2016年4月26日火曜日

言説のモンタージュ・「音楽」の境界、越境、即興・巫術における託宣と〈うた〉の本源的相同性について

言説のモンタージュ、異なる位相に属する語りを接続する文の綾成しは因果と因果の錯綜の諸総体に向けてとり行われる。複雑性を単一性に集約してしまうのではなく、ロジックを解放しその扉を開き異なる〈部屋〉のなかを逍遥するバイロジカル、ヘテロジニアスなパロールとエクリの遊走歩行について。

言説のモンタージュという文生成の表現技法を用いることにたいしてはまだ不慣れだ、と思ってはいるが、実のところ、モンタージュ的な作法に基づいて思考するというのは十代の頃から変わらぬ作法であることをこの頃改めて自覚した。

知の境界領域、その峻別ということを暗黙的に刷り込まれる学校教育観というものがあると感得し、大学では全く統一性のないあらゆる学知を逍遥した。そうでなければわかるはずがないということだけは確かすぎるほどにわかっていたのでいつも頭のなかはカオスだった。それは今もそうかもしれんが。

分別知というものはその個々において深めていくための効率性、合理性というものを提供する、が、諸事物は分別されながらも無分別であるという矛盾のなかにしか全きすがたをあらわさないというのは十代からの直観としていまも変わらない。先日の鈴木大拙の説く”無分別”への〈接続〉。

なので、大学にはいって不定期に行っていたこととしてひとつ独自の「思想地図」の製作というものがあった。学問領域でもいいし、気になるタームでもいいし、とにかくその時点でおのれのなかに渦巻くものたちを紙に思いつく限り紙に書き出してそれらを線でつないでいく。見えない因果が可視化される。

音楽について考えるためには音楽以外のことをも考えなければならないとの旨のことを説いたのは武満徹だったと思うがそれもまた当然である。音楽というのは”音楽という言葉”を超えるものであるのは当然のことで、音楽を考えるにあたり「音楽」だけを追っていてもそれがわかるはずもない。

【音楽と日常】(2014年6月11日公開分のTwitter再掲載)

「再生」と「再/生」の差異
musicalmicrostoria.blogspot.jp/2014/06/blog-p…

ライブという場で「曲」として構築・”完成”されたものを演奏する際に当時感じていたもやもやについての思索の文をふと思い出して読んだ。楽曲の演奏という「再現」に纏わる「再生」と「再/生」の差異というものについてその時の感覚的思考を記述している。

内容について大きな思考的転向はいまもない。「再生」と「再/生」には差異がある。それは自身の演奏においてのみならず、他者の演奏の鑑賞においても知覚可能である。演奏者が「完成された曲を、自身の知りうる最高の演奏として、演奏しようとする意識」の有無というものも鑑賞可能である。

厳然とした峻別は不可能かもしれないが。なぜ可能かと言えば、演奏者がある完成された楽曲を演奏する際に、「完成」「最高の演奏」というものを意識している時点ですでにそこに自己意識が介入して、音楽体験に演奏者自身が没入しきれないため、その演奏者の自己意識がこちらに”聴こえてしまう”のだ。

それを良しとするか悪しとするかは鑑賞者の態度や嗜好にもよるだろうが、僕個人としては、そうした「意識がその時点で知りうる完成・完璧をなぞる演奏者の自己意識」は、音楽を卑小化すると感じられる。ゆえに演奏技術としては卓越したプロの演奏には退屈なものが多いということもある。

楽曲という形態を意識的になぞってしまうと、たとえばギターを演奏する手よりも頭での思考が優先されて、忘我的な音楽への官能状態、ある種の非意識状態が意識状態へと回帰してしまい、その分音楽体験としての官能性が減少するということは言えるのかもしれない。

先日のブログでは、〈歌い手と場の官能性〉と鈴木大拙を引き合いに出した〈禅的なるものの無分別〉を記述した。
musicalmicrostoria.blogspot.jp/2016/04/18013.…

無分別的な状態、〈意識の自然状態〉というものを仏教哲理は重要視する。即興を本性とする技芸もまたしかり。

「神子は九字の印を切って笹を持ちながらまず高神の託宣をおこなった後、神送りの歌が唄われます。そして次に拠神の託宣がおこなわれます。この託宣ですが、これは神子にいわせると「おだいじ」が喋るのだそうです。「おだいじ」といいますのは神招八ヶ大事や護身法之大事という文書の入った袋のことで、いわば神子の証書であると同時にお守りのようなものです。また、神子は託宣について「自分で喋ったことを他の人から後で聞いても覚えていないことも随分ある」とも「自分は口から出る言葉を喋るだけで内容は覚えていない」とも「信仰だから何が出てくるかわからない。信仰していれば神様が出てきてくれる。一生懸命に信仰していれば口で喋らされる」ともいいます。」中島智『文化のなかの野性』第五講 飽和地帯のアルスー日本   「巫術師」と人文  258頁

「これは私自身の体験から非常によくわかるものです。私も描画において何が出てくるかわからない楽しみと驚きを経験していることは既に申しました。これも相対的・社会的自我からダイナミックな無境界の世界へ意識が変性することで、この託宣と同様に世界を取り込むとも世界に移入するとも表現できる一種の「熱情的忘却」によって大量の情報が「他者的世界」から流れ込んでくるのです。その意識は直観から勘から恍惚から陶酔というものまで形や深度は様々ですが、やはり言葉では表現できないものです。あえて強引に分析すれば、それは「疑う」ことから始まる思考論理とは別の野性的=官能的な論理でありまして「信じ切る」ことから導かれる心身の委託状態によって無根拠な自己が実現されるのですが、それは既に述べました「覚」や「緩やかな衝動」や「内なる他者としての野性・神性・官能性」といったものが活性化をはじめることで世界(他者)とのダイレクトな交通(移入)が可能になるということです。これについては根拠を必要としない強力な確信がマスカレードを生じさせる効果やシャーマンと芸術家の変性意識による「眼力」(移入力)というテーマで既にお話しましたね。そしてこれを体験してしまうと「考えることは間違いを必ずはらむ」ということが実感としてみえてくるようになります。イダッコも、こう述べています。「口から出てくる言葉は信仰から出てくるので、信仰が足りなければ間違ってしまう」と。心身を開いて多元的な世界にコミュニケートすることで得られるものは、思索によって得られるものよりも豊かである以上にリアルで正確なものである、とここで申しましてもしょせん言葉で伝わるものではないというのがここでの結論かもしれません。」中島智『文化のなかの野性』258-259頁

「僕が歌う」ではなく「口が歌う」ということは、たぶんそれなり鍛錬を積めばだれでもできます。何を歌うか、どのように歌うか、という技法・作法はシカトしてまずは「口に歌ってもらう」こと、それが可能だということを信じて口に任せてみることで、勘のいい人ならすぐに体感できると思います。

「体験した人の言うことを信じなさい。あなたは森林のなかで、本では見られない貴重なものを発見するでしょう。博学の人から学ぶことのできないものを、樹木や岩石から学ぶでしょう。あなたは石から蜜を吸い、角立った岩から薬を採ることができないとお考えになりますか。けれども実際には、高い峰は甘露をたらし、丘は歌と蜜をほとばしらせ、川のほとりは五穀が実るではありませんか。」聖ベルナルド(池田敏雄『乳と蜜の流るる博士、聖ベルナルド論』)

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