2014年6月11日水曜日

心地よさという隠された悪


心地よいものに満足できなくなったのはいつからだろう。心地よいものは、言葉の通り、心地よいものなのだから、それにふれ、そのなかに包まれるようにして在るとき、僕は安心する。安心。心が安らぐということ。心地よいものに満足できなくなったということは、心が安らぐことに対して何らかの不満、違和を感ずるということになるだろうか。満たされることと、それはイコールだろうか。満たされ、足ることが、満足であるとすれば、心地よいことと満足とは別の事柄であると言える。つまり、僕は、心地よさでは満たすことのできない、別の何かを求め始めているということ。心地よさへの違和は、日に日に増していく。心地よさは、退屈へと繋がるものでもある。僕は退屈を拒否したい欲望に駆られている。退屈こそは、僕にとって、なんらかの悪なるものであるという感覚があるのだ。退屈は十全さとは相容れない感覚である。心地よさと退屈という、歯車の両輪に対して、鋭く否を突きつけていたいのだ。退屈は、消費である。消費は記号である。脱記号性、脱消費…それは取りも直さず、僕たちが安易に咀嚼することのできない、ある種の恐さを孕むように思う。疑問符の中にある、豊潤な官能。世界は理解できない。だから美しいのではなかったか。心地よさへの回収を僕は拒否する。それが、不器用な行いであろうとも。

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