2015年7月12日日曜日

[断片小説]空白


「誰かに寄り添うことで寂しさを埋め合わせることはできても、それは一時的なものでしかないわ。裸になって、愛しあっているふりをして、あなたのことが必要なのと泣いてみても、現状はなにも変わらない。私たちはどうせ元々がバラバラなんだから。そんなわたしたちに、ほんとうに必要なことは、誰かに寄り添うことじゃなく、たとえば、虫たちの鳴き声が泣き声に聴こえた夜に、誰に電話をかけるでもなく、ひとり、自分の部屋のベッドの上に横になって、胸と頭の奥のほうを見つめて、そこに向かって新鮮な空気をそそぎこむこと、そして、ほんとうにひとりになることなのよ。わたしはそう思う。寂しさは、いつでもわたしたちの余白をうかがっている。その闇は、いつでもそこにあるものなの。それから逃れる手立てはないわ。逃れようとしたらすぐさま奴らは、あなたの胸の中にぬめりと侵入する。生暖かいぬめりを帯びた寂しさにふれるとき、わたしたちの心は凍えてしまう。だから、だれかの体温を求めるときもある。そんなときもあってもいいわ。欲望をすべて禁じることもまた、別の余白を生み出す力になってしまうから。余白を埋めること、そのやり方は人それぞれね。けれど、ひとつ間違えてほしくないのは、わたしたちのなかにある余白は、決して、永遠に埋まることはないということなの。余白は余白としてあるべきかたちであって、わたしたちは、それを恐れてはいけない。恐れが余白に闇を侵入させるから。余白を恐れないためには、そうね、ひとつには、空白のなかに飛び込むことよ。空白に飛び込むために必要なことは、あなた自身が、あなた自身のなかに、確かな空白を感じること、そして、その空白を愛することよ。そこにはなにもない。大きな大きな空白。それはまるで、色をなくした空のように広大で、すべてを包み込んでいる。そんなもの。あなたは、あなたのなかにある欠落を埋めるのではなく、欠落の穴に蓋をする見えない扉をひらくことが必要なの。その先には、なにが待っているかしら。それはあなたにしかわからない。そこには、おのおのの答えというものがあるだけだから。そして、扉は、どこまでも続いていく。無限に続く迷宮の館。わたしたちのいるこの館には、外壁というものがないの。だから、館の外にでることはできない。わたしたちは、いつまでもこの館のなかで生きていく。でも、怖がらないで。出ることができないということは、支配を意味しない。それは、こう言ってもよければ、わたしたち人間に許された自由というものの在り方なの。わたしたちは、何処かのなかでしか自由になることができない不自由な生き物で、不自由な生き物であるわたしたちは、何処かからの逃走を試みることはできない。ここからの逃走はあり得ない。だから安心して。あなたはいまここにいる。そして、わたしもいまここにいる。ここにいるということだけが確かなことよ。ここ、というのが、あなたにとって、どこなのかは、わたしにはわからないけれど。わたしはいま、iPhoneの画面を見つめて、無心でこの文章を綴っているわ。タッチパネルで文字が打てるなんて、ほんと、便利な時代よね。わたしがどこにいようとも、わたしはわたしをどこにでも現すことができるし、わたしはいつでも消えることができる。これって不思議なことよね。まるでどこでもドアのよう。あなたはいまどこにいますか?そこは快適ですか?ご飯を食べましたか?だれかのことを想っていますか?そこは暑いですか?そこは安全ですか?そこは放射能に汚染されていますか?無駄な建築物が建てられようとしていますか?光をうしなった目をした総理がいますか?国ですか?地域ですか?家ですか?人ですか?動物ですか?植物ですか?あるいは










わたし、ですか?

遠くの山で獣の鳴く声が聞こえたような気がした。わたしはこれからその山へと向かう。わたしは、もう、つかれてしまったのだ。人間らしい生活とか、権力とか、権威とか、名誉とか、評価とか、誰それが死んだとか、高校生が母親を殺害したとか、アザラシの子供が荒川に逃げ込んだとか、金がないとか、家がないとか、女がいないとか、当たり前とか、常識とか、保険とか、そういう、人間が人間として生きていく上での当たり前のことすべてに嫌気がさしたのだ。わたしは「わたし」をやめようと思う。しかし、それは世に言う「自殺」というものではない。わたしはまだ死ぬつもりはない。わたしはできるかぎりわたしを生きていこうと思っている。わたしはわたしをやめない。わたしをやめるときはわたしが死ぬときだ。

あの女が死んだのはいつのことだったか、もう忘れた。しかし、あの女は突然に死んだ。この文章の冒頭の「」でくくられたセリフをだらだらとわたしに吐いて、女は姿を消した。ヨンちゃんに尋ねてみたけれど、女の居所はつかめないままだった。ある日の新聞の見出しに、女の顔写真が掲載されていて、わたしは起き抜けに苦いコーヒーをすすりながらその写真を見た。女だ。わたしはそう思った。女は渋谷のとあるラブホテルの一室で殺されていた。手足はタオルで縛られていて、目には目隠しをされていたらしい。首を絞められて殺されたようだ。女には、そういう性癖があった。わたしは知っている。だからわたしは、女が、虫の鳴き声のことを忘れてしまったのだと思った。あんなことを言っていたのに。けれど、責めるつもりはない。人間は弱い生き物だから。

タバコを一本口にくわえて、ライターで火をつける、これはわたし。西暦2015年7月12日、日本国岐阜県恵那市大井町にいるわたし。わたしはどこにでもいる。

ヨンちゃんが死んだのは2ヶ月まえのことだ。買い物袋を自転車のカゴに入れて口笛を吹きながら住宅街の小さな交差点を曲がろうとしたときに、正面から来た車にはねられて頭を強く打って死んだ。ヨンちゃんの葬式にわたしは行った。ヨンちゃんの顔は青白くなっていて、冷たそうだった。それがヨンちゃんなのかわたしにはわからなかった。ヨンちゃんは火葬場で燃やされて灰になった。わたしはヨンちゃんの遺骨を鉄箸で摘まんで、ひとつ、ポケットに入れた。ヨンちゃんだったものの一部をわたしは盗んだ。いま、ヨンちゃんだったものの一部は、わたしの机の上に飾ってある。木の板の上に乗せるとそれは、古代のマンモスの化石の一部のようにも見えた。

マンモスだった頃のわたしは、いつも退屈していた。わたしの身体は誰よりも大きくて、牙を突きさせば大抵の敵は殺せた。わたしは無敵だった。だから退屈だった。退屈だったので、火山の麓にある洞窟のなかへ冒険に出かけた。洞窟のいりぐちはわたしの身体より大きかったので、わたしはなんなくそこに入ることができた。わたしは洞窟の奥へと進んだ。どれだけ進んでも洞窟の果てにはたどり着けなかった。わたしは怖くなった。生まれてはじめて、怖いということの意味を知った。わたしは帰りたかったが、後ろを振り返ると、そこはもう行き止まりになっていた。わたしはここからでることはできない。わたしは泣いた。わたしの目から涙がボロボロと溢れた。洞窟のなかは真っ暗でなにも見えなかった。目に浮かぶ涙のせいで、視界はさらに滲んだ。透明な視界がゆらいだ。ゆらいで、ゆらいで、ゆらいで、ゆらいで、ゆらいでいたら、わたしは、涙になっていた。わたしはマンモスであることをやめて、マンモスの涙になっていた。わたしには形がないので、下り坂になっていた洞窟の奥へと自然に流れ出していた。わたしは流れに身を任せた。どうせらここからは出られないのだ。わたしの好きにしてやろう、と涙であるわたしは思った。そう思うと、安らかな気持ちになった。どこまでも流れていくことができるような気がした。

「あなたは、わたし?」
「いや、わたしはわたしだよ」
「でも、わたしは、あなた」

気がつくとわたしは洞窟の岩から一滴一滴と垂れて固まっていた。いま、西暦5年7月12日。今日も外はよく晴れている。わたしは何億年か経って、固体になった。鍾乳洞というもののなかで、わたしは石になった。わたしは動けなかった。でも、動きたくもなかったから、別にかまわなかった。わたしはじっと洞窟を壁を見つめていた。女が立っていた。女はわたしのほうを見ているが、わたしのことを見ているのかはわたしにはわからかい。石になったわたしのことを女は気づかないかもしれない。無理もない。わたしだったら気づかない。女は、壁に絵を描いていた。不思議な絵だった。動物のようなものがいた。馬だろうか。植物のようなものがいた。稲だろうか。人間のようなものもいた。わたし、だろうか。あなた、だろうか。

わたしは、ただ、その絵を見つめていた。そしてわたしは、泣いた。わたしは、この絵こそ、わたしの探していたものだとわかったから泣いた。でも、涙は出なかった。わたしは石のまま、石のするように泣いた。女は、そこで息絶えた。


壁に引かれた無数の線を
わたしの目が辿っていく
それは
わたしの自由な散歩であり
わたしはわたしの目となる
線は夥しく己を繁茂し
生命の息遣いが
岩肌を震わせる
わたしの輪郭は
沙羅双樹の樹のように
目には見えない天空へと
光をのばす
手を
のばす
薄い空の色がわたしの目を染め
わたしは
わたしの空になる
空はどこまでも続いていた
わたしは鳥になり
歌をうたう
鳥は空を飛ぶことを知らない
だから
鳥は空を飛ぶことができる
わたしは空の青さを知らない
だから
わたしは
この空のした
無限の青の沈黙のなかで
本当に
自由の意味を知る

野生のオーケストラを聴く。僕は「モモ」。そして、あなたも。

音楽という言葉をつくったのは人間である。人間は言葉の生き物だから、人間は言葉がないと不安になるから、人間は言葉を持ち、ある物事に名前をつけることで、その物事と関係を持つことができるようになる、と、ドイツ文学者ミヒャエル・エンデも言っている。僕はミヒャエル・エンデの文学がとても好きだ。彼の見ている世界や耳にしている世界が好きだ。彼の書いた物語のひとつ、「モモ 時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」は、幼少期から何度も何度も繰り返し読んできた物語だ。読み返すたびに発見があり、名付けることのできなかった感覚に、名付けること以上の確かな感触の輪郭を与えてくれる、僕にとっての宝の書物だ。

モモ、という名前にも、親しみを感じる。僕はみんなに「モモちゃん」と呼ばれている。百瀬のモモで、モモちゃん。大学時代に友人と始めた地域型アートプロジェクトの現場である大泉学園の児童館のこどもたちに、「モモちゃん?! 女の子みたい!」とからかわれたりもした。確かに女の子みたいなあだ名だ。ミヒャエル・エンデの「モモ」も女の子だしね。僕は「モモちゃん」というあだ名が気に入っている。見た目は男臭いどころか老け顔でおっさんみたいな僕だけど、「モモちゃん」というあだ名のおかげで、外見に滲み出るおっさん度がすこし中和されて、男の子にも女の子にも親しみを持ってもらえるような、関係の入り口の広さを持てるような感じがする。百瀬という苗字は、長野県出身の父親の姓で、うちの父親と母親は僕が11歳のときに離婚をしたのでほんとうは僕の苗字は母方の旧姓である「磯村」に変わるはずだったのだけど、母親が気を使ってくれて、僕の苗字は「百瀬」のままになった。もしも僕の苗字が「磯村」になっていたら、いまは「モモちゃん」じゃなくて「イソちゃん」になっていたのだろうか、と想像すると、苗字が変わらなくてよかったなあと思う。「イソちゃん」はなんだか嫌だ。磯。海の生き物みたいで、岩に張り付いていそうで、なんだか海藻っぽくて、地味だ。あ、でも、海の生き物みたいな感じは、いまこうやって書いてみて、悪くないなとも思った。けど、やっぱり「モモちゃん」のまんまでいいや。

ミヒャエル・エンデの「モモ」は、寂れた円形劇場に住んでいて、ボロボロの服を着た女の子。僕はモモが好きだ。モモはなにもできない女の子なのだけど、人の話をほんとうに聴くことができるところがいいところ。モモの元には、多くの人たちがやってきて、困ったり悩んだり怒ったりしたときに、モモのところへ話をしにいく。モモはなにも答えないけど、モモに話をしていると、みんないつの間にか自分のなかの負の感情がなくなって、悩みもすっかり解決してしまうんだそうだ。

ほんとうに聴くことは、なかなか難しい。人と人とは、違うからだ。同じ人間だけど、それは、「人間」という名前を人間がつけただけで、「人間」もみんな当たり前にそれぞれ違っていて、それぞれの気持ちや想いや考えや記憶や未来や身体や魂を持って生きている。だから僕たち人間は、基本的に、わかりあえない。わかったつもりになっても、それは、知っている範囲でわかったつもりになっているだけで、1人の人間のことをほんとうにわかることは、たぶん誰にもできない。みんな、みんなのなかに、それぞれのみんなを拵えている。それぞれの像を拵えている。そうしないと、なにもわからなくて不安になってしまうんだろう。僕たち人間は、わからないということにすごく臆病な生き物だと思う。名前をつけることは、だから、人間が臆病な生き物だからはじまったことなんだろうなと僕は思っている。名前をつけることで関係をすることができるようになるけれど、実は、名前をつけることによって、切り捨てられてしまうものがたくさんあるのだということを、僕たちはふとしたときに忘れてしまうようだ。

恋をすると、その人のことを知りたくなるのはなんでだろう。知りたくなることと、恋をするということは、同じだろうか。恋をするということと、好きということは同じだろうか。好きなもののことは知りたくなる。だって、好きだから。でも、なんで、好きだと知りたくなるのだろう。考えてみるとよくわからない。ただ、知りたくなるのだ。知りたくなって、知っていくなかで、いろんなものが見えてくる。いろんな声が聞こえてくる。好きな人のことがわかったような気がしてくる。わかったような気がしてくると、その人に近づいたような気がしてくる。そうすると、安心する。近づいたような気持ちになるためには、相手にも自分のことを知ってもらうことだったりも必要になる。そうやって人と人とは親しくなっていく。でも、やっぱり、ほんとうにわかることはないのだと思う。わかること、それは、分かること、で、分かること、それは、分けること、だから。人間は分けられない。僕の身体を真ん中で真っ二つに分けてみても、見えるのは、真っ二つになった僕の身体の中身だけで、そこに僕はいない。分けることでしかわかれないのだけど、わけることではほんとうにまるごとのことはわからないのだから、僕たちは、名前を持ってみても、わからないことをわからないままに生きていくことしか、たぶん、できない。そして、僕は、それでいいと思う。わからないことをうれしく思いたい。

「モモ」の物語のなかに、こんな一節が出てくる。

「時間。それは、いつもひびいているから、人間がとりたてて聞きもしない音楽。でも、わたしは時々聞いていたような気がする。とっても静かな音楽。」

モモは、人の話をほんとうに聴くことができる女の子で、だから、人々が聴くことのできない、ほんとうの音楽を聴くことができるんだなあ、と僕は思っている。ほんとうに聴くとはなんだろう。言葉にすることに意味はないかもしれないけど、でも思うのは、人の話をほんとうに聴く、ということは、その人のなかに、すでにある、けれど隠されて見えなくなっている、聞こえなくなっている答えを、その人自身が、見えるように、聞こえるようにするために、耳を澄ましてあげることなんだと思う。話を聞くことは、答えを用意してあげることじゃなくて、もう、答えは、その人のなかにあるのだから、それをただ、聞いてあげればいい。どこに隠れているんだろう。うんうん。そうか。そうだね。うん。わかるよ。うん。ああ、そこにいたのか。聞こえてきた。聴いているよ。

答え、という言葉がふさわしくなかったら、それを僕は、その人のなかに隠された「音楽」だと言ってもいいと思ってる。「音楽」という言葉。そんなものは音楽じゃないだろう、と言う人もいてもいいと思う。言葉は、さっきも言ったように、誰かが作ったものだから、それが意味するもの、つまりは、言葉の線が引かれた領域、を、どこまでのものとするかは、ほんとうは、ひとりひとりの手に委ねられているのだと思うから。ほんとうの意味、は、自分で決めればいいのだと思う。意味は、言葉、から生まれ、言葉、は、人間、から生まれた。そして、人間、は、それぞれに違う生き物だから、言葉、も、それぞれに、ちがってもいいのかもしれない、そんなふうに僕は思う。

すこし話が逸れてしまったけど、「モモ」は、人の話をほんとうに聴くことができる、それは、人のなかに隠された言葉・音楽を聴くことができることだと僕は言った。耳を澄まして、その人の言葉・音楽を聴いてあげることで、その人のなかに眠っていた言葉・音楽は、動き出して、形をつくって、奏でられていくのかもしれない。そんなふうに、「モモ」は、聴く。だから、人間がとりたてて聴きもしない音楽を、彼女は聴くことができる。

だとすると、どうだろう。ほんとうに音楽を聴く、ことも、ある意味では、人の話、人の言葉・音楽を聴くことと同じように、「モモ」の周りに、あるいは、僕たちの周りに、言葉で言うところの「自然」に、耳を澄まして、「自然」のなかに隠された言葉・音楽を、聴きだすということなのかもしれない。僕はそんなふうに思っている。

音楽は人が名前を与える前から、ここにあった。この世界にあった。いまだに「音楽」という言葉を持たない部族もいるくらいだ。彼らは、「音楽」という言葉を持つ必要がなかったから「音楽」という名前を与えることなく音楽とともに生きている。それは、関係をする、ということを自覚的に行おうとしなくても済むほどに当たり前なものとしてある、自分、などというものから、名前をつけて切り離す必要のないところにある、そういう類の音楽、音楽というものをそういうものとして、生きている、のだと思う。

ほんとうに聴くことは、すでにある、隠されたものを、聴くこと、なのかもしれない。

僕は昨日、想像ラジオという名前で、録音物を公開した。そこには、「野生のオーケストラ」というタイトルをつけた。名前をつけたのだ。どうして名前をつけたのかというと、名前をつけてあげることで、そこに録音された、僕がその時にいた、その時に聴いていた、時空間に生きている、すべての生き物、すべての存在を含めて、僕はそれを「音楽」だと思っている、ということを伝えたかったからで、そんなものは音楽じゃないという人たちに、「あ、これも、音楽かもしれない。音楽って、こんなに当たり前で、自然なことなんだ」と思ってもらいたかったのかもしれない。それはすこし僕のエゴなのだけど、でも、そういうふうに耳をひらくことで、世界に隠された音楽は、より一層、多くの人の耳によって奏でられていくことになるのだから、それはすごく素敵なことだなあと僕は思ったのだ。

「野生のオーケストラ」は永続する。いつまでも続いていく。でも、録音物は時間を切り取るから、昨日、僕がいた、僕が録音していた時間のなかに聞こえた音がそこには残されている。それは、生きているものたちの音や声で、それを僕は、うた、音楽だと思っているから、「野生のオーケストラ」という名前をつけた。みんなが、それぞれの生き方で生きている、その瞬間瞬間に発しているすべてが、音楽で、それは、野生のなかにある無数の存在によって奏でられるオーケストラなのだ。そして、録音をしている僕の気配や、呼吸や、聞いていたピアノの音や、思いつきで弾いたギターとうた、が、虫たちのアンサンブルの裏でかすかに聴こえる。こんなにも人間が奥に引っ込んで虫や鳥がメインで歌っているオーケストラの録音物はなかなかないんじゃないかなとか自負したりする。(笑) まあそれはどうでもいいんだけど、とにかく、僕も、野生のオーケストラの一員なのだ。そこが大事。僕は僕の音楽をやっているわけではなくて、僕は音楽によって奏でられているだけだということ。そのことがきっと大事なのだ。

だから僕は、どんなものとでも音楽をする、というか、音楽のなかにいる、し、音楽を奏でる、奏でたい、と思う。それは、ほんとうに聴くことのひとつのかたちでもあるのだと思う。

僕は、百瀬雄太。でも、僕のなかにも「モモ」はいる。ミヒャエル・エンデが、「モモ」という名前を与えることで僕は「モモ」と関係することができて、「モモ」は「モモちゃん」のこどものころからずっといっしょに生きている。僕は「モモ」。そして、僕は、聴くことが得意だ。まだまだ「モモ」には敵わないけど。でも、もっともっと、ほんとうに聴くことができるようになっていきたいと思う。ほんとうに聴くことができるようになっていけば、僕たちは、「音楽」という言葉に囲われて怯えなくても、ほんとうに、音楽を生きることができるのだから、それはきっと、とても愉快で、幸せなことなんだと、そう、思っている。

2015年7月11日土曜日

[エッセイなるものについての無意識的接近]「書く」ことについて書く

この頃何気なくいろいろな文章を書いてみたりしているんだけど、そのなかですこし気づいたことがある。それは、「書くという意識を持つ」ことと「何かについて書く」ということの微妙だけどけっこう大きな違いについてだ。

何かを言葉にするにあたって、書くための道具を手にすることはどちらもおなじだ。ペンでも筆でもiPhoneでもかまわないけれど、どんな道具を使うとしても道具がないことには人は言葉を書き記すことはできない。だから、何かを書こうと思うとき、かならず人は「道具を持って、書こうとする」という意識を持っている。これはきっと誰でもおなじだ。意識を持って主体的に「書こう」としなければ人は書くことができない。動作のはじめには意識(それは意思と言ってもいいのかもしれない)がある。意識がある故に人は書くのである。

でも、意識だけでは人は何かを書くことはできない。村上春樹も言っているけれど、物書きの多くは、書くことを決めてからそれについて書くのではなくて、書きながら考えるものだ。ぼくは「物書き」なんていうたいそうな肩書きを語れるほどの力も実績もないし、そんな人たちと自分のことを重ねて考えるのはすこし恐れ多いのだけど、でも、春樹さんの言っていることはこれまで自分が何かを書く上でも感じてきたことなので、感覚としてわかる気がする。

書きながら考えるってのはどういうことだろう。言葉を書き記すなかで言葉はだんだんと連なっていって、そこに意味も現れてくる。書いているときぼくは書くことのなかにいて、もちろん言葉を書くのだから、次に何の言葉を書くのかということについてたぶん考えている。考えながら書いている。でも、自分の書いている最中のことをよくよく検討してみると(ぼくはいまこの文章を書きながら自分の「書く」ということを見つめて、その仕方がいかなるものなのかについて考察し考えている。書くことについて考えながら書く言葉を考えている。なんだか奇妙な感覚だ。)、ぼくは自分の言葉というものを自分で選んでいる感覚がほとんどないことに気づく。言葉は選んでいるのだけど、その判断はあまりにも一瞬の出来事なので、ぼくは自分がその言葉を選んだということのなかにある選択理由を知らないし、それはなんとなくそうだという感じが一番近い。言葉をそんな風にひとつひとつ選んでは書き記していく。気づくとそこにはひとつの文章が出来上がっている。なんとなく選んだものの連続が意味をつくりあげていく。

「なんとなくなんてそんなテキトーなことしちゃあいけないよ」という声もぼくのなかのだれかが訴えかけてくるときもあるのだけど、じゃあ「なんとなく」ではない仕方で言葉を選ぶというのはどういうことか。それはたぶん、意識的に言葉を選んで、何かを書き現わすために書くという事なんだろう。何かを明確に、必要な言葉だけを使って、説明していく。いや、説明だけとはかぎらない。たとえば詩を書く場合だって、必要な言葉を選んだり推敲したりするのだから最後に意識が仕事をすることに変わりはない。

でも、じゃあ、仮に意識が最終的に言葉を決定するとして、つまりそれが「なんとなく」ではない仕方でひとつの言葉を必然的に選んで書き記すのだとして、その「意識」というものはなんでその言葉を選ぶのか考えてみる。意識的になにかを選択することはぼくたちの日頃の生活のなかでもあたりまえにしていることだし、そのことにいちいち疑問をもつことはないだろう。そんなことをしていたらぼくたちは何気ない日常生活を送ることさえできなくなってしまう。意識的になにかをする、ということの裏側にも、かならずなにかしらの無意識というか、隠された理由というか、そんなようなものがあるんだろうし、ぼくたちは日頃そういうよくわからないものに動かされながら行為する。意識的にできることはもちろんたくさんあるけれど、意識したってできやしないこともたくさんある。ぼくは身体を壊してからというものそんなことをとてもよく感じるようになった。

身体って不思議だ。すごくあたりまえの話だけど、ぼくたちの身体のなかではぼくたちの意識なんてものには関係なくいろんなものが動きつづけている。意識的に心臓を動かすことはできないし、意識的に血を流すことも体内の細菌を殺すことも爪を伸ばすことも人にはできない。それらは勝手に動いたり伸びたりする。無意識に、という言葉はぼくが「ぼく」を中心にして考えるときに出てくる言葉だけど、「無意識に動かす」というよりは「ぼく」の体内にある身体の諸器官たちが勝手に動いてくれる、だからその動きをはっきりと意識するのであれば、主体はぼくでなく彼らということになる。もしも彼らの動きというものにもぼくが「書く」というときとおなじように意識、あるいは意思というものが必要だとしたら、彼らは彼らの意識、あるいは意思に基づいて行動していることになるのだけど、ほんとうにそうだとしたら彼らの意識、あるいは意思というものは「ぼく」というものが持っているそれらとは別のものだから、彼らは「ぼく」ではないということになるのだけど、でも彼らがいる場所はぼくが「ぼく」として考えるぼくの身体のなかで、その身体があってはじめてぼくは「ぼく」となり得るのだから、彼らもまた「ぼく」である。言葉で辿っていくとどうにもこうにもややこしい話になるんだけど、要は、ぼくという人間(ぼくにかぎらず世界中のひとりひとりの「ぼく/わたし」たち)には、様々な意思や意識みたいなものを持っているかもしれないものがあって、それらがどういうわけかいっしょになって動いているからぼくはぼくとして生きていることができるし、ぼくはいまこうして「ぼくが書くということ」についての文章を書くことができるというわけだ。なんだかあたりまえの話だけど、とても不思議なことだ。

話がすこし脇にそれてしまったけど、だから、ぼくがなにかをするということはぼくの意識だけでなされるものじゃない。ぼくが「書く」という極シンプルな行いのなかにも、ぼくが感知することできないぼくなかの様々なものが動いているのだ。ひょっとしたら、感知できるもののほうが少ないのかもしれない。息の仕方を知っているなんて奇跡だよと言ったボブ・ディラン。ぼくはあなたに心の底から共感するよ。

「何かについて書く」ということにたいして、ぼくはこんなふうに思うんだ。「何かについて」ということを意識のうえに乗せたまま書くこともできる。その目的にむけてひとつひとつの言葉を選んでいくということもできる。できるというのは全部が「ぼく」の思いのままってことではないのだけど、すくなくとも、ぼくがあたりまえに「ぼく」を生きるうえでの「できる」という意味で。ただし、注意しなくてはならないのは、たぶん、文章というのも生きているのだということ。「生きている」と言うと誤解されるかもしれないけれど、ぼくが「生きている」と言うのは、ぼくが「ぼく」というものの全体をすべて把握して理解することができなくて、ぼくの部分を寄せ集めたところで「ぼく」というものが出来上がるわけではないのと同様に、文章も、実は部分部分にわけてしまうだけでは有機的なものにならないんじゃないか、っていうこと。とてもきれいな言葉を選んで使っていて、文章も整ってきれいなのに、なぜだか読みにくくて仕方ない文章というものはたくさんある。それはたぶん、その文章のかたちを整えようとするあまり、意識的に言葉のひとつひとつを選ぶことにやっきになって、文章全体の流れを殺してしまったからだと思う。文章の流れとはなにか、ということを意識的に説明することはとても難しいんだけど。それは読むひとが感じるものでしかない。だって、言葉は紙の上に痕跡として残っているけど、印字された言葉は動かないからそこには運動性はなくて、運動性のないものには流れというものは生まれないはずだ。だとすれば、文章は、人がそれを読むという運動性のなかで流れというものを再生産するということになるのかもしれない。読み返すことで生き返すとも言えるのかも。これは文章の不思議なところ。ぼくはそれを音楽とおなじように「グルーヴ」という言葉でとらえていて、ぼくはやっぱりグルーヴ感のない文章はうまく読むことができない。文章に大切なのはなによりリズムなんじゃないかとすら思ったりもする。だって、読まれることがなければ文章はそこに書かれたことを理解してもらうこともできなくて、言葉と言葉のなかで生まれるものを味わってもらうこともできないのだから、それはある意味で死んでいるんだと思うから。どんなにいいことを書いたつもりでも死んだままでは仕方ない。

「何かについて書く」という意識はうまく使ってやらないと文章を殺してしまう気がするんだ。目的にむけてとか、部分ばかりに目を奪われて、意識ばかりに頼りすぎてしまうと文章のリズムは悪くなる。文章が呼吸しなくなる。まずは書いているものに呼吸をさせることが大事なのかもね。呼吸をしはじめて、生きはじめて、それをひとつのかたちにしていく。多少の書き直しもあるかもしれない。意味を説明するために必要な言葉と、その意味では必要なさそうに見える言葉と、いろんな言葉が寄り集まって連なって文章というものはできていくから、必然性とかいう言葉に囚われていると言葉がつまらなくなってくるかもしれない。流れに必要なものは自然に残す。あ、なんだか文章って河みたいだな。淀みなく流れる河は美しい。美しい河は愛される。愛された河には人が集まる。淀んでしまった河には人が集まらないから、そこにどんな生き物が住んでいるのかということにだれも気づかない。淀みのなさって大事だ。

[小説似て非なるものへの断片]② 無数の声はやがて一つの声になる

無数の声はやがて一つの声になる

そこで僕が見つけたのは、謎の集団だった。全身を一枚の白い布で覆い隠し、その布と同じ素材で作られた白い帽子を被った人々が数え切れないほどにそこにいた。帽子は顔を覆うように作られているのでひとりひとりの顔を識別することはできないが、そこには老若男女様々な人々がいた。肌の色から考えると、おそらく日本人ではないと人々もたくさんいる。僕は街灯の陰に身をひそめて様子を伺った。一体彼らはどういう集団なのだろう。新手の新興宗教の集まりだろうか。それにしては数が多い。このあたりでこんな集団を見かけたのは初めてのことだった。同じ形の白装束を身につけた集団を見つめていると、布と布とが重なりあいひとりひとりの輪郭がぼやけて、まるで白い布でできた一つの生き物のように見えた。

しばらくして、集団の中から1人の男が小高い丘の上に登り、集団にむけて号令のようなものを口にした。男の発した言葉は聴き覚えのない奇妙な言葉だった。その言葉を聞くやいなや、集団は一斉に同じ方向を向いてぞろぞろと歩きはじめた。僕はその集団のあとをつけることにした。

白装束の集団はしばらく歩き続けた。彼らの足取りはゆったりとしていたので見失う心配はなかった。道の端々にある物陰に身を隠しながら、ある程度の距離を保って僕は彼らのあとを追った。

どれくらい歩いただろう。似通った森のなかを歩いていると時間の感覚が奇妙に失われていった。二股に分かれた道を右へ左へと歩き続けた。まるであみだくじみたいだ。

それからまたしばらく歩いたところで、白装束の集団はぴたりと足を止めた。僕も木陰に隠れて足を止め、彼らの様子を伺った。集団の前方に目を凝らしてみると、そこには岩山があった。岩山には無数のオレンジ色の光が灯されていた。オレンジ色の光はおそらく蝋燭だろう。ここからではそこまで仔細に確認することはできない。白装束の集団の前方、岩山の麓には洞窟の入り口が見えた。集団の指揮をとった男がここでもう一度号令をかけた。そして集団は1人、また1人と岩山の洞窟へと足を踏み入れていった。

最後の1人が洞窟に足を踏み入れてから、僕は洞窟の近くへ素早く移動して、辺りの様子を伺ってから、洞窟のなかを覗き込んだ。洞窟のなかには濃密な暗闇が満ちていて、一メートル先の地面さえも入り口からでは見ることができなかった。僕は躊躇した。けれど、そこへ足を踏み入れることに決めた。そこに入らなければならないと感じたのだ。僕は一度、深く息を吸い込み、それを吐き出した。そして、その暗闇のなかへ足を踏み入れた。

白装束の集団
聖堂
合唱
それは、
言葉なき言葉で、
声は、
メロディではなく、
通奏低音を奏でる
それらは無数の人間の口から発されて、交じり合い、反響し、新たな声を生み、すべては一つの複雑な歌声へと変貌する。それは嵐のようであり、同時に揺りかごのようでもある。怒号のようでもあり、同時に、賛美歌のようでもある。決められた音はあるのだろうか。ないのかもしれない。彼らはある種の自由のなかでそれを歌う。歌とは彼らにとってそのような種類のものだった。みな、どこでもないどこかを見つめて声を発しつづけた。その歌は空間に渦を巻いた。渦は次第に強くなり、そして、聖堂に灯された無数の灯火の塔色の光が宙にぽぅっと浮かび上がる。音に導かれるようにして、それらの光は宙空に渦を作りはじめる。音の渦巻きに巻き込まれる。巻き込まれて、光は、声の渦の中心に吸い寄せられていく。無数の光が渦を巻き、そこには塔色の実を無数に実らせたひとつの巨大な渦巻き状の卵のようなものが出来上がる。卵の外皮は声が物質化されたものだ。それはなめらかな薄いエメラルドグリーン。その卵にヒビが入る。そして、卵が割れた。次の瞬間、卵のなかから七色に輝くとろりとした液体が四方八方に飛び散り、僕の視界を覆った。

次の瞬間。僕は、不思議な草原を眺めていた。

[童話への接続的自己批評解析]「あべこべの男」の独白文

身の軋みは生への衝動かはたまた苦悩への呪縛か。近ごろよく考える。考えても答えは見つからない。なぜなら答えはどこにもないからだ。いや、どこにもないというのはすこし、ちがっているのかもしれない。それは答えという形を持ってどこかに隠されているものではなく、問い続けることそのプロセスの連綿と続いていくなかに瞬間的に立ち現れるものなのかもしれないとおもう。意のままにならぬということの最も強力な壁は己の身体である。身体自体を自らの意志で組成することはできるか。それはある意味ではできると言えるし、ある意味ではできないと言える。強制を行うことは容易だ。訓練により、鍛錬により、研鑽により、形成を行うことも可能だ。表面的には。いや、内実としても、弛まぬ努力によってそうした身体を獲得していくこともできるだろう。けれど、身体自体に宿る意志そのものを、身体をも含めたひとつの我が身として導いていくことはおそらく簡単なことではないし、はっきりいって人間にはそんなことはできないのではないかというのが現時点でのぼくの回答である。だとすれば、この身体自体に宿る意志そのものを、太陽に向けて自然に成長へと導いていくために必要なことは? その問いに対するかつてのぼくの回答は、意志するところの己をそのままに行動させることであった。それ以外に方法があるだろうか。未分化な状態で、常に変容し、生成し続ける己が心身に対して固定化された方法論を叩きつけ調教することの愚かさをぼくはこれまで幾度となく繰り返してきた。その結果はいつも決まっている。痛みによって動けなくなる自己との衝突である。度重なるこの経験に対してぼくはその度ごとにこう自分に言い聞かせてきたのだとおもう。俺の意志が弱いからである。意志を実現する力が足りない。実行せよ。形づくれ。行為せよ。示せ。立ち振舞え。発言せよ。疑え。狡猾に突き崩せ。明滅せよ。抗え。争え。弱きに手を差し伸べよ。権力を疑え。名声を疑え。疑え。疑え。疑え。そして、信じさせろ。理解させろ。覚えさせろ。正しさを。…

無限の螺旋のなかで死への衝動を撹乱し続ける日々は永遠に続くのだろう。そこに終わりはない。終焉の鐘は鳴らない。街は静まり返ったまま、反逆者は遂には自分の喉元に自らの剣を突き刺すことになるのだ。それではいけない。ゆえにぼくは飛来し、静寂への逃走を試みた。逃走することによる闘争。見えない自己との衝突。この闘いにもまた終わりはないのかもしれない。しかし、そこにはまた別の世界がある。接続過剰の世界の枠組みに自らを追いやりその形を身に刻み付けようとするマゾヒスティックな欲望、あるいは、強いられた欲望にぼくはもうとらわれたいとは思わない。だとしても、静けさをこそ求めているのかと言えばそうとは言えない。疼くのだ。傷が。呪いだろうか。そんなことはわかりはしない。ただひとつ言えるのは、それでも俺は俺だということだけだ。

[童話 似て非なるものへの断片] 「あべこべの男」= 神経症患者の身体感覚の童話的解釈

むかしむかし、あるところに1人の男がおりました。その男は、ふつうの人とはちがう、あべこべな心と体を持った男でした。

男の体は、動かそうと思うやいなや動かなくなり、動こうという意思を綺麗さっぱりわすれてしまうと、するすると動きだすのです。

動かそうという意思がはたらくと、男の体に張り巡らされた毛細血管の一本一本が金属の鎖に変化して、男の体を内側から縛りあげてしまうのです。だから、男は、動こうとすると、動けなくなるのです。

男の心もまた、体とおなじような性質を持っていました。男の心が、何かをしようと思うやいなや、男の心は、まるで宇宙にあるブラックホールのように、内側へ向けた引力に引きずられて、ちいさく閉じていくのです。男の心が、何かをしようという意思を綺麗さっぱりわすれてしまうと、男の心は、まるで空のようにおおきくひろく広がるのです。

男の心と体は、男の意思にいつも逆らうのでした。男の考えは、いつも、男の心と体に裏切られてしまいます。男は、そんな自分の心と体を憎んでいました。「どうしておまえたちは、主人である俺の言うことを聞かないんだ!それどころか、俺の考えといつも反対のことばかりしやがって!心も体も、俺のもんじゃないか!俺のもんなんだから、俺の言うことを聞け!」男はいつも怒っていました。でも、男の怒りの矛先は、男のなかにある心と体ですから、男は、自分にむけて怒っているのです。

自分の心と体にむけて怒っている男。では、怒っているのは、男の、何なのでしょうか。男は、自分の心にむけて怒っているのですから、怒っているのは、心ではありません。男は、自分の体にむけて怒っているのですから、怒っているのは、体ではありません。そもそも、「怒っている」というのは、感情をあらわす言葉です。感情とは、では、男のなかの、何なのでしょうか。普通、感情は、心とともに語られます。怒ったり、悲しくなったり、さみしくなったり、うれしくなったり、たのしくなったり、そういうことは、みんな、心の動きだと思われています。心が動くから、感情は生まれるものだと思われています。だとすると、男が怒っているというのは、男の心が怒っているわけです。男の心が、怒りとい呼ばれる感情へと動いて、男の心が怒っているということになる。でも、不思議です。男が怒っている、その対象は、男の心なのですから。男の心が、男の心にむけて怒っている。これはなんだか、不思議です。怒るくらいならば、心は、怒ることのないように、自分で、自分の心地よいほうへ動いていけばいいのですが、なぜだかそうはいきません。男の心は、男の意思をからかうみたいに、いつも男の望む心のかたちから逃げていくのです。

男の心が男の意思から逃げていくように、男の体も、男の意思から逃げていきます。男の意思に逆らうみたいにして、鎖になってしまった男の体の節々は、男の意思ではどうすることもできません。男はさほど軟弱者ではありません。「鎖ならば、引きちぎってしまえばいいではないか!」そう思って、自分の体を縛りつける自分の体の無数の鎖を引きちぎろうと、体をぐりぐりねじってみたり、大きく背伸びをしてみたり、肩や首をぐるんぐるんと回してみたり、思いつく動きをぜんぶ試してみたりしました。けれど、体を締めつける鎖はいっそう硬くなり、トゲトゲとしたイバラを生やして抵抗するものですから、男にはなすすべがありません。男が力を入れれば入れるほどに、男の体は、硬く、締めつけられていくのでした。

男は、困っていました。自分のものであるはずの自分の心と体が、自分の思い通りにならないのですから。男はうんざりしていました。意思なんてものは、なんの役にも立ちゃあしねえ!と男はすっかり、男の意思への信頼をうしなってしまいました。

ベッドの上に寝転がって、男は、考えました。「俺の心と体は、俺の思い通りになりゃしない。両方とも、俺の意思に逆らいやがる。…でも、じゃあ、俺の意思って、なんなんだ。」

男はこれまで、ずいぶんと長い間、意思というものを信頼してきました。男は、自分の意思が、自分の心や体を動かすものだと考えていました。だから男は、男のなかにある意思というものが心と体の主人だと思っていました。男にとって、心と体は、意思に従う召使のようなものでした。

あべこべの心と体を持つ男は、はじめからあべこべの心と体を持っていたわけではありませんでした。男は、自分の意思を信じていましたから、意思がやりたいようにやらせていました。いろいろなことがありましたが、男は意思を信じて生きてきました。それで間違えたことはなかったからです。

でも、ある日、男の心と体は、あべこべになってしまったのです。男は、意思をあまりにも信じきっていたので、心と体が発する声に耳をすませてこなかったのです。心と体は、男のためにがんばってきました。男の意思が、どんなことを要求しても、ずっと耐えてきました。ぜいぜいと息を切らしても、心と体は、意思の命令に応え続けました。そして、とうとうある日、心と体は、嫌気がさしてしまったのです。彼らはもう意思の言うことに耳を貸さなくなってしまいました。あまりにも見返りがなかったからです。やってらんねえよ。心と体は意思に逆らうようになってしまいました。

意思は困ってしまいました。どれだけ怒号を発しても、もう、心と体は動いてくれません。それどころか、意思の命令と反対のことをするように、心と体は動いてしまうのです。さあ大変。意思は自分の仕事ができなくなってしまいました。困った困った。意思は頭を抱えてしまいました。

意思は頭のなかに住んでいます。頭のなかから命令をだすのが意思の仕事です。けれど意思は自分の仕事が進まなくなってしまったので、仕方なく、頭のなかでゴロンと寝転んでしまいました。「あーあ、あいつら、今日も働いてくれねえよ。なんで俺の言うこと聞いてくれねえんだよ。まったく。職務放棄だっつーの。給料泥棒め。仕事しろ仕事ー。ったく、どいつもこいつも、俺様が誰だかわかってんのかねえ。意思だよ意思。わかる?みんな俺に従うの。俺は王様。命令をだすのが俺の役目。なのに誰も俺の命令を聞きゃあしねえ。あー、腹がたつ腹がたつ。まーったく。ひまだから不貞寝したろ。」仕事が進まなくなって、意思もこんな調子です。あらあら大変。男のなかのみんなは仲違い。男のなかは、なにも動こうとしません。

男は、男の意思や心や体によって男として生きていますから、当然、意思や心や体が動いてくれなければ、男は動くことができません。男は動けないまま、困ってしまいました。「困ったなあ。意思も、心も、体も、だれも動いてくれやしない。いったいどうすればいいんだろう。いったい、だれの機嫌をなおせばいいんだろう。困ったなあ。」

[小説 似て非なるものへの断片] ①

思い出すのはいつも群青色の空とオレンジ色の砂漠の光景だった。

僕はいまベッドの上に屍体のように横たわっている。僕がこの病院に来たのはちょうど2年前。病が発覚し、医者にすぐに入院するよう言われた。毎日は同じような姿をしてただただ静かに過ぎていく。新米の看護師である坂田さんはいつも僕にこう尋ねる。「痛いところはないですか?辛くないですか?なんでも、言ってくださいね」と。僕は、ああ、大丈夫です、と答えることにしている。言葉にしたところで伝わらないことをあえて口にするだけ無駄だと思っているし、彼女にわざわざ心配をかけるようなマネをしたくないという気持ちもあったからそうしていた。

退屈な日々だったが、好きな時間もあった。夕暮れ時の空を眺める時間だ。この時間だけは誰にも邪魔されずに済んだ。オレンジ色が滲んだ空をぼんやりと眺めていると硬くなった心と顔の肉がやわらかくなるような気がした。

僕の身体はもう動かない。医者はそう説明した。色んな言葉で、詳しく理由を説明したり、励ましたりしていた。僕にとってはなんの意味もない言葉だったので、聞いているふりをして、うんうんと頷いていた。説明されなければわからないことは、説明されてもわからないことだ。僕はひとり、沈黙のなかに静かに横たわっていた。

暗い海の底にいた。辺りは真っ暗で何も見えない。音も聞こえない。怖い。しかし、怖いと感じたのはじめだけだった。慣れてしまえばこの暗闇もそう悪いものではなかった。東京の満員電車のなかで見ず知らずの人間たちと身体を押し付け合い、窒息寸前になりながら仕事へと向かう日々よりはマシに思えた。都心には人間という名前をした真っ黒な海が広がっていた。僕はそこで溺れていた。息が出来なくなっていることすら気づくことができなくなっていた。人間の海の怖さはそこにある。そこからは逃れられたのだ。誰もいない深海の、孤独な暗闇ならば別に怖くはない。少なくとも僕の背中には酸素ボンベがあるのだから。

記憶を辿りながら、想像の砂漠の上で旅をする。この身体はもはや死んでしまった。医学的には生きていることになるのだろうけど、僕にとっては死んでいるのだからそれは関係がない。死に客観はないのだ。誰も、他人の死を体験して見ることはできないのだから。

想像の砂漠の上を僕は歩く。サラサラと崩れ去る砂の上、僕は歩を進める。辺りは次第に暗くなってきた。ギラギラと輝く銀色の太陽は地平線に姿を隠し、砂漠に夜がやってくる。

渋谷。六本木。新宿。酒を飲み、タバコを吸いながら、クラブで夜な夜な遊んでいた僕は、東京という街、ネオンの海に揺らめく一匹のクラゲだった。ダンスミュージックが鼓膜と内蔵を震わせる。四つ打ちのビートに腰を振る。金髪の美女たちが男にハグを求める。僕は目をつむる。そして、音に身をまかせ、踊り狂う。身体を包み込む音の海に溺れた快楽主義者は、いま、孤独な砂漠の上で星の瞬くリズムに目を踊らせる。群青の闇に煌めく星々の群れは踊っている。そこには、生成と消滅が繰り返されている。星は新たに生まれ、そして、消えてゆく。僕の目は生成と消滅の群れを眺め、僕の身体は刻一刻と死んでゆく。細胞のリズム。生成と消滅のダンス。生きていることと死んでいることはいつも同時にある。僕は生きている。そして、死んでいる。現在進行。時は止まらない。変えられないものに抗う必要はない。それが自然というものだろう。

思い出すのはいつも群青色の空とオレンジ色の砂漠の光景だった。

ただ、それだけだった。

「死にたい理由を、聴かせてください」

不特定多数、匿名、に、「死にたい理由」を話す声を集める。自殺大国日本。年間3万人が自殺するこの国の抱える闇を見つめ直すためには、机上の空論や推察をすることではなく、生きている人間の嘆きの声、言葉そのものを聴くことが必要なのではないか。話すことで、それを聴いてもらうことで、それを言葉にすることで、消化・昇華されるものがある。人間の抱える問題を分かち合うためには、まず、僕たちは、聴くことから始めなければならない。

永続する無数の「うた」を愛して 「Voices Ge Wald」の思想の一端

自然界には無数の音が常に生成と消滅を繰り返している。ひとたび森のなかに分入れば鳥や虫や獣の声が聴こえてくる。沈黙はどこにも存在しない。声は世界を満たし、ひとつの音楽を形成している。その音楽は、始まりも終わりもない永遠に持続する音楽であり歌である。かつてブライアン・イーノが提唱した概念であるアンビエントは、音楽というものの担い手を自然界の音響に接近させていく思想であったと私は考えている。聞かれることのない音楽はこの世界に溢れている。人間の歌もまた、自然界の音響と同様にかつては、ただ、歌われるものであり、それは数多の声たちと同じ価値を有するものであった。昨今の歌は、聴くことを前提に据え、ドラマを描き、何かを表現するという目的のために従属する声というものだけを歌として認識している。歌の原始を取り戻すために僕は、再び、歌を、無数の声の蠢きとして響かせることにした。非人称的な声たちは、しかし、それぞれの存在・身体から切り離すことのできない個を有しながら、全体として、あるひとつの目的に向けられたものではないカオティックな音響を構成し、アンビエントとしての歌が立ち上がる。脱目的性。歌の根源をここに取り戻すための、常に生成される音楽としてのインスタレーション作品である。