2015年9月28日月曜日

気配と音調

気配と音調

その二つの言葉がふと、頭に浮かんだ。

言葉が浮かぶとき、熱いときもあれば、冷たいときもある。

言葉にもまた、いろいろな温度があり、その温度が、僕たちのなかのなにかを、そっとあたためてくれたり、また、背筋の凍るような、怖ろしい夢を、見させてくれたりする。

中秋の名月と呼ばれるものを、さっきすこし、一人で眺めていた。

友人をバス停へと送り届けて、そのまま車を停めて、空を見ていた。

月は、ちいさな渦を無数に巻く、灰色の雲のなかに埋もれながら、時折、虹色の光の輪を、自分のまわりに照らしては、流れる雲にゆらめいていた。

友人とも、月を見た。歩きながら見た月は、とても大きく見えた。

「目の錯覚…なんだって。ほんとうに、おっきいわけじゃあないんだって。そう、言ってたよ。」

僕の目には、月はいつもより大きくみえた。大きく見える月は、目の錯覚でそう見えるのかもしれないけれど、ほんとうは、ほんとうに、大きくなっているのかもしれない。

「でも、おっきく、見えるよね。」
「うん、見える、おっきいね。」

一人で見る月は、なぜか、小さく見えた。さっき二人で見た月よりも、それは、絶対に小さく見えた。小さく、なったのかもしれない。目の錯覚、なのだろうか。僕にはわからない。けれど、小さくなった月も、僕は、きれいだと思った。大きくても、小さくても、どちらも立派な月だ、と思った。それらは、月に、違いなかった。


気配と音調。

人間が一人、そこにいるだけで、そこは、まったく違う場所になる。まったく違うのだから、不思議で、おもしろくて、人間のいることを感じる。どうして、人間だと、こうも違うふうに、なるのだろう。

蛾では、あまり、そこは、大きく変わらない。僕のいるところに、蛾がやってきても、僕はあまり変わらない。変わらなくなったのかもしれない。蛾のいることが、そこにいることが、僕にとって、普通というものに、なったということかもしれない。月が、大きく見えるのが、小さく見えることに対して、と、同じように。普通ということは、いつも、普通でないということ、からしか、わからないものなのだろうから。

今夜は、蛾は、ここにいない。

僕は、今夜は、一人だ。
一人で、月を、見る。
月は、いる。空に浮かんでいる。
僕のところには、いない。
どうしてだろう。
そこにいる、ということは、
どうして、ここにいる、ということと、違うのだろう。そう、思うのだろう。そこにいるのなら、実は、ここにも、いるのではないだろうか。そんなふうにも、感じたり、する。感じなかったりも、する。それはいつも通りということには、ならないらしい。

いつも、というのは、いつもではない、ということの、あるところにしか、ないのだと思う。


友人と話をした。
いろいろな話をした。
怖くなる話も、楽しくなる話も、した。

友人、という言葉は、なんだか、遠いから、やめよう。

友人、じゃあない。

じゃあ、なにか。よくわからない。

誰が、友人、か、それもよくわからない。

友人、なんてものはいなくて、僕には、おのおのの人たちが、遠いか、近いか、そういうことしか、よくわからないのかもしれない。それは、月に、すこし似ている。大きな月を、共に見た、その人は、僕の近くにいるから、僕らの目には、月が、大きく、見えたのかもしれない。そういうことなのかもしれない。


月を見た、今日の夜に、僕はどうやら、人間を見たいのだ、ということに気づいた。いままで、よくわかっていなかった。ほんとうは、ずっと、そうだったのかもしれない。さっき、それに気づいた。人間を見たい、ほんとうに、ほんとうの、人間を、見たいのだと、こんなにも思っていたことに、ようやく、気づいた。気づくのはいつも、だいぶあとになってからだ。そうでなければ、気づくとは言わない。

人間のいない人間の表現に、興味がない。それは、人間いない人間の表現には、人間がいないからで、僕は人間が見たいのだから、人間のいない人間の表現には、見るものはない。そういうことに、気づいた。

人間のいる、ということは、どういうことか、まだ、うまく、説明できない。というか、説明できるところには、人間は、ほんとうには、いない、のかもしれない。そんなような気もする。

形を通して、
色を通して、
音を通して、
身体を通して、

いろいろなものを通して、通すことで、説明できない、ねじれ、のようなもののなかで、そこでしか、出逢うことのできない、その、人間、その人間だけの、ほんとう、が、あるのだと思う。その、ほんとう、が、僕は、見たいのだと思う。聴きたい、のだと思う。ふれたい、のだと思う。そういうことにしか、興味がない、のかもしれない。人間、に対しては。

そして、それは、人間、が、人間である、という、生々しい、ほんとうの場所、ほんとうの姿、に立つことで、ようやく僕は、そこにいる、その人間に、出逢うことができる、そして、僕は、そこで、人間、に出逢うとも言えるし、人間以外、に出逢うとも言える、と思っているのだと思う。

人間以外、それは、なんだろう。それは、蛾に出逢うことに、すこし、似ているのかもしれない。蛾に出逢うときに、感じる、この場所の、静けさ、にも、すこしだけ、似ているのかもしれない。

でも、人間は、蛾のようには、静かに、ほんとうには、なれない、のかも、しれない。人間は、とても、やかましい生き物、だから。こんなふうに、言葉、を、使ったりして、うるさい、ものだから。それは、僕が、人間、だからかも、しれないけれど。蛾も、蛾には、うるさい、のだろうか。

人間である、ということは、人間以外、である、ということと、ともにしか、ないのかもしれない。

そういうところに、
僕は、人間を、見てしまう。
そして、人間以外、をも含めた、
人間の姿、に、
希望、のようなものを、感じる。
それは、僕だけじゃ、ないと思うのだけど、どうやら、あまりにも、人間であることは、人間以外であることに近づきすぎるから、それを好まない人も、いるようだ。それはそれで、いいのかもしれない。誰しもにも適切な遠さ、近さ、というものは、ないのだから。おのおのの人たちが、僕にとって、遠く、近く、揺れ動いているのと、たぶんそれは、同じようなこと、だと思うから。