2014年6月11日水曜日

黒煙と夜の綴り書き

黒煙と夜の綴り書き

一神教とグローバル資本主義。
この両者の相関関係。中沢新一が指摘している通り。脱原発を叫ぶ世論。社会は政治のみではなく、文化を取り戻すタームに差し掛かっている。

一神教的世界がコンピュータというバーチャルテクノロジーを生み出した。我々の世界は、時空を超えてコネクトされる。身体感覚の根ざす土地がないがしろにされていく。ビット構造の支配は、もはや不可視で複雑な、ハイパーリアルな世界を構築する。我々の身体性はどこに消えゆくのか。

音の原始性に取り憑かれて久しい。なぜだろうか。特に理由を考えてこなかったが、そこに、確信めいたものを感じてきたからだろう。グローバルでハイパーリアルな世界の中で、構築主義的な美学のきな臭さに本能的に抵抗しているのかもしれない。

西洋音楽、ひいては、西洋美学的な世界は、線引きを旨とすると僕には思える。西洋哲学が固執してきた概念なるものの存在。そこに、この世界の固定性と、その不自由さをみる。世界は綺麗になりすぎてしまった。匂いが消え失せたのだ。泥の匂い。インディアンの神話が伝える世界の創世記。我々の世界はぐにょぐにょとした泥からつくられた。泥はいま乾きつつある。もう一度、水が必要なのだ。境界を越境するために。我々のひいた、砂の上の線を静かに洗い流すために。

20世紀初頭。ピカソ、ブラックらを筆頭にその姿を現してきた芸術運動がある。キュビズムがそれだ。ピカソは、美しく描けすぎたのだ。世界を、綺麗に描けすぎた。そのような美辞麗句が許されるのであれば、ピカソはその過剰さゆえに、転向を余儀無くされた。黒人芸術に出逢い、ピカソは新たな道を模索した。未開芸術の可能性を見出したのは、ピカソに影響を受けて彼を乗り越えんとした天才、岡本太郎にも見受けられる。縄文時代の土器に巻きつけられた文様の荒々しい美しさ。そこに潜む生命の躍動。彼らは、構築され、フラット化され、綺麗に整いすぎた社会と文化の両面の危険性に警笛を鳴らしていたのかもしれない。あるいは、自身の魂のフラット化に抗わんとするがために。

ボードリヤールが示したように、我々の世界のあらゆるものはシミュラークルと化した。記号性。その構造から逃れるものはあるのだろうか。記号の超越。しかし、その先にしかない、血のかたまりのような存在の本質が確かに在ると私は信ずる。なぜなら、生は、生きているからだ。記号は生きられない。それは、記号が本質的に、生ではないからである。

構築、構造と、記号は、まるで相性の良いカップルのようだ。彼らは、腕を組み、この世界をプラグラムする。神は言葉を用いた。世界に線が引かれる。名前が与えられる。認識が与えられる。世界は、理解できるものになってしまった。

理解できないものを知りたいというパラドキシカルな欲求は、構造への抗いだろうか。僕らはいつも問うている。問うことそれ自体がまた構造化されることを知りつつも、問う。

問うて、何を、みる。

線引きのないものへ。
時代への逆行性を強く意識する。
その先にしか、未来はあり得ないという深い直観。その直観を信ずるもの達が、少しずつ、世界を変えんと、行動をはじめている。拡張する領域。混じり合う。色と色との混合。その先にあるのは、黒か、はたまた。

解放宣言。
あるいは、自由への希求か。
僕はうたう。その自由を。
かつて喪われたものを弔おう。
我々の世界の彫刻を、泥へと返し、再び、その血と、肉体を持って、つくりなおそう。

そのために、潜る。
深く、暗い、その場所へ。
コスモスへのダイブは死へと接近する。しかし、それも必要なのだ。生ばかりが称揚された現代社会の末路は、死からの逃避であり、その必然的な不幸性と結びつくのだから。我々は、超克しなければならない。死への恐怖を。その言葉を。その先にある、生々しい生命の瞬間に触れるために。心地よいはずはないのだ。避け続けてきたものなのだから。だからこそ、逃げてはならない。もう、逃げ切ることはできないと知っているのだから。ならば、深く、挑めばいい。血まみれで、笑おう。この世は楽園さ。

歌おう。死の歌を。
共に奏でよう。
形から解き放たれて。
本当の自由の意味を知る時だ。
僕らは知っている。いつでも。
How do I know
真実はいつも僕らのなかにある
世界は僕らのなかにあるのだから

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