2014年6月18日水曜日

吉村萬壱『ボラード病』読後記

吉村萬壱氏の『ボラード病』を読み終え、今、僕は、我が家の台所の椅子に腰掛け煙草に火をつけた。煙を深く吸い込み、肺の奥にたまった重苦しい息を吐き出している。奇妙な充足感。これは一体なんだろう。まだうまく呑み込めずにいる。噛みきれない魚の刺身を噛み続けているようなもどかしさと共に、脳みそに爽やかな風が吹き抜ける。ああ。言葉にしているうちに少しずつわかってきた。これは、安堵だ。おそらく。ある種類の、深い諦めの中にある、静かな安堵なのだ。「ボラード病」僕はこの病を知っている。その名前を知らなかったが、僕はこれをよく知っている。今、僕の中に吹き抜けるもどかしくも爽やかな風とそれがもたらす安堵は、名付けられたことによる安堵なのだ。そして、その安堵は、わたしという人間が日常の中で感ずる得体の知れない悪の名前を知る、吉村萬壱氏という作家がこの小説を書き上げ、それをわたしが読むことのできたということの中に生まれた、孤独からの脱却であるのだ。

この小説に登場する街、海塚。ここは、何処にもない街だ。架空の街。フィクション。だが、この街は「存在する」。僕らは知っている、この街のことを。この街に蔓延る「悪」の存在を。

ディストピア小説。ジョージ•オーウェルの『1984』がよく知られている。この小説も、ディストピア小説の一つである。悪の桃源郷。しかし、オーウェルのそれとは違い、『ボラード病』は、現代社会に直結する近未来小説であり、そこに抉り出される「悪」は、仮想された未来のそれではなく、現代の生々しい病理である。

簡潔な文体。温度を欠いた描写。感情を感じられない人々のしぐさ、表情。読み始めは、その手法が、吉村氏が、読者へ、物語の入り口を広く設定するための懇切丁寧敬意としてのスタイルなのかと考えたが、読み進めるにつれて、その考えを超える何かを感じ始めた。あまりにも、奇妙なのだ。世界が、冷え切っている。死んでいる。日常の風景の中に、生の気配があまりにも希薄なのだ。その奇妙な世界の質感に、僕の心は冷えていく。なんだこの街は。なんだこの人間たちは。忍び寄る恐怖に身体がこわばっていく。そして、気づくのだ。この奇妙な世界の温度の理由に。

正常さとは何か。異常さとは何か。

僕たちは、世界に線をひく。「病」は生産され続ける。ミシェル•フーコーが、その生涯を通して示したように。「病」は造られ、再生産され続けて行くのだ。社会の存続のため?そんな綺麗な言葉で片付けてはならない。社会秩序という名の裁断機が、世界にはみ出しものを生み出すことは、必然なのだろう。

認識。境界。秩序。病。正義。排除。悪。美。

海塚は、綺麗だ。

綺麗すぎるのだ。

汚いものを、見えなくしてしまったから。

東日本大震災以後の世界。
この小説は、抵抗である。

僕はその抵抗に最高の敬意を払いたい。

僕も、「病」を携え生きる人間だから。

冷ややかな世界へ、冷笑を。
「ボラード病」

勇気を頂きました。
吉村萬壱さん、素晴らしい作品を、ありがとうございます。

2014年6月11日水曜日

コンセプチュアル•ライブ 第一回 《幻想都市》 朗読 詩

2014年6月7日
ライブ
『幻想都市』

僕の日々
僕の夢
日常と幻想の境界線

夜の音楽
死へと接近する
防波堤のむこうがわ
空と海のあ還る場所

《光のワルツ》5分
光のワルツが 朝を知らせる頃
夜は音もなく消えて
暗闇から光がさしこみ
ワルツを踊る
青色のワルツ
透明なガラスの靴
取り残された光のワルツ

《ハワイアン•イマージュ》5分
空想の島国へ旅立とう
ピンク色のハワイ諸島
貫くように青い空と海
だが それも 幻想
幻想のなかで 僕は 踊る

《Never Ending Dancer's Blues》4分
子どものころ僕らは
なんでも夢をみて
いつでも僕らは自分の手で
つくっていた
それなのにどうだい
僕らは歳をとるたびに
決められたことばかりやることが
うまくなって
何も作れないような
凍えた手で この空を眺めてた
踊りつづけよう
ダンスは止まらない
踊りつづけよう
ネヴァーエンディングダンサー

《How do I know》2分
どうすればいいかは
知っている
僕は知っている
あなたも知っている
どうすればいいのかは
自分が知っている
知らないうちに 知っている

《安里屋ユータ》4分
都ハズレのおまえのこと
さあ 宵 宵
内なる声が 響く夜に
坊やは 神様よ

《思考至上都市》7分
直線で区切られた街
死の匂い
忘れてしまった
あの頃の記憶
思い出せよ
思い出そうよ
あの頃に描いた
夢の街

空が堕ちてくる
色も形もなくなって
獣たちの群が蠢いて
空が
空が堕ちてくる
色も形もなくなって
色も形もなくなって

《空と海が還る場所》10分
誰も知らぬ街で
言葉もない街で
ふたり 手をつないで
深く深く 潜ってゆこう
怖がらないで いいよ
そこは 僕らの街
僕らの故郷

ポツポツポツ
光が満ちてくる
虹色の海月をくぐり抜けて
深く 深く
そこで見かける
血の色

誰も知らぬ街で
名前を忘れた場所へ

還ろう 還ろう 還ろう
空と海が還る
すべてのものが還る
ひとつに還る
空と海が還る場所へ
還ろう 還ろう 還ろう

黒煙と夜の綴り書き

黒煙と夜の綴り書き

一神教とグローバル資本主義。
この両者の相関関係。中沢新一が指摘している通り。脱原発を叫ぶ世論。社会は政治のみではなく、文化を取り戻すタームに差し掛かっている。

一神教的世界がコンピュータというバーチャルテクノロジーを生み出した。我々の世界は、時空を超えてコネクトされる。身体感覚の根ざす土地がないがしろにされていく。ビット構造の支配は、もはや不可視で複雑な、ハイパーリアルな世界を構築する。我々の身体性はどこに消えゆくのか。

音の原始性に取り憑かれて久しい。なぜだろうか。特に理由を考えてこなかったが、そこに、確信めいたものを感じてきたからだろう。グローバルでハイパーリアルな世界の中で、構築主義的な美学のきな臭さに本能的に抵抗しているのかもしれない。

西洋音楽、ひいては、西洋美学的な世界は、線引きを旨とすると僕には思える。西洋哲学が固執してきた概念なるものの存在。そこに、この世界の固定性と、その不自由さをみる。世界は綺麗になりすぎてしまった。匂いが消え失せたのだ。泥の匂い。インディアンの神話が伝える世界の創世記。我々の世界はぐにょぐにょとした泥からつくられた。泥はいま乾きつつある。もう一度、水が必要なのだ。境界を越境するために。我々のひいた、砂の上の線を静かに洗い流すために。

20世紀初頭。ピカソ、ブラックらを筆頭にその姿を現してきた芸術運動がある。キュビズムがそれだ。ピカソは、美しく描けすぎたのだ。世界を、綺麗に描けすぎた。そのような美辞麗句が許されるのであれば、ピカソはその過剰さゆえに、転向を余儀無くされた。黒人芸術に出逢い、ピカソは新たな道を模索した。未開芸術の可能性を見出したのは、ピカソに影響を受けて彼を乗り越えんとした天才、岡本太郎にも見受けられる。縄文時代の土器に巻きつけられた文様の荒々しい美しさ。そこに潜む生命の躍動。彼らは、構築され、フラット化され、綺麗に整いすぎた社会と文化の両面の危険性に警笛を鳴らしていたのかもしれない。あるいは、自身の魂のフラット化に抗わんとするがために。

ボードリヤールが示したように、我々の世界のあらゆるものはシミュラークルと化した。記号性。その構造から逃れるものはあるのだろうか。記号の超越。しかし、その先にしかない、血のかたまりのような存在の本質が確かに在ると私は信ずる。なぜなら、生は、生きているからだ。記号は生きられない。それは、記号が本質的に、生ではないからである。

構築、構造と、記号は、まるで相性の良いカップルのようだ。彼らは、腕を組み、この世界をプラグラムする。神は言葉を用いた。世界に線が引かれる。名前が与えられる。認識が与えられる。世界は、理解できるものになってしまった。

理解できないものを知りたいというパラドキシカルな欲求は、構造への抗いだろうか。僕らはいつも問うている。問うことそれ自体がまた構造化されることを知りつつも、問う。

問うて、何を、みる。

線引きのないものへ。
時代への逆行性を強く意識する。
その先にしか、未来はあり得ないという深い直観。その直観を信ずるもの達が、少しずつ、世界を変えんと、行動をはじめている。拡張する領域。混じり合う。色と色との混合。その先にあるのは、黒か、はたまた。

解放宣言。
あるいは、自由への希求か。
僕はうたう。その自由を。
かつて喪われたものを弔おう。
我々の世界の彫刻を、泥へと返し、再び、その血と、肉体を持って、つくりなおそう。

そのために、潜る。
深く、暗い、その場所へ。
コスモスへのダイブは死へと接近する。しかし、それも必要なのだ。生ばかりが称揚された現代社会の末路は、死からの逃避であり、その必然的な不幸性と結びつくのだから。我々は、超克しなければならない。死への恐怖を。その言葉を。その先にある、生々しい生命の瞬間に触れるために。心地よいはずはないのだ。避け続けてきたものなのだから。だからこそ、逃げてはならない。もう、逃げ切ることはできないと知っているのだから。ならば、深く、挑めばいい。血まみれで、笑おう。この世は楽園さ。

歌おう。死の歌を。
共に奏でよう。
形から解き放たれて。
本当の自由の意味を知る時だ。
僕らは知っている。いつでも。
How do I know
真実はいつも僕らのなかにある
世界は僕らのなかにあるのだから

深い一拍 ゆれる呼吸

あるいは、こんな風に言えるかもしれない。うたうことを必要としなくなるためにこそ、うたいつづけているのだ、と。この逆説に込められた真意を、当の本人である僕でさえも説明し切ることは困難であるように思う。しかし、そうとしか言いようのない事柄というものがこの世にはあるのだということもまた、真実なのだと思う。

吸いなれたタバコを咥え、火をつける。もうもうと煙が立ち込めるキッチン。ぶおんぶおんと周り続ける換気扇の音を聴きながら、煙を肺に流し込む。強張っていた身体の内側の筋を丁寧にゆるめてゆく。呼吸。この不思議。硬く、ぬるい、息を吐き出す。「時代に合わせて呼吸するつもりはない」そう言った男は死んだ。

頑なに遠ざけていた舞台。なぜ遠ざけたのか。何を恐れていたのか。今ではその答えも肚には響かない。時間が流れて、何かが変わったのだろう。意思とは無関係の何か。その何かが、決定的に変わり、世界を決定づけてしまうことはあり得るのだし、現にそれは、僕たちの世界の、目には見えない領域で、日々、着々と、世界をつくりかえている。なぜだろうか。僕は人々の前でうたをうたっている。なんのために、という問いに答えられるような答えは今はない。ただ、そのような時が来たということなのだろうと思う。意思とは、そんなに簡単なものではないのだ。それは、捉えようもないものであり、意思することは、能動的な行動であるとは限らない。少なくとも、自分なるものが、自分なるものでコントロールできるものではないことを知っている人間にとっては。

降り続いた雨もあがり、晴れ間がさしたある日の午後。舌がヒリヒリと痺れるような珈琲を飲みながら、一冊の本を読む。

『こんな風に過ぎて行くのなら』浅川マキのエッセイ集である。浅川マキは、生涯、己の美学を貫き続けた稀有な女性であろう。漆黒の衣裳に身を纏い、ステージ上でタバコをふかす。徹底的な美学は、彼女の文体にも現れている。とても寂しく、深い文章だなと思う。静けさに包まれる。安らぐ。哀しみのなかに生きた女の体温を感じる。

「忍び込んでくるのは奇妙な寂寞感、安堵の気持ちじゃない。アルバムを創る毎に同じ気持ちに陥ちていく。僅かな日々のなかに色濃い影を落として去って行った男たち、深い一拍を想う。だが、わたしのなかを犯していくのは決して安直なセンチメンタルではない。
  いまこのとき、プロデュースした三枚の素敵な完成度の高い作品たちに酔いしれながら、やっぱり同じ気持ちに落ち入った。

「どうしてなのかなあ」
数多くの作品を創るたびに感じてきた。音楽と云う形では見えないものだからか。いや、そんな事では毛頭ない
「創る」と云う事は、寂しいことなのだろうか。」

近頃、少しだけ、彼女のこの文章に寄り添う自分の在ることを知る。

心地よさという隠された悪


心地よいものに満足できなくなったのはいつからだろう。心地よいものは、言葉の通り、心地よいものなのだから、それにふれ、そのなかに包まれるようにして在るとき、僕は安心する。安心。心が安らぐということ。心地よいものに満足できなくなったということは、心が安らぐことに対して何らかの不満、違和を感ずるということになるだろうか。満たされることと、それはイコールだろうか。満たされ、足ることが、満足であるとすれば、心地よいことと満足とは別の事柄であると言える。つまり、僕は、心地よさでは満たすことのできない、別の何かを求め始めているということ。心地よさへの違和は、日に日に増していく。心地よさは、退屈へと繋がるものでもある。僕は退屈を拒否したい欲望に駆られている。退屈こそは、僕にとって、なんらかの悪なるものであるという感覚があるのだ。退屈は十全さとは相容れない感覚である。心地よさと退屈という、歯車の両輪に対して、鋭く否を突きつけていたいのだ。退屈は、消費である。消費は記号である。脱記号性、脱消費…それは取りも直さず、僕たちが安易に咀嚼することのできない、ある種の恐さを孕むように思う。疑問符の中にある、豊潤な官能。世界は理解できない。だから美しいのではなかったか。心地よさへの回収を僕は拒否する。それが、不器用な行いであろうとも。

「再生」と「再/生」の差異

舞台の上で音楽を奏でるとき、自分の身体の不思議に出逢うことがよくある。いや、近頃は、毎度毎度、初めての感覚に出逢い、その感覚を確かめる。あれはなんだったのか。自分に問いかける。

緊張とは不思議なものだ。人はなぜ緊張するのか。間違いを恐れることで、人は緊張する。しかし、緊張することによって人は間違いをおかす可能性を高める。正しさと間違いのせめぎ合いのなか、身体はどんどん不自由になる。

僕は緊張しいだ。いや、だったという過去形の方が適切かもしれない。近頃、ライブで緊張することはあまりなくなった。もちろん、本番が始まる前までは、笑顔の裏に堅さを隠している。うまくいくのか。間違いをおかしはしないか。そんな不穏な考えが頭の中を浸すときもある。手が思ったように動かない。焦る。

しかし、なぜだろう。近頃はそうした感覚が、舞台に上がったその瞬間に消え失せる。肝が座ったということなのか。はたまた、慣れというものなのか。実感としてはこうだ。「間違いは、無い。だから、間違えようがない。」ステージが始まるとき、僕は、完全に自由になる。間違いは、もちろん、客観的にはあり得るだろう。バンドならなおさらそうだ。しかし、どうだろう。自分の身体から生まれた楽曲を演奏するとき、その正解は、自分しか知らない。正解は、自分の線引き一つだ。つまり、正解は、ないとも言える。自分が決めた正解から外れることを恐れるとき、演じ手は緊張をするのだろうと最近気づいた。正解がないのであれば、間違いは無い。間違いが無いのであれば、間違いようがない。ならば、緊張も存在しない。自由しかないのだ。

音楽は、自分の身体を通して表現するものだ。それも、その場、その場において、一度きりのものとして現出させるものだ。この点については、異論はないと思う。(ラップトップによるライブを僕はライブと思わない)問題はここから。ある楽曲を、再現することを目指す表現か、それとも、現在性において創出することを目指す表現か、この点が、ライブという場では、大きな特性を各々に宿すところであると思う。

個人的な考えだけを付す。僕は後者が好きだ。前者は嫌いだ。なぜなら、前者は退屈だからだ。再生されるもの…「再生」か「再/生」か、言葉であえて区別するならば、ここにはれっきとした差異が存在する。決められたことを守り、それをそのまま現出することを僕は「再生」であると考える。それは、変更、逸脱、消去、偶然…その他諸々の、諸要素を排し、完成されたものと完全に同様のものを現出すること、それが「再生」である。では、「再/生」とは何か。それは、「再生」とは反対に、「再生」の排する諸要素を、受動的に受け入れる態度、そして、その態度をもとに、一度完成されたものを、もう一度、はじめて出逢うもののように現出する、その一回性への飽くなき探求であると僕は考える。このように言うと、そこにれっきとした差異などあるのか、という疑問がわくかもしれない。しかし、それはれっきとした差異である。それは、現出されるものと出会うときに、確かに感じられる、差異である。音楽の、ライブに関して言えば、僕は確実に「再/生」を愛する。そこには退屈の余地はない。今、まさに目の前で誕生せんとする音の生命の躍動に、心が震わせられる。

「再/生」こそが、音楽の原初性である。なぜならば、完全なる「再生」の歴史など、たかだか100年余りの歴史しか持たないものだからだ。音楽は、何度も、生まれ直す。初めてのように。そこにこそ、音と出逢う悦びがあるのだと僕は強く感ずる。「再生」ではなく「再/生」へ。その道をひた走りたいと思う。