2014年1月20日月曜日

砂の身体 失われゆくものへのアンソロジーと身体とは異なる死への官能

ある種のポートフォリオは、時に人をなんらかの名前に限定する。ただ一瞬の中にはその人間の幾ばくかの真実と幾ばくかの虚構が織り込まれている。僕らはそれを眺める。ときに素早く。ときに這うように。

優れた才能を持った音楽家が近頃たくさん死んでゆく。それはいまに始まったことではなく、むしろ永遠に続く喜びと悲しみの螺旋。ときに人は失われゆくことの意味を問う。壊れて行くものの意味を問う。そうして、途方もなく広大な砂漠をただ1人歩いてゆく。

70年代日本。ロック•ミュージック。高度経済成長。バブル。日本は、獲得することを夢見る赤子であった。盲目のロマンティシズム。得ることは、豊かさと同義に語られた。みんな遠くを見ていた。未来をみていた。そう思っていた。誰もが。

時代は幸福とともに終わらない。それはおそらく、なんらかの失落と腐敗と喪失のなかに生まれるものであり、終焉とは取りも直さず僕たちを哀しみに浸す巨大な井戸である。井戸の中は酷く暗い。ぬめぬめと苔むした壁面。暗黒を思わせる水に足元を浸す。絶え間ない孤独と死の予感。救いは来ない。井戸は何処までも完全に井戸であり、僕たちはその、何処までも完全に井戸たるもののなかにいる。光は見えるか。目をこらせ。誰かが何処かで叫んでいる。気が、する。

22時52分。僕がこの時刻を記した時間だ。時計は残酷に冷徹に正確な時を刻む。カチコチカチコチ…。なぜこの文章を書き始めたのか、もはやわからなくなってきたのだが、それは特段必要のない問いであるとも思える。ただ、僕は、いまや廃盤となってしまった聖なる隠居者、この世と冥界をつなぐような深遠な響きを与えてくれるアシッド•フォーキーHush Arborsの12分に及ぶ絶え間ないギター•ドローンにこの身のすべてを捧げていた。目を瞑り、身体を手放す。次第に、日常を覆う雑念は消え失せ、僕は彼の奏でる永遠とも思える反復構造とフィードバックの織りなす倍音構造の海に溶け込んでゆく。

水深は3mほどだろうか。僕は水にこの身を投げ込み、海底の白い砂浜に全身を横たえる。海面は、休むことなく、しかし穏やかに波打つ。光の乱反射。七色に輝く日の光はクリスタルのように輝きを生み出し続けている。綺麗だ。とても。このままここに居たい。誰からも忘れられたまま。

海面の砂浜は、白く柔らかな絹ようだ。右手を伸ばし、辺りの砂を握り、海へと手放す。さらさらと音もなく、砂は優雅に舞いながら海底の我が家へ帰っていく。
気がつくと、僕の身体も、少しづつ砂になってゆく。手を見つめる。指先から、砂となりこぼれ落ちる右手。そして腕。足は既に砂と化した。さらさらさらさらさらさら。砂となる。痛みはない。苦しくもない。むしろ、とても安らかな気持ちだ。僕を構成していた様々な部位が、いま、役目を終えて砂に還るのだ。細やかな白い砂。

「白は死の色よ。光は私たちの名付けられる前の記憶。この海は、あなたのなかに遥か昔から存在したものよ。怖がることはないのよ。あなたは、あなたのなかにある〈私たち〉の海へと還るのだもの。形は幻よ。怖がらなくていいのよ。あなたは私たちのあなたですから。」

砂になりゆく僕の耳元で彼女は優しくそう言った。僕は彼女の事を知ってる。名前は知らないし、姿形も知らない。ただ、遠い昔から、彼女の側にいたような、母親のような懐かしさ。「怖がらなくていいのよ。」オーケー。僕は怖がっていないよ。静かに、安らかに還ることにするよ。これが「死」というものならば、悪いもんじゃないね。

いまこの文章を書きながら、僕は確かに、海のなかで砂となり消えた。胸の辺りで黒く淀んでいた不確かな塊が、水に溶け出した。暖房が少し強すぎる。喉が渇いた。僕の左手はiPhoneで文字を打ち続ける。iPodからはトウヤマタケオさんのBobbinが小気味よい木琴のリズムを奏でている。優雅な夜のひと時。いまも何処かで誰かが音楽に涙を流しているのだろう。世界の何処かでまた誰かが死に、誰かが生まれる。泣き、笑い、別れ、出会い。僕は小気味よく口笛を吹く。誰にも届かぬメロディ。でも僕には聴こえる。世界に生まれる微かなうた。おと。ことば。ひと。

あしたも、どこかで会いましょう。
さようなら。はじめまして。愛しています。水に浮かぶ心。

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