2016年4月26日火曜日

【それ】と〈死〉がいるということ・日常の〈裂け目〉と異界への〈交通〉的生活、態度

うちの人が今夜はこのまま寝たら枕返しきそうやわと言うので僕が、せやな、今夜はなんかおるわ、と答えたら、これって共感できるんやと驚かれ、そら共感できるでと答えた。生きてはいないもの、死んでいるもの、あるいは【それ】がいることは案外そういうもので誰かと共感できるものだ。

最近は【それ】が僕の部屋に来ることはすくない。今日はみんなで昼から日曜大工ならぬ月曜大工をしてすこしばかり疲れていたので来たのかもしれない。疲れていると寄ってくることは多い。隙につけこんでくる。そういう感じというのはべつにふつうにある。

【それ】の、なんだか邪悪さが濃密なときは僕はそれを〈死〉ととりあえず呼んでいて、「あ、〈死〉が今夜は近寄ってきやがった」とか電話で話したりもまえはしていたけど、どうやら不用意に寄り付かせ取り憑かせない程度には鍛錬を積んでくることができるようになったからこの頃はそれはあまり来ない。

【それ】と〈死〉との境目というものはいまのところ僕にはよくわからない。とりあえず大きくまとめてそれがいる、ということがわかるという程度なのかなとおもいながらそういうときはとりあえず息を整えたりうたったりギターを弾いたりする。音楽は音が消えても部屋からしばらく消えないでいる。

こういうふうに書くとこのオカルト野郎がということになるのかもしれないけれどそれはまあそれでいいと思っていて、それ、ないしは、なにかがいる、ということの、それを感じることの確かな感触に比べればそれの実証も批判もべつにどちらもあまり大きな意味をなさない。いるからいる、それだけ。

【それ】が自分というもののなかに巣食うときというものもある、むかしはあった、【それ】はうちがわに巣をつくるようにしてうちがわからヒトを蝕んでくることもあるのでそれには注意をしたほうがいいと思う。それがほんとうに自分なのか自分のものなのか確かめる術というものがはっきりあればいいが。

わかればいいが、わかるもんであるときもあればわからないものであるときもある。そもそもがそこでいう自分というものがどこから、自ら分かれてある、ものなのかということはヒトにはそう簡単に分けられるものでもなく、本来的には分かれていないかもしれないものなのでわかろうとしてもわからない。

そういう大きな、いろいろな種類や方向をも含んだ【それ】との〈交通〉の回路が開かれてしまうというのは一種、日常の〈裂け目〉というものであって、良きにせよ悪しきにせよ、裂けてなにかが部屋のなかに流れこんできてしまうということはあり、それはもうそれでしかたないとも言える。

ただし、おのおのに必要な訓練を積むことで不用意に【それ】に感染されつづけ死にたいとかいう自分ではないかもしれないけれど自分でもありながら同時に自分ではないところの死にたいというその欲動を生の欲動に振り向けるということも可能だし、それを寄せ付けずそれと暮らすこともできるものだ。

【それ】に脅かされているヒトはまずはそのことについて視界を向けてその声を聴き、そういうことが可能だということを信じ切ってみるのもひとつ、いいかもしれない。僕は信じろとは言わないけれどこれはひとつ僕の経験談というか語る時点でそれはある種フィクションなのだけどそれが僕のリアルでもある。

あとは、うちの人にも言ったけど、【それ】を闇雲にこわがらないほうがいい。基本的にはそれ自体はべつにこわいものじゃない。それの方向というのか、向かう先というのか、発露のしかたというのか、そういうものをまちがえずにていねいにそれを付き合えばそれですむものだったりもする。

音を鳴らすとそれは空気振動としてはいずれ消えるのだけどさっきも言ったようにそれはそう簡単には消えない。音は消えても消えないものが部屋にこだましているのはよく身体を澄ませばわかる。それを聴いたほうがいい。それは澱んだものをひかりのほうに浄化してくれたりもするものでだから音を鳴らす。

それはその意味では反転して至福なものともなりうるもので、【それ】はだから〈死〉と呼びたくなる状態にあるときもあるけどそれを音楽を介して別様に変えることもできるものであって、だから【それ】が仮にその瞬間は死んでいるものだとしても生きているものになることもあるしそれは同時だったりする。

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