2014年6月11日水曜日

「再生」と「再/生」の差異

舞台の上で音楽を奏でるとき、自分の身体の不思議に出逢うことがよくある。いや、近頃は、毎度毎度、初めての感覚に出逢い、その感覚を確かめる。あれはなんだったのか。自分に問いかける。

緊張とは不思議なものだ。人はなぜ緊張するのか。間違いを恐れることで、人は緊張する。しかし、緊張することによって人は間違いをおかす可能性を高める。正しさと間違いのせめぎ合いのなか、身体はどんどん不自由になる。

僕は緊張しいだ。いや、だったという過去形の方が適切かもしれない。近頃、ライブで緊張することはあまりなくなった。もちろん、本番が始まる前までは、笑顔の裏に堅さを隠している。うまくいくのか。間違いをおかしはしないか。そんな不穏な考えが頭の中を浸すときもある。手が思ったように動かない。焦る。

しかし、なぜだろう。近頃はそうした感覚が、舞台に上がったその瞬間に消え失せる。肝が座ったということなのか。はたまた、慣れというものなのか。実感としてはこうだ。「間違いは、無い。だから、間違えようがない。」ステージが始まるとき、僕は、完全に自由になる。間違いは、もちろん、客観的にはあり得るだろう。バンドならなおさらそうだ。しかし、どうだろう。自分の身体から生まれた楽曲を演奏するとき、その正解は、自分しか知らない。正解は、自分の線引き一つだ。つまり、正解は、ないとも言える。自分が決めた正解から外れることを恐れるとき、演じ手は緊張をするのだろうと最近気づいた。正解がないのであれば、間違いは無い。間違いが無いのであれば、間違いようがない。ならば、緊張も存在しない。自由しかないのだ。

音楽は、自分の身体を通して表現するものだ。それも、その場、その場において、一度きりのものとして現出させるものだ。この点については、異論はないと思う。(ラップトップによるライブを僕はライブと思わない)問題はここから。ある楽曲を、再現することを目指す表現か、それとも、現在性において創出することを目指す表現か、この点が、ライブという場では、大きな特性を各々に宿すところであると思う。

個人的な考えだけを付す。僕は後者が好きだ。前者は嫌いだ。なぜなら、前者は退屈だからだ。再生されるもの…「再生」か「再/生」か、言葉であえて区別するならば、ここにはれっきとした差異が存在する。決められたことを守り、それをそのまま現出することを僕は「再生」であると考える。それは、変更、逸脱、消去、偶然…その他諸々の、諸要素を排し、完成されたものと完全に同様のものを現出すること、それが「再生」である。では、「再/生」とは何か。それは、「再生」とは反対に、「再生」の排する諸要素を、受動的に受け入れる態度、そして、その態度をもとに、一度完成されたものを、もう一度、はじめて出逢うもののように現出する、その一回性への飽くなき探求であると僕は考える。このように言うと、そこにれっきとした差異などあるのか、という疑問がわくかもしれない。しかし、それはれっきとした差異である。それは、現出されるものと出会うときに、確かに感じられる、差異である。音楽の、ライブに関して言えば、僕は確実に「再/生」を愛する。そこには退屈の余地はない。今、まさに目の前で誕生せんとする音の生命の躍動に、心が震わせられる。

「再/生」こそが、音楽の原初性である。なぜならば、完全なる「再生」の歴史など、たかだか100年余りの歴史しか持たないものだからだ。音楽は、何度も、生まれ直す。初めてのように。そこにこそ、音と出逢う悦びがあるのだと僕は強く感ずる。「再生」ではなく「再/生」へ。その道をひた走りたいと思う。

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