2015年4月27日月曜日

〈記憶・生/死・静かなグロテスク〉ギャスパー・ノエ - ゴダール - 山下澄人 - 飴屋法水 - マリオ・ジャコメッリ - ぼくの部屋の死にゆく虫たち

眠れない夜には、ぼくは自分の頭のなかを観察する。そこでなにが起きているのかを眺める。安穏と立ち込める灰色の雲の模様を眺めるみたいに。雲はどこから生まれるのか、気象予報士は科学の力で説明するけれど、それはぼくにはあまり関係がない。雲は気がつくとそこに浮かんでいるし、その生まれる瞬間をぼくは見たことがないので、生まれる瞬間というものがあるのかどうかさえ確かにはわからない。知っているつもりのことのほとんどはきっと誰かからそう教えられたことにすぎないのだ。眠れない夜のぼくの頭のなか。いろいろなものが混沌とわきたっている。ふたつの眉毛の真ん中、そのちょうど1センチくらい上が、ゴワゴワと痛む。ここに何かがいる。蠢いている。ぼくの脳みそのことをぼくは知らない。でも、ぼくの多くはこの脳みそというものから発された信号によって動いたり生まれたりしているらしい。脳科学者の本とか、そういうものでぼくはそういう知識を得たのだろう。なんで知ってるのか知らないことがたくさんある。

記憶。記憶の不可思議さについて考えさせられる小説や映画や演劇ばかり最近のぼくは自分のなかに入れているようにおもう。おもう、というのは、べつにそういうものを自分のなかに入れることを意図して選んでいるわけではないということで、それらはたまたまそういう種類の考えを喚起するようなものだった。こういうことはよくある。ぼくは昔から本を並行して何冊も読む。一冊だけをきれいに読むことができない。退屈してしまうのだ。それはたぶん、そこに書いてあるものを理解するために読むのではなくて、そこに書いてあるもののなかにある、もしくはそのしたにおおきく横たわっているなにかにふれて、自分のなかになにかよくわからないものに、かたちを与えたりするためなのだからだとおもう。並行して何冊も本を読んでいると、ふと、思わぬところでそれらの共鳴するものがぼくのなかにふわりと浮かびあがることがある。そしてぼくはその場に必要なぼくの答えを見つける。もしくはその片鱗にふれる。ひとつのものにふれているだけではわからなくなる。それはたぶん、ひとつのものというものが、本来はいろいろなものとつながっているものだからで、そのつながりを断ち切って目の前にあるひとつのものにたいしてだけでは、本来のひとつのものにふれることができないからだ。

フランスの映画監督ギャスパー・ノエの「アレックス」という映画は、映画の冒頭部で物語のクライマックスのシーンが描かれていて、映画は、そのシーンから物語の時間軸を逆再生するように展開していた。それぞれのシーンは記憶の断片のようで、断片のひとつひとつは通常の時間軸のなかで描かれるんだけど、断片を繋ぎ合わせていく時間軸は時間に逆行するというなんとも奇妙な映画だった。でも、記憶の遡り方って、そういうふうでもあるなとも思う。ひとつの出来事についての記憶を遡るとき、ぼくたちは出来事を無意識に断片化して想起して、断片化されたそれらの記憶を見えない糸でつなぎ合わせるみたいにしてひとつの出来事を思い出す。記憶は、ぼくたちが普通に生きている時間軸からは切り離されたものだから、それを思い出す仕方に普通の時間軸を援用する必要はない。時間を遡ってもかまわないのだ。ゴダールが映画史を描く映画をつくったとき、かつての映画の断片をかき集めて、節操もなく並べていたような気がするけど、映画という痕跡が〈誰かの記憶〉としての記録であるならば、歴史というものは記憶のようなものだから、そんなふうに並べて映画史を描くということはとても普通なやりかただともおもう。断片化された痕跡である映画-記憶の時間軸をシャッフルする。

最近、毎日図書館に行って、山下澄人さんの小説を読んでいる。彼の小説の在り方も、なんだかゴダールのそれと似ている気がする。山下さんの小説のなかでは時間軸がシャッフルされる。過去も現在も未来も、シャッフルして物語上に現れる。しかも、それらをじゃあ時間軸として正しい順番に並べ変えれば正確な物語を理解できるのかというとそうでもない。そこに現れる時間は、主人公である「わたし」だけの時間ではないから。「わたし」はいろんなもののなかにいる。無数の「わたし」の時間軸がごちゃまぜにシャッフルされるから、もうそこに「正しい」時間軸なんてものはたぶんない。ないものに正しさを押し付けても仕方ないから、そこに描かれているものをそのまま辿っていくんだ。ギャスパー・ノエの「アレックス」は時間を遡っていくけど、彼の「エンター・ザ・ボイド」はそういえば時間軸をシャッフルしていたな。その時間は、死んだ主人公の時間だ。死んだ主人公の目線で、生きている世界の時間がシャッフルされている。

死ぬ瞬間、人は走馬灯を見るらしい。そこには、その人の記憶が断片化されてシャッフルされて並べられるんだって。ゴダールの映画みたいなかんじなのかもしれない。生きていることと死んでいることとのあわいにあるものは、そういうかたちをしているのかもしれない。ぼくは死んだことがないからわからないけれど。

生と死のあわい。今日は辺見庸さんの本を読みながら、マリオ・ジャコメッリの写真に浸っていたんだ。彼の写真はすごく好きだ。好きだ、というには、とても深いところにふれてくるので、満面の笑みで好きだというのはちと難しい。モノクロの写真。そこに写し出された人たちや風景はまるで、生と死のあわいにあるようだった。生きているこの時間や空間のなかに、彼の目は死を見つめていたのかもしれない。日常のどんな風景のなかにも〈異界〉はあるんだっていうことをまなざして、彼は写真を撮っていたのかもしれない。

辺見さんが本に書いていて、ああそうだなあ、と思ったのは、「写真」という言葉の嘘について。「真」を「写す」という漢字を当てがわれたphotographという英語は憤慨しているかもしれない。写真は「真」を写すというけれど、「真」ってなんなのかもほんとうのところぼくたちは知らない。目の前にある物体や色彩はたしかにこの目にそう見えるように写真のなかに写されているけれど、でもそのものとはやっぱりちがう。ちがうのだから、その時点で真でもないし、第一、目の前に見えるものだけが「真」なのだとしたら、ぼくたちの目はたぶんなんにも見えなくなってしまう。生のなかに死を見るジャコメッリのまなざしは「真」を見つめようとしていたのかもしれない。だから彼は死にかけの老婆のベッドの脇でカメラのシャッターを押し続けた。

生のあとには死がくると誰かが言っていた。人間は死ぬために生きていると高校の英語教師が授業で熱く語っていて、そう思う奴は挙手!とか先生は言って、ほとんど全員が挙手したのだけど、ぼくは挙手しなかった。なに言ってやがるこのじじいは、とぼくは眉間に皺を寄せてその先生の顔面を睨みつけていた。

「ぼくはそうは思いません。死ぬことは、目的ではありません。死ぬことが目的ならば、今死ねばいいし、生きる意味がありません。ぼくは生きるために生きています。」

ぼくは先生にそう言って席を立った。先生は苦いものを口に含んだみたいな顔をしていた。その先生は、たぶん定年退職したんだろう、最近ぼくがよく行く図書館で彼が本を読んでいるのを見かける。ぼくは彼に話しかけない。彼はぼくに気づいているのかぼくは知らない。なんだかぼくは彼に話しかけたくないし話しかけられたくない。その先生を見ていると、10年後のいま、ぼくが地元に帰ってきて、地元の図書館でその先生と偶然おなじ図書館にいることが、なんだか不思議なかんじに思えてくる。先生は死ぬために生きているのになんでいま図書館に通っているんだろうか。ぼくにはよくわからない。

不安が襲ってきたら、死のことを想え。社会学者・カルロス・カスタネダの著作群 ドン・ファン シリーズの第1巻で、呪術師ドン・ファンがカスタネダにそんなようなことを言っていた。ぼくはその言葉をいまも真摯に自分のなかに受けとめている。その言葉が血肉になっている。絶望的な気分になるとき、どうして生きていかなければならないのかと自分のなかの問いが脳みそを覆い尽くしてしまいそうなとき、その発火を鎮めてくれるものが、死というものに対する冷めたリアリテイだったりする。自分は、たぶん死ぬことが大したことじゃないと思っていると山下澄人さんが言っていた。彼の小説のなかでは人があっけなく死ぬ。そこにドラマティックな感情の高ぶりはない。それがいい。その感じが好きで彼の小説が好きなのかもしれない。ジャコメッリの写真のなかにある死の匂いも、熱くはない。異界の怖さはあるけれど、冷めている。だから死にゆく人間の死を写真に写しとれるのだと思う。今の日本で流行している死への態度は、なんだか過剰なまでにドラマティックだ。人間の死を感動的に描きすぎるきらいがある。それはひょっとしたら、死がこわいからかもしれない。ぼくも死ぬのはこわい。死ぬのがこわくないと言っているひとの言葉はほんとうには信じていない。いまそう思っていたとしてもきっとそれが近づいてきたら怖いだろう。知らないことは怖いものだ。多かれ少なかれ。

山下さんの小説のなかでの死への冷めた目線に通ずるものを飴屋法水さんの演劇のなかに見る。ぼくは飴屋さんの演劇がほんとうに好きだ。彼の演劇のなかにある冷めた目線が好きだ。それはニヒリズムじゃない。そういう冷め方じゃない。絶望じゃない。夏が終わると蝉が死ぬような静かなことだ。そういう死へのまなざしがある。それはときに表現としては突飛であったりグロテスクであったりするんだけど、ぼくたちの生は基本的にグロテスクなものだ。グロテスクさを覆い隠すための装置が世の中にはたくさんあるけれど。ぼくたちが肉を食うのだってグロテスクだ。少年たちは喜んでステーキを食う。ぼくは中学生のとき、肉を食えなくなった。グロテスクさに負けた。でも、グロテスクを避けていた自分はグロテスクな普通の人間の日常に目を瞑っていただけだと気づいて、それからは、グロテスクだけど肉を食うようになった。静かな死のグロテスク。ぼくはそんなものに囲まれて生きている。ぼくもあなたも。今夜もぼくの部屋ではたくさんの虫が死んだ。ぼくの飲んでいた水の入ったコップのなかで勝手に溺れていたりした。そんなふうに当たり前に死んでいく虫たちのなかでぼくは今日も眠る。またそのうちおおきな地震が来るだろう。たぶん。ぼくはリアルに想像ができない。たくさんのひとが死ぬ風景。でもそれは現に起きているリアルだ。リアルなことが、ぼくにはまだ、ぜんぜん、よくわからない。

2015年4月25日土曜日

〈男の子〉-〈カブトムシの幼虫〉-〈現在〉

暑い夏だった。男の子はカブトムシの幼虫を飼っていた。カブトムシの幼虫は全部で15匹いた。デパートの二階の生き物コーナーで売られていたカブトムシ育成セットのなかで幼虫たちは育てられていた。透明なプラスチックのケースのなかには男の子のおばあちゃんの家にあった牛のフンみたいな腐葉土が詰まっていた。おばあちゃんは自宅の酒屋で働いていた。酒の売り上げは年々下がっていた。おばあちゃんは畑仕事もしていた。おじいちゃんは朝早く起きて毎日市場へ仕入れに行っていた。ぼくはカブトムシの幼虫を右手の人差し指と親指でつまんで手のひらの上に乗せた。カブトムシの幼虫はうねうねとちいさく動いていた。気持ち悪かった。カブトムシの幼虫もなにかを考えたりするのだろうか。恋に悩んだりするのだろうか。茶色の顔と尖った両方のキバのようなものをぼくは見つめていた。ぼくは図書館にきた。散歩が好きだった。散歩がてら図書館に寄って、一冊本を読んでまた歩いて帰るのだ。山下澄人さんの小説はどれもおもしろいと思った。ぼくは彼の小説が好きになった。三鷹に住んでいたとき、ぼくは仕事帰りの道端で光る惑星を見た。ぼくは疲れていた。だから幻を見たのかもしれないけど、それが幻かどうかは別にどっちでもいいことだった。ぼくはリクルートスーツを着ていた。仕事のために新しいスーツを買うのが嫌だった。馬鹿馬鹿しいことだと思っていた。ぼくの目は暗い夜道を見つめていた。外灯は10メートルおきに立っていたけど、辺りは暗かった。おじいさんがひとり歩いていた。腰が曲がって歩きにくそうだった。ふらふらとしながら歩いていた。ぼくとおじいさんは同じようなものだった。次第に目の前が暗くなった。意識すれば目の前の道を見ることはできた。でも、ぼくの目は道を見てはいなかった。すれ違った女の人は一度ぼくのことを見て、すぐに目をそらした。ぼくは暗くなっていく視界を見つめていた。ぼくの目の前に宇宙空間が現れた。真黒の宇宙はぼくの目の前にはっきりと浮かんでいた。闇は手でさわることができそうなほど濃厚だった。宇宙の下のほうが次第に裂けてきた。空間が裂けるということをぼくはそのとき初めて知った。空間の裂け目が次第に輪のように広がっていった。大きな洞のようなものができた。洞の周りは月のクレーターのように隆起していた。月は今日も綺麗だった。ぼくは女の子とLINEをしていた。女の子は月を見ながらコーヒーを飲むのが好きだった。コーヒーを飲みながら女の子は月を眺めて、満月の日にはうまく眠れないと言った。ぼくも満月の夜にはうまく眠れない。月は地球のそばをぐるぐると回り続けているらしい。理科の授業の時に先生がそう言っていた。理科の先生は一重で目が細かった。そして、なんだかオネエみたいな喋り方をした。ぼくはその先生のことが先生としては好きだった。あの中学校には卒業して以来いっていない。いい思い出はないからだ。気づくとぼくの目の前の洞のなかから薄いエメラルドグリーン色の光でかたちづくられた地球が浮かんでいた。地球はこんなにもきれいなものなのかと思った。地球の光は太陽の表面の炎みたいに時々なびいていて、その地球にはたぶん地面はなかった。地面はないけど、海はあるのかもしれないと思った。海があれば命が生まれることができる。男の子はカブトムシの幼虫を飼うことに飽きてきていた。だから男の子は、友達とローラーブレードで遊んだりばかりしていた。夏はだんだんと過ぎていった。男の子はある日カブトムシの幼虫の入ったプラスチックのケースのなかを見た。カブトムシの幼虫は15匹全部死んでいた。土をかえてやらなかったから、カブトムシの幼虫たちはフンまみれになった土のなかで食い物を探して蠢いて、それでも食い物が見つからないから餓死したり、幼虫同士で身体を食い合ったりした。幼虫は暗い土のなかをひたすらモゾモゾと進んでいた。プラスチックの壁にぶつかるたびに進路を変えた。どこへ向かっても必ずプラスチックの壁にぶつかるので、外に出ることはできなかった。ここは監獄だった。男の子はカブトムシの幼虫たちを殺してしまった。しかも皆殺しにした。男の子は後悔した。後悔してもしてもしきれないほどの罪の意識を感じた。あの日の罪をぼくはいまもまだ覚えている。ぼくが男の子だったあの日からずいぶんと時間が経った気もする。忘れたこともたくさんある。大半のことは忘れてしまった。覚えていることもある。カブトムシの幼虫にも記憶はあるだろうか。暗い暗い土のなかでいつかサナギになって、カブトムシになって、青い空を飛ぶ日を夢見ていたのだろうか。男の子のぼくは死んだ幼虫たちのお墓を作った。住んでいたマンションの自転車置き場の横の土をスコップで掘って幼虫の死骸たちを埋めた。土をこんもりかぶせて山を作り、その上に石をひとつ置いた。ぼくは摩訶般若波羅蜜心経を何度も暗誦した。目にはたくさん涙がでてきた。ぼくはごめんねごめんねと何度も謝った。謝って済むなら警察はいらないと友達のトモくんはよく言っていた。山下澄人さんの小説がいま、ぼくの隣の机の上にある。タイトルは「ルンタ」。これから読むところ。さっきは「砂漠ダンス」というやつを読んだ。不思議な小説だった。わたしってなんだろうと思った。わたしは、自分のことだったり、かつての自分だったり、でも、わたしはコヨーテになって疾走したりもする。コヨーテになったわたしはコヨーテの目線で世界を見る。世界をみるとき、わたしは誰であれわたしだと思った。あの日のカブトムシの幼虫たちも。いまはもう土に還って、なにか別の動物になったのだろうか。別のわたしになったのだろう。それはひょっとしたら、いまここにいるぼくのなかにそっといるのかもしれない。男の子はもういない。かわりにいまぼくが恵那市の図書館にいる。また新しい小説を読む。そこにはまた新しいわたしがいるのだと思う。小説を読まなくても。

2015年4月22日水曜日

詩 「あまりにもあたたかく軽やかな幸福に」

トンネルをぬけた僕の目に
金色に輝く太陽の
どこまでも大きくふくよかな
光の束が飛び込んで
僕のすべてが
光の毛布に包まれて
あまりにもあたたかく軽やかな幸福に
僕は目をつむり
そのままきれいに
死んでしまいたかった

詩 「ひかりの毛布につつまれて」

ひとりもいない田園に
ひかりが
ふくらんでいた
やわらかに
ふくよかに
ひかりは
ふくらんでいた

あめつちを照らす太陽は
地球に無限の手をのばす

ひかりは
空をあたためる毛布

空にくるまれたまま
ひかりの絹を
おなかいっぱいすいこんで
煙のように立ち込めた死のかたち
その輪郭を
慎ましやかに
照らしだす

草も
木も
鳥も
すべての生き物が
ひかりの毛布につつまれて
生きているかたちを
地面に映し出される
生ずるは
濃厚な灰色
おのおのの輪郭は溶け合い
隠された死のかたち
ひとつの姿へと
帰るのだ

2015年4月20日月曜日

第16章 砂場のお城のまんなかで わたしの右手とあなたの左手

ラクダは割れた透明な球体から聴こえてきた音に耳を澄ました。その音は、どこか遠いところからかすかに響いてくるもののようでもありながら、実際には音など鳴ってはおらず、ラクダの脳内に直接響き渡っているもののような親密さをも感じさせるものだった。ラクダは目をつむって意識を集中し、音に聴き入った。耳鳴りのような高音の持続音のなかに、次第に、男の子と女の子の笑い声がかすかに聴こえてきた。次の瞬間、音は一気に膨れ上がり、ラクダの意識を飲み込んだ。ラクダは目をあけた。目の前にはただ白い光の光景が広がっていた。










…ねえ、知ってる?

なにを?

お月様ってね、
ほんとは、地球とひとつだったんだよ
まだ、わたしたちが、どこにもいなかったころ、遠い遠い昔のこと。

お月様はね、地球のことが好きで好きでたまらなくてね、神様が地球をおつくりになられたときに、お月様は神様にお願いして、地球のそばにいさせてもらうことにしたんだよ

ほんとはね、お月様は、どこか遠いところへ旅立たなくてはならなかったのよ

お月様には、お月様のあるべきところというものがあるの

でもね、それでも、お月様は、地球のそばにいたかったの

それがいけないことだと知っていても

お月様は、地球のそばにいたかった
地球のことが好きだったから

わたし、あなたのことが好きよ

だから、あなたといっしょに、いま、こうして、小学校の砂場にいて、いっしょに、砂のお城をつくっているの 

砂のお城が完成したらね、お城のいりぐちに穴をあけるのよ

穴をあけるにはコツがいるの

わたしの右手と

あなたの左手と

その両方の手を

お城のいりぐちと
お城のでぐちと

それが生まれるべきところに
ゆっくりとさしこんで

お城のいりぐちと
お城のでぐちと、を
つなぐ
お城のまんなかで
ふたりの手が
ふれるの

そこで

わたしの右手と

あなたの左手は

見えないままに
手をつなぐの

そうすることが必要なのよ

そうなんだ、なら、そうするよ

うん、きっとよ、きっと、そうしてね、きっとよ

うん、きっとそうする

きっと、そうするよ










あの子の名前は、もう、忘れてしまった。あの子がいまどこでなにをしているのか、想像することも今ではしなくなった。あれからもう、15年も経ったんだ。記憶のなかの女の子。この記憶は、ほんとうのものではないとぼくは知っている。けれど、ほんとうの記憶って、一体どういうものなのか、ぼくにはよくわからない。

ほんとうの記憶
それは、たぶん、
過去にほんとうに起きた出来事のことなのだろうけど、
いまとなっては、
過去の出来事が、
ほんとうに、過去に起きたのかどうかを、いまのぼくが、確かめる術はない。

砂場につくった、砂のお城。
あの感触を、ぼくは確かに覚えている。けれど、この女の子は、実在しない。たぶん。いま、書かれることによってだけ、この女の子は、この文章を読む人間の頭のなかだけに存在する。この女の子は、じゃあ、いるのだろうか、いないのだろうか、どちらとも、言えないのだろうか。

ぼくは、砂のお城のでぐちとなるべき場所へ、いま、ぼくの左手を押し当てる。そして、ゆっくりと力をこめて、砂のお城に穴をあけてゆく。脆く、壊れやすい、砂のお城を壊さぬように、ぼくの左手は、でぐちをつくってゆく。その先に、きみの手は、あるだろうか。お城のまんなかで、ぼくの左手は、きみの右手に遭遇し、そっとふれた、ぼくの左手と、きみの右手は、いりぐちとでぐちをつなぐ、砂のお城の見えないまんなかで、手を繋ぎ合うことが、できるのだろうか。

ぼくは、そう期待する。
ぼくは、ぼくのでぐちから、
ぼくの左手で、
きみのいりぐちから、
きみの右手を、
見つけ出したい。
きっと、見つけ出せるはずだ。
だって、ぼくたちは、
このちいさな、
砂場で、
いま、こうして、
見つめあっているのだから。

砂のお城のまんなかで、
見えない、ぼくの左手と、
見えない、きみの右手と、
見えない場所で、
手をつなぐ。


きっと、できるよ

うん、きっとね


真っ青な空には、白い三日月が浮かんでいた。よく晴れた土曜の午後だった。その日、ぼくの友達のミッチーが車にはねられて死んだ。ぼくが飼っていたカブトムシも死んだ。

夏が過ぎてゆく。
遠くで蝉が鳴いている。

砂場の砂はひんやりと冷たくて気持ちよかった。その一粒一粒を掌の上で確かめていた。いろんなかたちや大きさの砂粒が、ぼくの掌の上に転がっていた。綺麗なもの、汚いもの、丸いもの、尖ったもの、つるつるとしたもの、ざらざらとしたもの、どれも、それぞれにちがっていて、それでいて、どれも、砂粒だった。

ラクダに乗って砂漠を旅してみたいなあ。砂の王国は果てしなく広がっている。ぼくの両の目には、どこまでも続く砂漠の風景がありありと映し出されていた。ピラミッドにだって登ってやるぞ。スフィンクスにまたがって、砂漠のまんなかで、ぼくが砂の王国の王様だ。ヘビだって自由自在に操れる。ぼくはヘビ使いの笛を持っているからね。

真夜中の砂漠のまんなかに寝転がる気分はどんなものだろう。

真夜中の砂漠を覆う空は青紫色に染まっているんだ。星々は、それこそ無限に輝いていて、数え上げる事なんてできっこない。ぼくは手下のヘビといっしょに、この青紫色の大空を眺める。ああ、満天の星空よ。ここでは、きっと、わかるんだ。地球がほんとうに球体で、惑星だってこと、地面はまあるく繋がっているんだってこと、空は、地球の上にあるんじゃなくて、空は宇宙の一部で、地球をやさしくくるんでくれているものだっていうこと。

地球が生まれた日。
地球は、宇宙のおくるみにくるまれて、大きな声で泣いていた。

だから、月は、地球のそばを離れることができなかった。地球があまりに泣くものだから、月は、心配でたまらなくて、月は、自分のあるべき場所にゆくことを諦めて、地球のそばにいることに決めたんだ。そのときから、きっと、なにかが変わってしまった。月は、ほんとうに月であることができなくなってしまった。だから、月は、9つに分かたれてしまったのだ。ひとつであるためには、ぼくたちは、あるべきところにあることを選ばなければならない。そのためには、あるべきところにあることを妨げるものを、捨てることも必要なのだ。月はわかっていた。それでも。それでも。それでも。


わたしの右手と、
あなたの左手と、
お城のまんなかで、
見えない場所で、
手をつなぐ。
手をつなぐの。

きっと。
きっと。





2015年4月19日日曜日

第15章 砂漠を歩くラクダは透明な球体を覗き込む

オアシスはいつも予期せぬタイミングで現れる。そのタイミングを予想することは誰にもできやしない。ラクダは知っている。だから、歩き続けてるのだ。この広大な砂漠の上を。何処へ行くのかと問う人もいる。そんな戯言は放っておけ。理由というものはいつも仮初めのものだということをラクダは知っている。薄茶色の短く柔らかな体毛に覆われた二つのコブを左右にちいさく振りながら、道なき道をラクダは行く。白銀色にギラつく太陽と黄金に輝くこの月の円環運動を眺めながら、ラクダの二つの目は透明に先だけを見つめている。

四本の脚が踏みつける砂漠の砂。ちいさな砂粒たちは、この砂漠の上に一体どれほどの数存在しているというのか。答えを知る者はいない。ラクダは砂漠を眺める。時に立ち止まり、自身の足元の砂を蹴る。乾燥した砂が上空へと舞い上がり、煙のように宙へと広がり、音もなく地面に舞い落ちる。砂はいつも砂であることをやめない。砂は砂をやめることはできない。だから、辛抱強く、砂はラクダの脚に踏みつけられることに耐えている。来る日も来る日も踏みつけられて、それでも砂は砂をやめることはない。

ある朝、砂漠に雨が降った。一年のうちに一度あるかないかの豪雨だった。ラクダは雨から身を隠すため、近くにあったちいさな岩山の洞窟へと入っていった。雨は止むどころか、一層その勢いを増していくばかりだ。ラクダはやむを得ず、今宵をこの洞窟のなかで過ごすことに決めた。明日にはこの雨もやむだろう。そうしたら、また旅を続けられる。そう思い、ラクダは、眠りにおちた。

その夜、ラクダは不思議な夢をみた。夢のなかでは、大小様々の透明なガラスの球体がラクダの視界いっぱいに転がっていた。ラクダはそのなかのひとつの球体に近づき、なかを覗き込んだ。するとそこには、かつて自分が住んでいた土地の風景が映し出されていた。その土地は、ラクダが幼少期を過ごした場所である。冷たく澄んだ水がコンコンと湧き出るオアシスのほとり、ラクダは彼の家族とともに楽しく暮らしていた。その地には草も生い繁り、甘い果実を宿す巨樹も生えていた。そこはひとつの楽園だった。透明な球体のなかを覗き込んでいると、そんなかつての自分の記憶のなかの風景がそのままに映し出されてくるのだ。ラクダはこの不思議な球体に恐れを感じ、後ずさりした。すると球体のなかに映し出されていた彼の記憶の映像は消え去り、元の透明なガラスの球体に戻った。

ラクダは他の球体も覗き込んでみることにした。次の球体を覗き込んでみると、そこには母親の誕生のシーンが映し出されていた。もちろんラクダは自分の母親の誕生の瞬間を見たことはない。それは彼が生まれるずっと以前の光景だから。しかし、そこに映し出されているのは紛れもなく自分の母親であり、生まれたばかりの母親は、まだしっかりと立つことのできない四本の足を精一杯立てようともがいていた。

その後もラクダは視界いっぱいに転がっている透明なガラスの球体のなかをひとつひとつ覗き込んでいった。どれひとつ同じ光景を映し出すものはなく、覗き込んでいくほどに自分の知らない世界の、おそらくはかつてどこかに存在したであろう記録の断片を映し出すこの球体に、ラクダはすっかり魅了されてしまった。

なにかに取り憑かれたように球体のなかを覗き込み続けていたラクダは、ふと、後ろ足でひとつの球体を踏みつけてしまい、球体は割れてしまった。すると、その球体のなかから、不思議な音が聴こえてきた。