2014年2月2日日曜日

ちいさなこえ きこえるうた

『ちいさなこえ きこえるうた』

ひとりでいると
誰かといると聴こえない
こえが きこえる

おとは 静まって
こどもは ねむる
うたが きこえる
ことばにならない ちいさなうた

ちいさな ちいさな こえ
消えてしまいそうな こえ
それでも たしかに きこえる

いま どこかで
うまれる こえ

いま どこかで
うまれる こえ

かなしみの海に
一滴のよろこびを

ちいさな だれかに
そっと やさしく
届くと いいな



確か、こんな詩を書いた。
20歳のときだったと思う。
お気に入りの鉛筆を手に取り、白いノートの切れ端に走り書きした、ちいさな詩。
忘れていた詩を、思い出した。
顔も知らない、女の子の「こえ」をきいたからかな。

僕たちは、ともすればすぐに忘れてしまう。
自分の目の前にある世界だけが、当たり前のこととして、それ以外の世界のことなど遠い世界のおとぎ話みたいに思ってしまえる、とても鈍感な生き物だ。

世間では、東京都知事選の真っ只中です。
候補者のおじさま方は、声を大にして、自らの政策を町中に轟かせます。

「脱原発!原発反対!!」

叫ぶ声は、どこか空っぽで、まるで公園に横たえられたトンネルみたいな空虚さを僕の鼓膜に届けます。いや、本気で言ってるのかもしれないから、そんな風に書いたら悪いね。ごめんなさい。

これまでの世界は、なんだか声の大きい人が大きなことを言い、その大きなことにみんなで寄り添って、不平不満を言い合いながら生きていくような場所だったような気がします。ジャイアンリサイタルみたいなかんじ?誰もジャイアンのうたは好きじゃないけど、ジャイアンには逆らえない、みたいな。

でも、どうやら、そんなジャイアン時代はもうそろそろ終わりを迎えたみたいです。

ジャイアンの叫びはいまも続いていますが、
ジャイアンのこえに隠れて聞こえなかった、ちいさなこえに耳をすます人々がたくさん出てくるようになりました。

ミヒャエル•エンデの『モモ』読んだことありますかね。
ちいさな女の子、モモと時間泥棒のお話。
僕、あの話、大好きなんですよね。
僕も昔から、モモ、とか、モモちゃん、とか呼ばれていたこともあって、勝手にモモに親近感を感じていたりしました。ちいさなころから、大好きなモモ。

モモはなんにもできない女の子。
でも、ひとのはなしを本当に聞くことができるんですよね。

これって、なかなかむずかしい。

でも、モモにはそれができる。
モモにはなしを聞いてもらうことで、みんな悩みが解決しちゃうんです。
これって、すごい力ですよね。

いま、僕らが生きている場所。
ほんとうに必要なのは、モモみたいに、耳をすまし、はなしをきいてあげること、なんじゃないかなあ、と僕はなんとなく思います。なんとなくでごめんなさい。でも、きっとそうなんだと思うんです。ももせの勘です。たまにはあたるんですよ。へへ。

耳をすます
誰かのこえがきこえる

それは街のなかかもしれない
インターネットの上かもしれない
仲のいい友達でもいいね
自分のこえでもいいよ

世界には ほんとうにたくさんのこえがあふれている
その ちいさなこえに 耳をすませたい

どんなこえがきこえるかな

こえ それは うたにもなる
ちいさな ちいさな うた
みんな ほんとうは 自分の物語とうたを持っているんだよ
本当さ うそだと思ったら うたってごらん

考えなくていいんだよ
身体も言葉も手放して
好きなようにこえをだす
ほら メロディが生まれた
そうそう
あ ちいさな うたのこども
生まれたね うれしいね
僕にはきこえたよ
きみのとっておきの 素敵な うた
ことばにならなくても きこえてるよ
音にならなくても きこえてるよ

きみだけの とっておきの うた
僕のだいすきな ちいさな うた

うたってくれて ありがとう。

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