2013年11月19日火曜日

井之頭公園、感謝としての歌、贈与論と音楽


近頃、朝早く起きて近所にある井之頭公園へ散歩しに行くのが日課となってきた。朝7時前の井之頭公園はとても空気が澄んでいて、11月ともなれば少しどころか結構肌寒いんだけど、そのピンとした寒さを肌で感じる事も愉しみのひとつだったりする。早朝の井之頭公園には色んなひとが行き交う。おっきなランドセルを背負った小学生、ランニングするおばちゃん、杖をつきながら歩くおじいちゃん、愛犬の散歩をする若い人もちらほら。みんな柔らかな表情で林の小道を歩いてる。そんな風景を眺めるのも好きだ。ゆっくりとした時間の流れの中でしか見られない人の顔があるからかな。

早朝のJR中央線は、いつも人間押し寿司みたいなのだ。毎日その電車に乗って、ところてんみたいにぎゅぎゅっと押し出されそうになりながら、会社へ向かう日々を流れる時間はいま考えると信じられないほど高速で流れていた。蒸気機関車が発明されて以来、人間は電車をどんどん速いものへと進化させてきた。新幹線なんて、人間を乗せて200キロ以上の速度で移動するんだもの。考えてみると不思議だ。200キロで移動する身体。

僕らの社会は、どうしてこんなにも急ぐようになってしまったのだろう。東京の人たちは歩くのがとても速い。僕の地元の岐阜県のおじいちゃん、おばあちゃんたちは驚くほどゆっくりと歩く。僕も近頃、彼らを真似してゆっくりと歩くようにしている。気がつくと前のめりになっている気持ちを身体の真ん中に据えて、ふう、と一呼吸。そして、一歩一歩、確かめるように、歩く。

意識的にゆっくりと歩く。これ、やってみるとオモロイんだけど、たったそれだけの事で、これまで見えていなかった街の様々な風景が自然と見えるようになるのだ。不思議な形の看板、いい感じに風情のある廃屋、お茶漬け屋さんという謎のお店、いろんな建物が僕らの街にある事に気づく。

公園を歩く時も同じだ。ゆっくりと、一歩、また一歩と歩く。すると、ちいさな出会いがいくつもある。こどもの頃、夢中で集めたどんぐりが山ほど転がってる事に嬉しくなったり、緑色の葉っぱの群れからのぞく、赤や黄色やオレンジや色々な色の葉っぱが、まるで緑色の宇宙に輝く星々みたいに朝日を浴びて光ってる。せわしなく歩くと気づかない、いろんなものや色や生き物との出会いが、日常の中にはたくさん隠れているんだな。

お決まりのベンチに腰掛けて、ゆっくりと、息を吸う。ひんやりと冷たい空気が僕の喉から肺へ流れ込む。僕のなかに、目の前の青い空がゆっくりと広がる。気持ちいいなあと思う。そんな事が、とても幸せだなと思う。早すぎる世の中でふと忘れてしまうようなものを、森が思い出させてくれる。たくさんの贈り物を僕にくれる。ありがたいなあ、といつも感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。

そんな時間を過ごして家路につくと、なんだか予感がするのだ。僕は傍のギターに手をのばし、なんとはなしにポロリポロリと弦を爪弾く。自然とメロディと詩が僕の口から流れ出す。僕は歌に任せて、歌を歌う。何を歌っているのかなんて考えない。そんな事はどうだっていいことなのだ。森のなかで、お腹いっぱいの太陽を浴びてるときみたいに、音のなかに寝っころがるだけ。気づくと歌は終わってる。産まれて、すぐ、消えて行く。なぜか知らないけど、ありがとう、と祈りたい気持ちになる。近頃思うんだけど、歌うってのは、自分の周りのひとや自然やその他いろいろなものに出会い、素敵な気持ちになって、
出会えてよかったなあ、有難いなあ、と思って、そんな風に関係させてくれた事とそんな風に関係する事のできるいまのこの自分の身体と心を貸してくれているなんかおっきなものに、感謝の気持ちを伝えることなんじゃないか、と思ったりする。どんな出会いもどんな気持ちもどんな感動も、それを感じるための自分をいろいろなものが形作ってきてくれた結果としての僕がいま、ここ、にいること。それは、与えられたものなんだな、選んだものなんてほとんどないなと思う。そう思うと、何かを好きになったり、何かを愛おしく愛することってのは、とても自然で、それに対して、ありがとう、
と言いたくなる。歌って、僕にとってそんなものだなあ、と思うのだ。

与えられること、与えること。
なんかぼんやりとしてよくわからんが、そんな事が自然なことだなと思う。

かつてフランスの思想家マルセル・モースは『贈与論』で、はじまりの経済は誰かが誰かに何かを与えること、つまり、プレゼントする事から始まった、とか言っていた気がする。確か。間違ってたらごめんなさい。けど、いまはとてつもなく巨大化してひとの手にも負えない経済てものも、誰かが誰かにありがとうをするためにはじまったんだとしたら、それって素敵やなーと思う。心が贈与を生み出し、交換を生み出す。経済ってそーゆうものだったんやな、と思うと、なんだかサラリーマン時代の仕事って、なんだったんやろと思う。みんなバタバタ時間とコストとやらに追われて、必死なのはわかるけど、そこに心からの贈与と交換なんて全くなかった。誰かが誰かを貶めたり、悪巧みしたり、誰かより自分が評価されていることをひけらかしたり、そんな事ばかり。いまだって、心あるひとが誰かのことを考えて仕事をしていることはもちろん知っている。僕があの場所でそれを感じられなかっただけなのかね。わからん。

音楽と日常というブログなので、一応音楽にも絡めて話したい。一応てなんやねん。とりあえず思うのは、モースが言ったみたいな「贈与」としての音楽がもっと産まれたらいいと思っておる。それはどういうことかと言うと、貨幣と交換可能な商品としての音楽コンテンツやライブばかりでなく、貨幣という物神から離れた別の価値を有する関係性をデザインすること、原始経済的な非功利的な交換の環のなかに音楽を据えることだと思ってる。たとえば、CDとなにか別のものの物々交換だったり、個人が所有して当たり前の楽器や音楽の場を公共の資産として共有可能な形でひらいたりして行くことで、いま当たり前になっている貨幣と音楽の交換ではない、原始的な交換可能性を音楽の文化としてデザインしてみたいなと僕は思ってる。お天道様から歌を頂くみたいに、必要な誰かに必要なものが渡って行く、つながって、受け継がれて行くような関係性のなかにある音楽。そんなものがあったらいいと思うんだ。具体的なプランはまだ秘密だ。

贈与としての音楽。
それって素敵やな、と思う、百瀬でした。

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