2014年2月17日月曜日

素直な黒い水晶玉

いつからだったか、もう覚えていないんだけど、
僕は子どもと接するのが怖くなっていた。

昨日のBlogにも書いたんだけど、
大学時代、僕が最も真摯に取り組んだ事は、アーティスト•イン•児童館という活動だった。この活動は、こどもたちにとってのサードプレイス(家、学校以外の場所)である児童館という公共施設に、アーティストを招聘し、児童館という子どもの遊びの現場の中に、アーティストと子どもの共同制作の場をつくるというものだった。(当時と今では、少し向いている方向性や重点を置くところが変わってきたのだけど)

この活動は、「子どもとアート」というものを真ん中に据えているので、もちろん、子どもに接することになる。それも、すごく、近しい間柄になる事が必要で、先生でもなんでもない僕らスタッフは、児童館に遊びにくるごく普通の地域の子どもたちと、まるごと人間同士の付き合いをしていたと思う。少なくとも、そうしようと素直に思っていたし、そこにいる子どもたちの事を、「子どもたち」として見て、扱ってしまう事だけは絶対にしちゃいけない事だなと思ってた。

さっき、近所のハンバーグ屋さんで、いつも決まって注文する「キノコのデミグラスハンバーグ」がテーブルに並ぶのを待ちながら、あの時の事を、ふと思い出していた。

あの時の僕は、子どもと接するのが怖いだなんて、ほとんど思っていなかったなぁ、と思う。ほとんど、ってのは、人間同士で接するからこそ、色んな子どもたちがいる中でもちろん性格の合わない子もいたり、何言ってんのかわかんない子もいたり、暴力的な子もいたり、言葉の暴力を投げつけてくる子もいたり(おじさん!とか笑)で、とにかく、当たり前なんだけど色んな子が児童館にはやってくるから、その子らとうまく関係しなきゃ!っていうちょっとした力みが、たぶんあったんだと思う。

そういう、歳の差を越えなきゃ!みたいな力みと、
このところ僕が感じていた「子どもが怖い」っていう感覚は、
なんだか全然別のものだなぁ、ってさっき思った。

僕はどうやら、怯えていたらしい。

街中を歩けば、同じ街に住むこどもたちが、楽しそうに雪遊びをしてる。
雪合戦をしたり、かまくらや雪だるまをつくったり。

みんな、飛び回るように遊ぶ。
ビュンビュン!
ぐるんぐるん!
ドテッ
あはははははは!

走り回る。
ダダダダダ!

顔は、楽しさではち切れんばかりに笑ってる。
目は、水晶玉みたいにツルツルしていて、
まん丸な黒目には綺麗な光が差し込んで、びっくりするほど光ってる。

その目が、
その顔が、
その身体丸ごとから感じられる、
生々しく、どこまでも素直に生きている、
その丸ごとの生命に怯えてるんだな、と、思った。

自分が素直じゃなくなると子どもが怖くなる、ってのは、なんとなく昔から知っていたような気がする。自分で自分に嘘をついたり、本当の気持ちを隠して過ごしていたり、何かに迷っていたりするとき、心が淀んでいるとき、少し、子どもが怖いなと感じて生きてきたからだと思う。身体って、心って、そういう意味ではとても正直だ。

正直と素直って違うんだよな。

どう違うのか、うまく説明するのは難しいんだけど、
正直であっても実は嘘をついていて素直じゃない、って事があると思うんだ。

嘘、というか、本当じゃない、本当はこうしたいんだけど、
正直にそう思うんだけど、素直にそう思えない、できない。

大人になるにつれて、そういう事が増えてきたなぁと思う。

働き始めてからというもの、少なくとも僕はそんな事ばかり感じていた。
これはおかしいだろ。
これは嫌だなぁ。
これはつまらない。

でも、
これはやらなきゃいけない。
これは仕事だ。
これは常識だ。
これは義務だ。

大人の社会は、決まりごとでいっぱいだ。
みんな、誰がどんな意味をもって決めたのかさえもはやよくわからなくなっている決まりごとの網の中に絡まって、息苦しくなる。

見えない蜘蛛の巣が、この社会には張り巡らされているんだと思う。
もがけばもがくほど、ネバネバとした糸が身体に巻きついて、自分の心を縛り上げていく。蜘蛛は誰だろう。蜘蛛はいるのかしら。それすらよくわからなくなる。

最近僕は、時間だけはたっぷりあるので、色んな展示を見に行ったり、ライブを見に行ったり、映画を見たり、本を読んだりしている。

でも、なぜだか窮屈な感じもする。

響くものと響かないものの区別を、何故だかものすごく必死にやっている。
自分はこれが好き!
これはダメ、嫌い!
この線引きが、以前の自分よりも遥かに強くなってきた。
なってきた、というより、そうしてる気もする。

素直さ。

僕は、働き始めてから、全く素直でいられなかった。
素直でいたら、耐えられなかった。
素直でいようとすると、色んなものが僕を傷つけにやってくるからだ。
僕は身を守ろうとした。耐えようとした。
身体と心をガチガチに固め、腕でガードを固め(実際には、腕組みをして)、へらへらと笑いたくもないのに愛想笑いをしすぎて顎を痛め、笑、お腹が痛くなる度にトイレに行き、気分を変えようと必死に可愛い女の子の画像や果てはエロ動画を探したり(会社のトイレでそんなはしたない事をしていた!)、そんな風にして、自分をどんどん捻じ曲げてしまっていた。

そりゃ、おかしくもなりますわ。

僕はどうやら、
素直さという、人の一番(かはわからんけど)大事なもんを、自分で埋めちまったらしい。懸命に働くこと、それが、間違ったやり方だったことにどこかで気づきながらもそれに固執して、やわらかくてあたたかい心の素直さに、懸命に泥をかけていたんだな、と今になると思う。

泥に埋められた素直さは、
どんどん冷えて硬くなり、
茶色く黄ばんで、
土の色と見分けがつかなくなってしまった。

僕は、いま、それを掘りだしてあげることが必要なんだろうなと思ってる。
無理やり埋めてごめん。
痛かったよな。
スコップささらへんかった?
「生き埋めにされて、ここは中世の西洋かいな!おいら、ゾンビになるでおま!」と、掘り出したそいつにど突かれるかもしれないな。

まだ間に合うかな。
たぶん大丈夫。

そのために、いま時間があるんだもの。

生き埋めの心、発掘隊隊長 百瀬雄太。
隊員はひとり。
でも、色んな友達が、スコップ片手に助けに来てくれる。

まだうまく掘り出せてないけど、
掘り出してあげればいいんだなと気づいたこと、
そこに導いてくれたもの、こと、
そんなすべてに、有難う。

心からそう思うんだ。

子どもに怯えた日。

素直さをなくした日。

もう一度、同じ輝きのある、
まん丸、真っ黒、ツルツル、水晶な目で、
街の子どもらと、遊ぶのだ。俺。

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