2013年9月18日水曜日

美学的文脈における音楽の円環と閉鎖性について

友人のブログを読んで、改めて「音楽の円環」について考えてみたい。「音楽の円環」とは何か。それは、現代日本のいわゆる「音楽」と呼ばれる表現の形態と表現の場の閉鎖的な性質を意味するものだ。1960年代以降、 The Beatles、エルヴィス•プレスリーらロックのレジェンドの誕生と共に構築されて来た「ロック神話」と音楽産業構造。それらが世界にもたらした文化の革新は確かな力を持つものであったし、僕自身、そうした音楽産業構造から商品化されたパッケージとしてのレコードやCDを購入する事やライブハウスでのライブを観る事で日常を生きる糧としているので、その意味ではこれまでの音楽産業の生み出して来た文化に多大なる敬意と 感謝をしている。 グローバル化、情報化、テクノロジーの進歩により、出会うはずのなかった世界各地の音楽にいとも簡単にアクセスする事ができる事も、もちろん素晴らしい事だと思う。優れた文化が、時間と空間という軸を超えて、現代日本に生きる普通の若者の耳に届くという事。それはとても価値のある事だし、そうした複合的な音楽文化の需要が現代日本の音楽文化を面白いものに育てている事には全く異論はない。 ただし、見落としてはいけない事がある。それは、「音楽」が、芸術と呼ばれる様々な表現の中の一つである事、そして、 芸術とは社会と切り離された場所で存在するものではないという事だ。 現代日本の音楽に対して僕が感じる欺瞞はここにある。現代日本には、様々な音楽表現、表現の場、音楽を売るための場、音楽を伝えるためのメディアが存在し、日夜、多様な媒体を通してそれらはリスナーである僕らに届けられる。それ自体の価値を否定するつもりはない。でも、僕は思うのだ。「どうしてこれほどまでに、音楽は他の表現と切り離されたものとして消費されるのか」と。 現代美術の文脈を振り返れば、音楽以外の表現、たとえば、舞踏、演劇、絵画、造形、建築といった表現は、様々な表現と交通しながら新たな表現形態を模索してきた。現代建築でいえば、みかんぐみ。舞踏などではダムタイプ。演劇では快快。など、それら音楽以外の様々な表現は、資本的価値や従来の常識、伝統、形態を破壊しながら、常に新しい表現、形態、思想、場を創り上げてきた。その表現には、他の様々な表現との交通、 現代という社会の問題や常識を解体する使命を担ってきた。文化と社会という多層的な構造から生み出される様々な表現。 こうした他の様々な表現と比べたとき、いわゆる音楽という表現は、あまりにも「引きこもり」的、孤立的な表現としてのみ発展してきてしまったのではないか。また、それだけが音楽である、との閉鎖的な社会認知が現代日本で醸成されてきてしまったという危惧が僕にはある。他の表現との交通、 社会、地域との交通を閉ざした閉鎖的ひきこもり文化、音楽。僕は音楽を愛するがこそ、その閉鎖性をとても哀しく思う。 はじめに述べた「音楽の円環」とは、こうした音楽文化の表現の文脈、場所論的文脈における閉鎖性だ。音楽に、のめりこめばのめりこむほど、音楽という表現が、空間的にも美学的にも社会的にも閉ざされたものになっていく。これを僕は嘆くのだ。 こうした閉鎖性を作り出してきたものとして、僕は旧来型音楽産業構造のバブルと「ロック神話」の排他的思想を原因の一旦と考える。音楽は他の表現に比して、あまりにも商品化されすぎた。資本主義的な産業構造に適合しすぎた。消費する対象としてのパッケージ、 ライブが繁栄しすぎた。グローバル化する資本主義の中で、マネーとともにハイパーリアルな亡霊として文化の亡骸をMP3という形で拡散させることにせいこうしすぎた。音楽は、あまりにもうまく消費する商品として社会に立ち現れすぎてしまったのだと思う。 そして、「ロック神話」がそうした構造に聖書を手渡した。「売れる」事、「スター」になる事、そうした大衆の欲望を喚起する精神のカンフル剤として「ロックスター」は孤独な青年の社会承認欲求のためのアイコンとして神格化された。音楽は、 世界に承認されるための手段として認知された。資本主義での音楽産業構造と それを正当化する「ロック神話」という物語。僕はここに問題の本質をみる。そして僕は問いかけたい。 「音楽とは、個人の承認欲求を満たすためのエゴイスティックで閉鎖的な表現としての価値しか持ち得ないものなのか。」と。 答えは、否。僕らが愛する音楽はそんなにチンケなシロモノではないと僕は信じたい。資本主義の奴隷としての音楽は、もう終わりにしよう。歴史を紐解けば、音楽はもっと大きなものとして、人間の社会、日常、文化に直結した個、ないしは共同体の表現であった。人々は、死を弔うために火を囲み踊り、歌を歌った。狩りのために、声をあわせて歌った。母なる大地で律動を。母なる森で鳥や獣とともに囁きを。祝祭のために、祈りのために、僕らの先祖は歌った。音を奏でたきた。様々な、生きるための表現とともに、社会のなかで生きるために、そして、人が生きるという喪失と絶望の運命を慰めあうために。 音楽が、「音楽家」という特権的な存在だけの手に委ねられたのは、近代以降の一つの物語にすぎない。 特権的な、美的強度を有するものだけの手に芸術を閉じ込めた。その近代美術を解体するための様々な表現が音楽以外の表現でははじまった。僕らは個ではなく、再び芸術を社会と民衆の手に還すため近代芸術を爆破する時代を生きている。本当に音楽を愛しているならば、そのことに目を開くべきだ。 革命は、静かにはじまっている。音楽を表現する人々、場をつくる人々、それらを社会に伝えるメディアをつくる人々、そして、音楽を愛して止まないすべての人達へ。 これまでの音楽を捨てろとは思わない。ただ、新しい時代に、 これまでの産業が食いつぶしてきた、音楽という文化の根源的意味を取り戻す取り組みに、少しでも目を開いてほしい。 それが、僕の心からの願いであり、この「音楽と日常」というメディアを通して僕は、そうした不可視の音楽の文化の強度を取り戻すために、慎ましく、たどたどしくも、言葉を綴って行く事をここに宣言したい。

『西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事』を読んで

手にとっただけで、暖かみの伝わる装丁。柔らかな空気感。西荻窪という町にひっそりと佇む古本屋、音羽館について、店主自ら言葉で綴られたこの本は、とても穏やかで心地よい。文章に人柄が宿るとはこの事か、と感心してしまうほどに、柔らかな、わかりやすい言葉を紡ぐ筆者。ゆるやかな文章に、 心が洗われていくようです。 本書、第一章では、音羽館の誕生と、日常の仕事の話が語られる。一冊の本の値段をいかにつけるのか、棚をどのような思いでつくるのか、店というものにどのような認識を持ってもらい、そのためにどのような本をどのように売るのか。そうした、古本屋としての日々の仕事の工夫、 客として店に出向くだけではなかなか覗くことのできないお店の裏側が訥々と語られていく。穏やかさのなかに隠された、ささやかでありながらも確かな信念が垣間見られます。この人は、本当に、本が好きで、古本屋さんという仕事を愛しているのだな、と思わず胸があつくなりました。 なぜ古本屋なのか、なぜ実店舗での販売にこだわるのか。それは結局のところ、古本屋という仕事の醍醐味が、目の前にいるお客さんとの本を介したゆるやかなコミュニケーションの中にあると店主が感じているからのようです。古本屋さんという、 儲かりはしないけれど、好きな仕事を選んだ店主の様々な言葉の暖かさ、素晴らしいなと思います。 こういう本が、僕は好きです。普段みることのできない他人の小さな日常の世界を覗き込む事で、自分がぼんやりと感じていた事や、大切にしていることに改めて出会う事ができるからでしょうかね。 一方で、こういう本を読むと僕は、大抵いつもある種類の「ぬるさ」を感じる事も否定できない感覚として感じてしまいます。それは一体、なぜだろう。これが、いま僕のなかにある大きな問いのひとつです。 心地よいもの、とは、同時に、退屈なものでもあると思います。それはきっと、心地よさというものが、既にある程度形を整えられ、完成した土台の上に成り立つものだから。地平線へと続くなだらかな一本道を車でひた走ることは心地よい事です。不安に思うことはなにもない。道に迷うこともない。ただただ、舗装されたアスファルトの道を走ればいいのですから、それは心地よいものです。 ただ、心地よいものに慣れすぎてしまう事には、弊害もあるのです。それは、その心地よさというものが、誰かの手によって造られたものである事を忘れ、心地よいもの中にいるだけでは出会えない、野生の動物たちや未開のジャングルがあることに気がつかなくなってしまう事です。これはひとつのメタファーに過ぎませんが、心地よさの閉鎖性は、本に限らず、文化、表現に纏わるすべてのものに関わるものです。 僕はいま、音楽に纏わる店や場をテーマに据えた本の企画を日々考えています。音羽館の本は、いまの僕にとりとても参考になる教科書であるとともに、よき反面教師となりそうです。 いわゆる「店的な物語」、「西荻窪」という町の表象。そうした心地よさを、僕は逸脱したいと思っています。「店を紹介する」本ではなく、 あくまで僕は「音楽のある場を作り続ける表現者」として、彼らと彼らの店をひとつの作品行為として描き出したいと考えています。それは、これまでの音楽という表現の担い手を拡張する意味を込めて。そして、 場をつくることこそが、音楽という文化がいま求める価値ある表現行為であると僕が考えているからです。 見慣れた風景を一変させる一曲の音楽。 見慣れた街並みを一変させる音楽の現場たち。 心地よさを消費するだけでは、なだらかな道から自分の道を歩む事はできない。魑魅魍魎の蠢く森の中へと足を踏み込んでいくような、心地よさとは相反する、不可知の出会いの感覚。そんな本が作れたらいいな、 と思った今日でした。 音楽の現場を創ること、それは新たな音楽家の ひとつの表現行為であり、音楽の場とは、永遠に終わらない一つの壮大な交響曲である。 なんてね。