夢見のしかたやギターの弾き方、うたのうたいかた、コーヒーの淹れ方。その他もろもろ、このごろは、うちの人にすこしずつ、必要なときに伝授したりみてもしているなかで、その、教えるという過程のなかで、自分がもはや暗黙知として当たり前の底に沈めてしまっていることに気づかされることは多い。
いわゆる弟子入りのようなものをせず、自分に必要なものをそのときどきに、必要だと思われるしかたで、つまりは、その時々の自分のリアルとして、そこに向き合うことばかりをしてきたので、他者に向けた言葉というものをあまり耕してはこなかったというのはあるように思う。
至った人間などおらず、教えることを通して我が身を他者にぶつけて裂開をもたらし、そこに、すでに忘れてきたものを新たなしかたで見るということ、そこに言葉が浮遊するということ、そしてその伝達のなかで削ぎ落とされつつも伝わるもの、そしてまたそこから学ぶもの、確かに多くある。
つまりは教えることで教えられている。それに気づくことが増えてきた。というのはある。そういう時期にはきているらしい。無数に繁茂する森のなかを逍遥することはそもそもの快楽なのだけれど、それとは違う位相においての学びのしかた、というものが、そこに他者を導きいれてくれるというその時のこと
どこまでも暫定的な、固定化でしかないところのものを、それが固定化であると知りながらもそれを手渡すというところへの、責任への微細な逡巡。なのかもしれない。書きかえられ、織なおされるもの。それでもなお。一部の織物。形。ゲシュタルト。関係を結ぶ固体。個体。どうも、避けてきたきらいがある
それでもなお、そうしたものを贈られるなかにいつづけていることもまた、とても確かなこと。それと同様にして、と、思うものだが。未熟も未熟で、無知も無知であるところのものが、遺すことなど畏れ多い、というのは、いらぬストッパーであろう、とも、思えるのだが。不思議なものだ。
「 講義というものは独白に近いものである。そもそも発話というものは他者を前提として成り立つものであり、仮設された相対化において可能なものとなる。
私は元来、複数の他者を前にすると言葉を失うという性向をもっている。というのは、いずれに向けて自らのペルソナを相対化すべきかがわからなくなるのである。いわんや講義をや、というのがまず私の最初の壁であった。あらかじめノートを用意することにしたものの、私の思考は私の中では当たり前のこととして言説化することの難しいものであることが明白になるばかりであった。そこで私が仮設した他者とは、私がこの十余年にわたって記してきたフィールドノートに現れた過去の私自身であった。つまりここでも私にとって当たり前のことは埋もれたままになっているのである。とはいえ、フィールドノートというものは生々しいその各々の場所の記憶を刻み込んでいるものであって、いまだ未発なる無自覚な観念を含むものであり、その「経験」を現在において想起する過程で何かしかのズレを生じさせるものであった。そこに私は相対化と他者性の可能性を見つめながら、やっとのことで言説化の道を探ったというのが実状である。(中略)ところでこのような私の発話は、ちょうど膨大な神話を記憶した巫師が、その中からその場に有用と思われる記憶を、地上に描かれたランダムな線や備忘録として描かれた絵文字や記号をとおして想起する行為と表面的に重なって見えるものでもあった。
しかも講義の手法は語りであって、エクリではない。巫師においても語り(時として騙り)はもっとも基本的かつ重要な手法であって、そこにおいては固定したエクリのオリジナリティは存在せず、何よりもその語りそのものが常にオリジナリティを帯びるのである。
ただし始めに述べたように発話は他者によって成り立つという条件はここでも揺るがない。ただ、そこにはある緊張した儀礼的(非日常的)な空間を共有する必要がある。(中略)総じて私の言説は私の直観の仮初の姿であって、言説化には、直観に因って捕らえられた世界の各位相が、有機的に連繋して織り成している関係性の綾の重要な糸を、断ち切る作業を伴うものである。そこで私はこれを少しでも恢復させるため、全体的に言葉によるモンタージュ手法を意識しながら言述した。それ故、私のそれは一見論理的には矛盾と映るものも含まれる可能性が高いのだが、願わくば私の言説を支えている生々しい直観が直観されることを、というのが私に残された唯一の思いであることをここに記しておきたい。」中島智『文化のなかの野性』序
ふと読みかえす なんて誠実な序文だろうと 感嘆する こういうふうに言葉にする能力さえ僕にはないのだけど 少なくとも同じようなことをいつも思い考え躊躇い それでもなお と思ってみたり 書いてみたり する エクリとパロールの差異はあれど 言説の困難
その困難にむきあいながら ふらりと僕はどうもこのごろ 蜘蛛と雲のことを眺めていたりした 綾を断ち切る作業について考えては 池のほとりに白い糸を張り巡らせてみずからの生きるための巣を織る蜘蛛の生命のありかたをそこに裏返して見ていたり
小さな虫がそこに飛び込み捕らえられたまま死に絶えるその死骸の姿かたちをまなざしてはその死を想い それを捕食する蜘蛛と餌との関係の糸を見ては生命の連鎖を想い 動かなくなった死骸と見えるその餌ははたしてほんとうにいつ死んだと言えるのかとその以前と以後を想い
僕の手が触れてすぐにその糸は僕の手に絡まり 僕はその糸の端を人差し指と親指で摘んでそれをひっぱると 糸は簡単に切れてしまい 僕の手によって断ち切られた糸はそのままぷらぷらと宙空を舞い 蜘蛛はせかせかと動きはじめてまたそのうちに糸を吐き出してはその巣を織るという
死んだ獲物はいつしか喰われて蜘蛛のからだの一部になる だろう けれどそれをすべてまるごと全部見ていることも僕にはできないので 僕はそのまますこし断ち切ってしまった巣の主にすまんと声に出さずに謝り 頭上に流れる雲の いつも変わらず変わり続けるその姿かたちに見惚れる
知の網の目 ヘテロジニアスに記述したとしてもそれはヘテロに留まるものでもあると言えるその困難 困り果て難しいと感じるそのなかにしか語り書くことによって綾を為すことができないという分される文の存在困難 森のように書いたとしても森そのものを書くことはできない
蜘蛛の巣の網の目の隙間をすり抜ける小さな虫がいたとしても その巣はやはり捕らえもする 生き延びるための食物を 綾なされるものはそうして捕らえる 綾 文 文と化するもの 文化 分化していくなかで 編まれた巣 一滴の雨の雫が溢れたとしても
すでにそこに編まれたものが どうもそれはおかしいのでないかと見える そこにある風景のこと その異和 その違和 そこから新しい糸の芽が生える 吐き出される 蜘蛛になる それによって新たに捕らわれるものもあるとしても 死骸へと向かう最中から生還するものも
死骸へ向かうものにたいして 文を織るということは そのかつてのわたしでありそのわたしに似た他者であるところのものに 書くことは 死に絶えるまえのなにものかとともに そこにそうして よいもの かもしれないとは 思えてくる
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