまえだ。だからこそ行くのだからそれはそれでいい。こわいからこそ行くときにそこにしかいないものがいる。そこにしかいないものがいるからそこは昼のそことはちがってこわいのであって、昼のそこにはこわいと感じられないそれが夜のそこには感じられる、その、それ、に、会いにいくために、あるいはそれに包まれにいくために、そこに夜に行くというのはある。それは危険ととなりあわせである。だからこその意味がそこにはある。

夜は妖怪たちの世界である、といってもぼくは妖怪のことなど知らない。本でそう読んだだけだ。岩田慶治さんの本でもそんなことを読んだ。昼の世界と夜の世界のちがい。それらは同じものではない。だから昼と夜という言葉がある。岩田さんがフィールドワークした村では夜の世界は人間の世界ではないから、夜には村人たちは森には決して入ってはいけない、そこには妖怪たちがいる、そこは人間の世界ではない、という信仰があるらしく、彼らはその信仰とその教えにしたがって、夜の森には近寄らないらしい。その感じはとてもよくわかるなあと思いながらそれを読んだ。夜の森は、人間の世界じゃない。すくなくとも、いわゆる現代の人間らしい人間の世界じゃないから、夜の森に足を踏み入れるとき、ここには来てはいけない、という危険信号のようなものを肌やなにかで感じる。その直感、ないしは直観は当然のようにしてあり、それは夜の森に足を踏み入れるときにはかならずと言ってよいほどに確かに感じるものである。でも入る。なお入る。あえて入る。なぜそんなことをするのか。

答えは簡単だ。人間の世界から抜け出すためである。人間の世界ではない夜の森には人間のまま入ることは危険である。そこは人間の世界ではないから、人間のままではそこは人間にとって別の世界なのである、だからそこに危険を感じる、そこへ行ってはいけないと感じる、そこは別の場所だと感じる、だから、そう感じるのは別に自然なことだ、だけど、だからこそときどきそこへ行く、というのはあたまのおかしなやつだと思われるかもしれないが、だからこそ行くというのがぼくには正しい。そしてそれはふつうの意味ではあたまがおかしなやつだと言われてもそれはまあそうかもしれませんねと返すくらいのことで、おかしなことだと思いながらでもそれは必要なのだからしかたないのだし、ぼくにはそれは自然なことなのだから、ぼくから見ればそれをおかしいと言われる筋合いはないのだ、そんなことまで言う必要もないのだけど、まあときどきそうするのだ。それはぼくにはときどき必要なのだ、というだけのことである。

真っ暗闇の色に染まった樹々が生い茂って、空に無数の葉のあなぼこをあけていた。黒色の不規則な文様から朧月が時折顔をのぞかせた。

森の奥のほうで蛙かなにかがたくさん鳴いていた。ぼくは立ち止まって深く息をして、蛙たちのようななにかの鳴き声に耳をすませた。それらはそれらでありながら夜のなかでひとつであった。一。その不思議。そのことをこの頃はよく考えるようでもある。

昼の森には、あけひらいたあなからそのままにこのからだのうちがわのものを浄化し森へとかえすような感じがある。夜の森にも、そのようなものはある。けれど同時に、そのあなから、なにかを吹き入れているようでもある。昼もそういうこともある。けれどなにかがちがう。それが昼と夜のちがいでもある。夜のそれはさっきも言ったように危険なものでもある。それは越境する力でもある。夜の森は、だから、ここから先は行ってはいけないという見えない境目のようなものがある、それを感じる、そこから先へは行ってはいけない、それはぼくの警告かはたまた。そこから先へゆくとなにがあるのか。べつになにもないかもしれない。ただ、その先に惹かれるときというのは、どこかへとそのままに消えてみたいという欲動のなかにあるということを言ってみても、おおきくは違えていないことのように思われる。それは消失の欲動である。夜は輪郭を消し去る。暗闇の魔術はそれを可能にする。すべての影が溶解し、すべての形がそこに溶けだすことを可能にしてしまう力がそこにはある。それは消失の力だ。だから消失の欲動は夜の魔力に親密なものなのだと思う。だから夜にはあまりもやもやと思考など働かせないほうが身のためだ。夜は思考も溶解させる。真っ暗闇の溶解、その培養液のなかで、妖怪たちが遊んでいる。溶解しているさなかというものを人間はおそれるのでそれに名前をつけて、とりあえずは妖怪と呼んだりして、名前をつけることで関係を結ぶことができて、関係を結ぶことができるということはそれから離れることもできて、別れることもできて、分かることもできて、安全な共同体の内部、光の灯る家々で食事をしながら酒を飲み、楽しげなはなしをしたりもする。そんなふうにしていればいいものを、とおもいながらぼくはときどきそれでもなお夜の森にも散歩にでかける。それは妖怪たちに会いにいくことだ。と言ってしまえばそれはそれで間違いではないのだけれどぼくには妖怪というものはよくわからないのでとりあえずわかりやすく伝えやすくそう読んでみたりしてふざけているだけだ。別の呼び方でもべつにいい。夜に会いにいくでもいいし、暗闇に会いにいくでもいい。その表現のしかたに、ぼくにはさほどちがいはない。どれでもいい。そこに行くことが、そのなかに入り込むことが重要なことなのだ。

とりあえず生きている人間をいまはやめる予定はないのでぼくはべつにふつうに生きているのだけど、それでもまあときどきは息がつまるときもある。どうもなにかがつまる。そんなとき、生きながら人間をやめる、というか人間を離れることも必要になることもある。共同体の外にでることが必要になるときもある。森はむかしから共同体の外である。それは外の外にもつながるものだし、なんなら絶対的な外とともつながる場所だと思う。だから森は基本的に危険な場所である。でもだから必要なのだ。安全ばかりで囲い込むから息苦しくなるのだヒトは。

ともあれ今夜もいい夜だった。いろんなものが飛び交っていた。そこに入り込み、つまりはここから外へとでて、人間からすこし離れて、眼のありかたも変わる。それは具体的な変化だ。ぼくの眼の、眼球のありかた自体からして変わる。当然、見ることのしかたも変わる。その変化が、こうした小さな散歩のなかにある大切な事柄なのである。

夜はなにかをこちらに纏いもして帰るような感じもする。ひらいて、浄化するだけじゃあない。それもあるけれど、危ういものをも、こちらに纏って、それは纏うだけれども、うちがわに秘めて、ということでもあるかもしれないがそのようにして、家路に着く。

妖怪と歩いてるみたいだと言われた。ほんまにそうかもねと茶化し笑いをした。もう夜の散歩にはついていかないって決めたと言われた。だって森は来るなって言ってるように感じたもんと言われた。ぼくはそうだねと話した。だから行くんだけどね。とは言わなかった。行く必要がある人とそうでない人がいるだけのことだからそれはどちらでもいい。危うさのなかでしか得ることのできないそれをまた必要とするときにはまたその、別の、それでいてまたいつもの、夜の森にぼくはひとりで散歩にでかけて、また、人間からすこし離れてみたりもするのだろうと思う。ただそれだけのこと。

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