2014年1月25日土曜日

ブロック遊びと男の子

男の子はブロック遊びがとても好きだった。色とりどりのブロックたち。大きさの異なるブロックを一つ、また一つと重ね合わせていく。何を作るのかなんて事は少しも考えてはいなかった。ただ、ひたすらにブロックを組み合わせて行く。

次第に、ブロックが大きな物体となる。何かの形に見えてくる。ここまで来たらしめたものだ。男の子は、全身全霊、微笑みを浮かべ、まあるいをさらに大きくまあるく見開いて、形の完成を目指して行く。彼の視界には、いまやブロックの集合体が織りなすまだ見ぬ完成した形だけが映っている。どんなものも、彼の世界に入ることはできない。それは、男の子とブロックの間だけに存在する、違う世界であるから。

瞬く間に男の子は、ブロックを積み上げ、ついにその色とりどりのブロックの集合体は男の子にとっての完全な完成をみた。男の子は歓喜し、その完成品をまじまじと、何度も何度も眺める。上からも、下からも。横からも、斜めからも。あらゆる角度から点検する。不備はないか。うん、大丈夫。問題は一つも見つからない。男の子は満足とともに安堵し、完成したその物体を床の上に置いた。世界に、新しい住人が加わった事を、男の子は誇りに思っていた。

そろそろ、晩御飯の時間だ。男の子の母親は、彼に片付けを指示する。床に散らかったままのオモチャたち。男の子は、母親の言葉に従い、片付けを始めた。

ブロックで作られた新たな住人を見つめる。彼も、片付けなくてね。男の子は、少しだけ躊躇いながら、住人に手を伸ばす。そして、もう一度彼をあらゆる角度から眺めて見た。

うん。君は、完璧だ。

もう、僕の手を離れても大丈夫。

君なら、大丈夫。

だって、こんなに立派じゃないか。

僕はね、片付けなくちゃいけないんだ。

お母さんに言われたからね。

じゃないと今夜の晩御飯のカレーライスが食べられないんだよ。

わかってくれるよね。

うん。大丈夫。

うん。それでいいよ。

怖くもないし、痛くもかゆくもない。

へっちゃらさ。

誰にも見えない僕のこと、作ってくれてありがとう。

どういたしまして。

それじゃあ僕は出て行くね。元気でね、ゆうた。

うん。ばいばい。



男の子は、ブロックを解体していく。一つ、また一つと、箱の中へしまってゆく。形は次第に消え失せ、元のブロックの塊と化していく。これでいいんだ。うん。いいんだ。

男の子は片付けを終えて食卓へと足を運ぶ。食卓には、大好きなカレーライスが湯気をたてて待っていた。スプーンに手を伸ばす。いただきます。召し上がれ。

カレーライスを一口ほおばって、男の子は泣き出した。
大粒の涙が、目から溢れ出して、ボタボタと机を叩く。

男の子は、走る。

ブロックの元へと駆け寄り、もう姿が見えなくなってしまった彼の事を想い、大声で、泣いた。

やっぱり、壊しちゃうんじゃなかった!

もう会えないんだもん

やっぱり、間違ってたのかな

でもね、でも、そうするしかなかったんだもん

片付けなくちゃ、ダメなんだもん

だから

でも



うん

もう会えないんだね

うん

さみしいよ

うん

さようなら

ばいばい

ばいばい

ばいばい。





2014年1月22日水曜日

断絶の微笑みに魅せられて

2014年1月22日。東京。

今日も断絶はやって来ない。

断絶は旅人だ。それは何も語らない。
断絶は身体を持たない。それは何処にでもいる。
断絶は物語らない。それはあくまで空間に浮遊する。

断絶は、時に男であり、時に女であり、不特定多数の存在と瞬間的であまりに官能的な性交を交わす。僕たちはそれを知っている。知らぬまま、知っている。

街を緩やかに取り込む夕闇。
太陽は何処に消えてゆく。

僕は断絶を愛している。
断絶はどうだろう。
彼(彼女)はワイングラスを片手にこう言うかもしれない。

「私は、誰の事も愛しはしない。私は、愛そのものの裏側にいるのだから。愛と私は陰陽のように絡み合い、雪の結晶のように綺麗に、時にあたたかく、時につめたく、あなたのそばへやってくる。私は、いる、のではなく、ある、ものなの。遠い過去の記憶と遠い未来の憧憬がとてもよく似た双子の兄弟であるように、私は何処にでも、ある。あなたが、私を求めさえすれば。」

間接照明に照らし出された断絶の身体。
床に彼(彼女)の影は映らない。

彼(彼女)は、闇そのものだから。
官能という言葉を一口頬張る断絶は、赤いシルクに身を包み、バーカウンターの一枚板にリズムを刻む。

孤高のマイルス•デイヴィスよ。
あなたの叫びを聴かせておくれ。
妖艶な女の裸の吐息と、錯乱するヒステリックな女の叫び。
マイルス。あなたはいま何処でなにをしている。

怪しげな紫色のライトに照らされた、芳醇な赤。
ワイングラスは語る。

「血で描くのさ。抑圧された身体を破壊しながら。」

ああ、まるで夢のような世界。

ああ、生まれてきた世界をこんなにも不確かに感じる。

ああ。ああ。ああ。

今宵も、断絶は、静かに微笑む。

「あなたがあなたである限り、私はあなたの側にある。あなたがあなたをやめるとき、私はあなたを抱きしめる。強く。息の止まりそうなほど強く。そう。それは、何よりも官能的で、何よりもロマンティックで、そして、なによりもエロティックな、永遠の瞬間をあなたが手に入れるということ。私は、ある。其処に。此処に。」


2014年1月21日火曜日

喪われゆく、物と場所のロマンティシズム

2014年1月21日、早朝。僕は目を覚まし、いつものように珈琲を淹れる。丁寧に、鮮やかに。真っ黒な液体を口に運ぶ。窓の外にはまだ漆黒の空。朝はまだ遠い地平に眠っているらしい。

BGMはMuztafa Ozkent。所謂、辺境ファンクと呼ばれるジャンルに属する音楽を彼らは奏でている。ファンクという音楽は特定の形式性を持ちながら、世界各地に存在する汎用的なフォーマットを有する数少ない音楽の一つだ。日本ではあまり周知されてはいないようだが、ファンクはイランなど中東地域にも見られる音楽形態であり、その歴史はロックより古い。イランの戦前ファンクを集めたコンピレーションアルバムは僕の最近のフェイバリットの一つだが、そのクオリティは度肝を抜かれるほど高い。中東の伝統的歌謡、音階を配しながら、タイトに刻まれるビートとグルーヴィーなベースラインの反復構造。リズム隊が反復構造を有するのは、プリミティブなダンス•ミュージックの構造と近似するものだが、それはつまるところ、人間は反復構造のなかに自己の身体を組み込むことでリズムに身体をシステマティックに統合していく身体の構造を力学的に内包しているのかもしれない。

ダンス。それは人間の根源的な欲動の一つの表出であるように思える。我々は、踊り続けてきた動物である。原始より、人間は祭祀などの際に火を囲みうたを唄い、踊った。豊作を祝うため。神に祈りを捧げるため。様々な理由はあるにせよ、そこには踊りがあった。

昨今の日本を取り巻く様々な「管理」の現出。記憶に新しいのは、「風営法」とダンスに纏わるあの事件であろう。大阪の老舗クラブ「Noon」の摘発。理由は「許可なく客にダンスを踊らせた」ことだという。馬鹿げた話だ。もちろんミュージシャンたちは黙っていない。「Save the Club Noon」というドキュメンタリー映画が映し出した様々なミュージシャンたちの語ることば。踊る権利の主張。彼らは抗議する。彼らの一つの出発点となった、踊ること、踊る場所のために。

僕はこのドキュメンタリーを観て、ひとつの気づきを得た。それは、「音楽の原体験と場所の記憶」に関する、密接な関係性についてだ。僕はこのドキュメンタリー映画を観ながら、「風営法」の内包する形骸化した規制の法的根拠や概念の不明瞭さに憤りを感じつつも、その事に対してあまり深く怒りを感じることはなかった。また、「Noon」が摘発された事に関しても、些か理不尽さを感じることはあるにせよ、感情的な行動の欲望が喚起されることはなかった。なぜか。僕には、ドキュメンタリー映画に出演したミュージシャンたちのような、「Noon」という場所に根付いた「記憶」がない。「物語」がない。それが理由であろうと感じる。音楽と場所は切っても切り離せない関係にあると思う。それは、特定の場所である。それは個人的な場所である。僕らは音楽というものを場所とともに愛するのだ。音楽は場所から逃れられない。

情報のグローバリズム。世界は情報の海に浸され、我々の身体から生活空間におよぶあらゆる領域に様々な情報がバクテリアの如く蔓延っている。この時代において、あらゆるメディアに乗り、様々な芸術が情報化されている。音楽も例外ではない。音楽は、mp3などの目には見えないデータとなり、bit構造として、0か1かの世界の中でリアルの世界に届けられる。そこにあるのは、かつて、物質的な場所と切っても切り離せない関係にあった音楽の、場所からの浮遊の構造である。音楽は、場所から離れた。それはインターネットという広大な、しかし、具体的な場所を有さない無重力の空間である。音楽は、大地を失ったのだ。

それに伴い、街から音楽のための場所が消えてゆく。街に根付いた音楽ための場所。レコード屋、ジャズ喫茶が潰れて行く。僕はそれを心から哀しく思う。踊ることが場所の物語として紡がれるように、音楽と出会う場所にもそのリアルな物質的な場所で紡ぐことのできない代替不可能な物語がある。

懐かしい音に触れる。何かを思い出す。記憶。それは、場所と結びついている。情報化された音楽は、なんらかの物語を喚起するだろうか。誰かとともにいた記憶は、その人間の大切な居場所だ。情報化された音楽を、ひとりきりで聴く。その楽しみもある。だが、場所、街に結びついた音楽との関係性、そこに宿る物語。忘れられゆく物語に、耳をすましてみたい。そこには、僕らが忘れつつある音楽の場所があるかもしれない。僕らが知ることもなく忘れ去られた場所の物語もあるだろう。時代が変わることは、何かを必要としなくなることである。消えゆくものがあることを否定はしない。ただ、消えゆくものを愛する僕は、今一度、問い直したいのだ。それは消えゆく「べき」ものなのかどうかということを。

僕らの知らぬ街。僕らの知らぬ場所。僕らの知らぬ音楽。それらに纏わる物語を問い直すこと。そして、もう一度、音楽と出会うことと場所との関わりに丁寧にまなざしを向けること。そこから、新たな未来へ向けた、音楽と場所の関係性を再構築すること。僕はそんな想いを胸に、いま、一冊の本を編集する。喪われゆくものたちに向けた花束としてのロマンティシズム。

2014年1月20日月曜日

砂の身体 失われゆくものへのアンソロジーと身体とは異なる死への官能

ある種のポートフォリオは、時に人をなんらかの名前に限定する。ただ一瞬の中にはその人間の幾ばくかの真実と幾ばくかの虚構が織り込まれている。僕らはそれを眺める。ときに素早く。ときに這うように。

優れた才能を持った音楽家が近頃たくさん死んでゆく。それはいまに始まったことではなく、むしろ永遠に続く喜びと悲しみの螺旋。ときに人は失われゆくことの意味を問う。壊れて行くものの意味を問う。そうして、途方もなく広大な砂漠をただ1人歩いてゆく。

70年代日本。ロック•ミュージック。高度経済成長。バブル。日本は、獲得することを夢見る赤子であった。盲目のロマンティシズム。得ることは、豊かさと同義に語られた。みんな遠くを見ていた。未来をみていた。そう思っていた。誰もが。

時代は幸福とともに終わらない。それはおそらく、なんらかの失落と腐敗と喪失のなかに生まれるものであり、終焉とは取りも直さず僕たちを哀しみに浸す巨大な井戸である。井戸の中は酷く暗い。ぬめぬめと苔むした壁面。暗黒を思わせる水に足元を浸す。絶え間ない孤独と死の予感。救いは来ない。井戸は何処までも完全に井戸であり、僕たちはその、何処までも完全に井戸たるもののなかにいる。光は見えるか。目をこらせ。誰かが何処かで叫んでいる。気が、する。

22時52分。僕がこの時刻を記した時間だ。時計は残酷に冷徹に正確な時を刻む。カチコチカチコチ…。なぜこの文章を書き始めたのか、もはやわからなくなってきたのだが、それは特段必要のない問いであるとも思える。ただ、僕は、いまや廃盤となってしまった聖なる隠居者、この世と冥界をつなぐような深遠な響きを与えてくれるアシッド•フォーキーHush Arborsの12分に及ぶ絶え間ないギター•ドローンにこの身のすべてを捧げていた。目を瞑り、身体を手放す。次第に、日常を覆う雑念は消え失せ、僕は彼の奏でる永遠とも思える反復構造とフィードバックの織りなす倍音構造の海に溶け込んでゆく。

水深は3mほどだろうか。僕は水にこの身を投げ込み、海底の白い砂浜に全身を横たえる。海面は、休むことなく、しかし穏やかに波打つ。光の乱反射。七色に輝く日の光はクリスタルのように輝きを生み出し続けている。綺麗だ。とても。このままここに居たい。誰からも忘れられたまま。

海面の砂浜は、白く柔らかな絹ようだ。右手を伸ばし、辺りの砂を握り、海へと手放す。さらさらと音もなく、砂は優雅に舞いながら海底の我が家へ帰っていく。
気がつくと、僕の身体も、少しづつ砂になってゆく。手を見つめる。指先から、砂となりこぼれ落ちる右手。そして腕。足は既に砂と化した。さらさらさらさらさらさら。砂となる。痛みはない。苦しくもない。むしろ、とても安らかな気持ちだ。僕を構成していた様々な部位が、いま、役目を終えて砂に還るのだ。細やかな白い砂。

「白は死の色よ。光は私たちの名付けられる前の記憶。この海は、あなたのなかに遥か昔から存在したものよ。怖がることはないのよ。あなたは、あなたのなかにある〈私たち〉の海へと還るのだもの。形は幻よ。怖がらなくていいのよ。あなたは私たちのあなたですから。」

砂になりゆく僕の耳元で彼女は優しくそう言った。僕は彼女の事を知ってる。名前は知らないし、姿形も知らない。ただ、遠い昔から、彼女の側にいたような、母親のような懐かしさ。「怖がらなくていいのよ。」オーケー。僕は怖がっていないよ。静かに、安らかに還ることにするよ。これが「死」というものならば、悪いもんじゃないね。

いまこの文章を書きながら、僕は確かに、海のなかで砂となり消えた。胸の辺りで黒く淀んでいた不確かな塊が、水に溶け出した。暖房が少し強すぎる。喉が渇いた。僕の左手はiPhoneで文字を打ち続ける。iPodからはトウヤマタケオさんのBobbinが小気味よい木琴のリズムを奏でている。優雅な夜のひと時。いまも何処かで誰かが音楽に涙を流しているのだろう。世界の何処かでまた誰かが死に、誰かが生まれる。泣き、笑い、別れ、出会い。僕は小気味よく口笛を吹く。誰にも届かぬメロディ。でも僕には聴こえる。世界に生まれる微かなうた。おと。ことば。ひと。

あしたも、どこかで会いましょう。
さようなら。はじめまして。愛しています。水に浮かぶ心。