2014年2月21日金曜日

遠い旅路の目的地

ミヒャエル•エンデの短編小説集『自由の牢獄』の第一話として掲載されている『遠い旅路の目的地』という物語を読んだ。

話のあらすじはざっくりまとめるとこんな感じ。

物語の主人公は、シリル•アバーコムビィという男。

彼は、ビクトリア女王陛下に仕える外交官である、バジル•アバーコムビィ卿の息子である。要するに、お金持ちのお坊ちゃんで、広い世界の事を知らず、何かに特別興味を示す事がまるでなく、感情の高ぶりというものを知らない男だ。高慢で冷淡、冷静沈着で、命令を遂行する、そんな男だ。

彼は1人の少女に出会う。彼女はシリルに、故郷の話をする。たわいもない話。しかし、少女が、自分の故郷についての無数のたわいもない話を語るにつれ、彼女の目は輝きを増していく。

シリルには、理解ができなかった。

シリルには、少女の奇妙な状態、「郷愁」とよぶものが何なのか、皆目見当がつかなかった。彼はここで初めて、彼が、「家というものをまるで知らない」ことに気づく。

「あこがれたり、恋いこがれたりるものをシリルはまったく知らなかった。自分には何かが欠けているのだ。それは明らかだった。ただそれが利なのか害なのかはわからない。追求することにシリルは決めた。」(『自由の牢獄』第10項より)

その後、シリルは、見知らぬ他人たちに話しかけ、彼らが自分の故郷について話すように促した。

その後の記述はとても重要だと感じたので、長くはなるが以下に引用する。

「話し相手は子供でも老婦人や老紳士でも、いやメイドでも召使でもホテルの支配人でも、誰でもよかった。1人の例外もなく、だれもが喜んで話すようだとわかったからだ。微笑みが話す者の顔を明るく輝かせるのもまれではなかった。なかには目をうるませ、饒舌になる者もいた。また別の者はメランコリックになった。しかし、それはだれにとっても大きな意味があるようだった。細かなところではみんなそれぞれ異なるのだが、同時にどの話もあるひとつの点ではよく似ている。そのような感情の浪費を正当化する、とびきり素晴らしいことや特別のことがどこにも見つけられないのだ。そして、シリルが気づいたことがもう一つある。この故郷というのは、生まれた場所でなくともまるでかまわないということだ。同時に、それは現住所と同じである必要もない。それでは、何がそれを決めるのだろう?そしてだれが決めるのか?各自自分で考え、決めるのだろうか?それならシリルにはどうしてそのようなものがないのか?明らかにシリル以外はみんな、聖なる場所を、ある宝物を持っているのだ。その値打ちは具体的にどの把握できず、手のひらにのせて人に見せられるものでもないが、それにもかかわらず、それは現実に存在する。よりによって自分がそのような所有から疎外されていることが、シリルにはまったく耐えられなかった。なんとしてもそれを手に入れる決心をした。この世界のどこかには、シリルにもそのようなものがあるはずだ。」(同上 11項)

こうして、シリルは自分の故郷を探す旅に出ることになった。

当然の話だが、何年もの年月を費やし、世界中どこを探しても、シリルは自分にとっての故郷というものを見つけることができなかった。しかしそれでも、シリルは探し続けた。

話を要約するが、
このあと、シリルは一枚の絵に出会う。
高価な美術品に慣れ親しんだシリルにとって、その絵の金銭的、美術的な価値というものはさほどのものではなかったにも関わらず、彼はその絵を食い入るように見つめた。

そして、涙を流していた。

その絵には、ひとつの城が描かれていた。
シリルは、その絵を眺め続けるに従い、その城の内部の構造のすべてが詳細に見えてきた。シリルはこの城の事を知らない。彼はこの城をその目で見たことがないはずである。にも関わらず、彼はこの城を本当は「知っている」。

彼は様々な手を尽くしてこの絵を手に入れ、すべての財産を投げ売り、この絵とともに新たな旅へ出かける。

最後のシーンでは、シリルがその城を見つけた、ような記述がある。
正確に、シリルがその城を見つけたとは書かれていない。山の中で、道に迷った人がその城を見つけ、その城の中に、1人の人影らしきものを見た、という記述をもとに物語は終わる。

故郷。郷愁。

普段何気無く使うこの言葉の意味を改めて考えてみると、
なんとも言えない曖昧さに飲み込まれ、不安な気持ちになる。

故郷とは、なんだろう。
郷愁とは、なんだろう。

そんな問いに、正確に答えることはできないと思う。

それは、引用した文中でも述べられている通り、現在住んでいる場所でもなく、生まれた場所でもない。具体的な場所でありながら、それを定義する理由のない場所。故郷。

僕にとっての故郷は何処だろう。
近頃、よく考える。けれど、よくわからない。

僕の生まれは東京都小平市にある小さな町だ。
一橋大学のキャンパスがあったちいさな駅の隣駅が僕が初めて住んでいた家の最寄り駅だ。あそこが僕の故郷だろうか。なんとなく、しっくり来ない。

あの場所で過ごした幼少期の思い出は、いまだにたくさん覚えてる。

五階建てのマンションの四階の二号室。
ピンクと肌色の混ざったごつごつとした壁面のマンションと、小さな駐車場。夏には、五階から、後楽園の花火大会が見える絶景ポイント。楽しかった思い出はいまも色あせない。

けれど、僕にとってのあの場所は故郷ではない気がする。
気がするから、たぶん故郷ではないのだろう。

なんで、故郷じゃないのか。
よくわからない。

その後の人生で、岐阜県恵那市、神奈川県藤沢市、そして現在の東京都三鷹市に住んでいる僕にとり、何処が故郷だと言えるだろう。

正直、
何処も故郷であるような、何処も故郷ではないような、そんな感じがする。

「あなた、どこ出身?」と聞かれると、僕は毎度、返答に窮することになる。最近は、実家のある場所をさして、「岐阜県です。」と答える事にしているが、どうもこの回答も腑に落ちない。出身ならば、東京なのかもしれないけれど、どうも、東京だと答えたくないと思わせるものが、喉元に引っかかり、僕の回答は一時停止する。

この違和感はなんだろう。
故郷という言葉、それについて考えることによって感じる、この不確かさは一体なんだろう。僕はこの『遠い旅路の目的地』を読んで以来、ますますその不確かさを感じるようになった。


ある場所にやってくる。
すると、そこで、思いもかけなかったような感覚に陥る事がしばしばある。

例えば、
近頃僕は、電車に乗ると、とても不愉快な気持ちになる。
電車の中に漂う、澱んだ空間の気配が僕をとても不愉快な気持ちにさせる。
座る人、立つ人、しゃべる人、…様々な人が電車には乗り合わせるが、僕はその1人1人が身に纏う、気の間合いのようなものを感じるようになってしまった。

気分が悪い日なんかは、具体的に、人の周りを覆う半透明の球体のようなものが見えてくることもある。

電車は狭い。その個々人の球体が重なりあう。電車の中は球体の重なり合いで窮屈で窮屈で堪らない。僕はそれゆえ、近頃電車に乗るのがとても嫌いだ。
あの球体がなんなのか、僕にはよくわからんが、あの球体が重なりあうほど、見知らぬ人間同士が接近すべきではないことだけは確信している。東京の街も、電車も、道路も、すべてあまりにも窮屈すぎると思う。人間的でないよ。

今、僕は岐阜の実家にいる。

実家の二階でこのブログを書いている。
気分は悪くない。むしろ、近頃の自分にしてはかなり上機嫌で、体調も上々と言える。実家に帰ってきてからというもの、東京にいるときのように、意識が半分濁っているような不快感は感じない。それ濁りの感覚はおそらく精神医学用語では「離人症」と呼ばれる精神疾患のひとつなんだと思うが、これがすっかり消え、意識と身体がピタッと一致している感覚がある。これもまた不思議な感覚だ。

山に入る。
川の側を歩く。
林の中に分け入る。

そんなとき、僕は「帰ってきた」という言葉でしかいい表せない感覚を感じる。
あの感覚はなんだろう。

普段、僕は四六時中イヤホンを耳に差し込み、音楽を聴いている。
けれど、岐阜の山道を歩く時、僕は音楽を聴かない。
自然と、聴きたくならない。
むしろ、音楽が邪魔だとさえ思う。

この感覚も不思議だ。

故郷とは、帰る場所である。

僕は昔から、なんとなくそう思ってきた。

けれど、そこで言うところの、「帰る」って、一体どういうことだろう。

家に帰ってきたとき、とても居心地が悪く、どこかへ飛び出したくなるときがある。
その時、物理的な僕の家は、帰る場所とはなり得ない。
僕は、家以外のどこかへ、帰りたいと思う。

それは一体、どこに帰るというんだろう。

シリルは、一枚の絵に描かれた城を自分の故郷であると確信した。
彼は自分の故郷を見つけたからこそ、その絵に涙した。

僕にも、そういう経験がある。

とある音楽。
とある絵。
とある物語。

形は違えども、
ある作品に出会い、
そこから動けなくなる。

それを深く見つめ、
奥の奥まで覗き込み、
辺りの風景まで忘れ、
潜り込む。

次第に、身体の自由を失い、
作品自体の発する、
具体的、物理的な引力に身体を引き寄せられ、

しばらくの間、
そのどことも言えない場所の中に、浸る。

そういうものに出会えたとき、
僕は「帰ってきた」と思う。

なぜ帰ってきたと思うのかは、
よくわからん。

理由はつけられるけれども、それは後付けに過ぎない。

ただ、ひとつ思うのは、
ある種の感動的な体験と、自然の中で感ずる感覚は、
繋がっているという事だ。

僕はこの考えに、身体的な確信を持っている。

藝術と自然は、同じような機能を有するもので、
それは、同じ場所からやってくる。

あるものに感動すること。
あるものを、良いと感ずること。

それは、記憶に根ざしたものだと思う。

本当は、全部知っているんしわゃないのかな。
この身体と心は。

自分にとっての本当のこと。
自分の帰るべき場所。
故郷。

それを探すために僕らがいまこの身体を借りて、
仮の名前を頂いて、生きているならば、

そんな妄想をしている。



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