2014年1月21日火曜日

喪われゆく、物と場所のロマンティシズム

2014年1月21日、早朝。僕は目を覚まし、いつものように珈琲を淹れる。丁寧に、鮮やかに。真っ黒な液体を口に運ぶ。窓の外にはまだ漆黒の空。朝はまだ遠い地平に眠っているらしい。

BGMはMuztafa Ozkent。所謂、辺境ファンクと呼ばれるジャンルに属する音楽を彼らは奏でている。ファンクという音楽は特定の形式性を持ちながら、世界各地に存在する汎用的なフォーマットを有する数少ない音楽の一つだ。日本ではあまり周知されてはいないようだが、ファンクはイランなど中東地域にも見られる音楽形態であり、その歴史はロックより古い。イランの戦前ファンクを集めたコンピレーションアルバムは僕の最近のフェイバリットの一つだが、そのクオリティは度肝を抜かれるほど高い。中東の伝統的歌謡、音階を配しながら、タイトに刻まれるビートとグルーヴィーなベースラインの反復構造。リズム隊が反復構造を有するのは、プリミティブなダンス•ミュージックの構造と近似するものだが、それはつまるところ、人間は反復構造のなかに自己の身体を組み込むことでリズムに身体をシステマティックに統合していく身体の構造を力学的に内包しているのかもしれない。

ダンス。それは人間の根源的な欲動の一つの表出であるように思える。我々は、踊り続けてきた動物である。原始より、人間は祭祀などの際に火を囲みうたを唄い、踊った。豊作を祝うため。神に祈りを捧げるため。様々な理由はあるにせよ、そこには踊りがあった。

昨今の日本を取り巻く様々な「管理」の現出。記憶に新しいのは、「風営法」とダンスに纏わるあの事件であろう。大阪の老舗クラブ「Noon」の摘発。理由は「許可なく客にダンスを踊らせた」ことだという。馬鹿げた話だ。もちろんミュージシャンたちは黙っていない。「Save the Club Noon」というドキュメンタリー映画が映し出した様々なミュージシャンたちの語ることば。踊る権利の主張。彼らは抗議する。彼らの一つの出発点となった、踊ること、踊る場所のために。

僕はこのドキュメンタリーを観て、ひとつの気づきを得た。それは、「音楽の原体験と場所の記憶」に関する、密接な関係性についてだ。僕はこのドキュメンタリー映画を観ながら、「風営法」の内包する形骸化した規制の法的根拠や概念の不明瞭さに憤りを感じつつも、その事に対してあまり深く怒りを感じることはなかった。また、「Noon」が摘発された事に関しても、些か理不尽さを感じることはあるにせよ、感情的な行動の欲望が喚起されることはなかった。なぜか。僕には、ドキュメンタリー映画に出演したミュージシャンたちのような、「Noon」という場所に根付いた「記憶」がない。「物語」がない。それが理由であろうと感じる。音楽と場所は切っても切り離せない関係にあると思う。それは、特定の場所である。それは個人的な場所である。僕らは音楽というものを場所とともに愛するのだ。音楽は場所から逃れられない。

情報のグローバリズム。世界は情報の海に浸され、我々の身体から生活空間におよぶあらゆる領域に様々な情報がバクテリアの如く蔓延っている。この時代において、あらゆるメディアに乗り、様々な芸術が情報化されている。音楽も例外ではない。音楽は、mp3などの目には見えないデータとなり、bit構造として、0か1かの世界の中でリアルの世界に届けられる。そこにあるのは、かつて、物質的な場所と切っても切り離せない関係にあった音楽の、場所からの浮遊の構造である。音楽は、場所から離れた。それはインターネットという広大な、しかし、具体的な場所を有さない無重力の空間である。音楽は、大地を失ったのだ。

それに伴い、街から音楽のための場所が消えてゆく。街に根付いた音楽ための場所。レコード屋、ジャズ喫茶が潰れて行く。僕はそれを心から哀しく思う。踊ることが場所の物語として紡がれるように、音楽と出会う場所にもそのリアルな物質的な場所で紡ぐことのできない代替不可能な物語がある。

懐かしい音に触れる。何かを思い出す。記憶。それは、場所と結びついている。情報化された音楽は、なんらかの物語を喚起するだろうか。誰かとともにいた記憶は、その人間の大切な居場所だ。情報化された音楽を、ひとりきりで聴く。その楽しみもある。だが、場所、街に結びついた音楽との関係性、そこに宿る物語。忘れられゆく物語に、耳をすましてみたい。そこには、僕らが忘れつつある音楽の場所があるかもしれない。僕らが知ることもなく忘れ去られた場所の物語もあるだろう。時代が変わることは、何かを必要としなくなることである。消えゆくものがあることを否定はしない。ただ、消えゆくものを愛する僕は、今一度、問い直したいのだ。それは消えゆく「べき」ものなのかどうかということを。

僕らの知らぬ街。僕らの知らぬ場所。僕らの知らぬ音楽。それらに纏わる物語を問い直すこと。そして、もう一度、音楽と出会うことと場所との関わりに丁寧にまなざしを向けること。そこから、新たな未来へ向けた、音楽と場所の関係性を再構築すること。僕はそんな想いを胸に、いま、一冊の本を編集する。喪われゆくものたちに向けた花束としてのロマンティシズム。

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