「猫という鏡は、光の反射を利用したふつうの鏡を超えた作用をしめす。それは鏡の向こう側に広がる領域への通路を開く、「生きた鏡」なのである。だから猫への「愛」は、人間的愛の向こう側にある世界に触っていることになる。」中沢新一
僕が吉本隆明さんに”出逢い”、彼に惚れたのは、この本を読んでからだったなあと思い出す。
「抽象的な自己同一はまだなんら生動的ではない。肯定的なものがそれ自身否定的であるということ、このことによってはじめて肯定的なものは自己の外に出、変化のうちに自分をおくのである。だから、有るものは、自分のうちに矛盾を含んでいるかぎりにおいてのみ、しかも矛盾を自分のうちに容れ、持ちこたえる力であるかぎりにおいてのみ生動的である。(ヘーゲル『大論理学』)
「「抽象的な自己同一」というのが、この場合、吉本さんのいう「余計なもの」である。それは「私」とか「人間」という同一性の中に収まっていて、外に出ていこうとしない。この「余計なもの」を否定し、壊し、捨て去ることができれば、はじめて自分の外に出ていって、実在の変化のうちに自分をおくことができる。そのときはじめて精神は生動的になれる。」中沢新一
猫になるとかいうとじゃあどうやってなるんやそんなん無理やろと言いたくなる人もおられるでしょうが、「そんなん無理やろ」というのは「猫」という「抽象」に「抽象的な同一性」をもって向き合おうとしかしない姿勢から生じる言葉なんやないかと思われます。
三鷹に住んでいた頃、井の頭公園でよくギターを弾いたりそれを聴いてくれていたたまたま出逢ったおっさんにビールをご馳走になったり夜にはさみしげな女の子の恋バナ相談にのったりしていた僕ですが、当然、井の頭公園にいれば猫とも仲良くなります。いっぱいいるもの。
猫さんたちにむきあうには猫さんたちとおなじように猫さんに向き合わなければうまくいきません。人間として近づこうもんなら猫さんはすぐさま遠ざかります。だからまずは猫さんがしているのとおなじ眼で猫さんのことを見るのです。そうすると猫さんと僕とのあいだがぴたりと静止する瞬間がうまれる。
これは赤ちゃんにむきあうのとだいたいおなじです。赤ちゃんにむきあうときに大人の人間としてむきあうとよそものはすぐに泣かれてしまいます。赤ちゃんがこちらを見る眼でもって赤ちゃんを見るときに、ぴたりと眼差しの交叉がゼロになる、そういう瞬間があると思います。
どちらも鏡のようなふうにしてこちらをまなざしてくるものですから、こちらもまた鏡のようにしてそちらをまなざしてあげるとき、こちらとそちらという双方向のベクトルがちょうど真ん中で溶け合い反射しあいうつしあうまなざしのゼロ地点に双方が立つ、ということがあるんだと実感します。
仏教哲理などでもそうしたゼロ地点、ゼロポイント、ゼロロジックというものは身体技法、たとえば「チュウ」という観想技法による身体解脱の伝統的手法に継承されておるとうかがい知っております。「抽象的な同一性」にもとづくアイデンティファイされた〈私〉の境界を解体・溶解する作法です。
身体というものは物質的に構成されており、それは可視的な境界領域を有し手に触れることもできる確かな実存として認識されておりますが、それは物質的な位相での知覚ということであって位相を変容させてしまえばそれは粗大なマッスとしての固体から微細な粒子としての流動体にも変容可能なものです。
この点、身体論は様々な位相をもって語られる必要があるものであるということはひとまず脇に置いておいて、物質的境界領域としての身体という存在-感が、圧倒的なリアリティを形成してしまっているドクサのようなものがあるのが現代的な認知作法かと思いますし、それが自己同一性とも結びつきやすい。
〈私〉の輪郭はあまりに堅牢なのでそれをそのままに視覚・触覚認知する日常的思考のなかではもちろん猫さんになることなんてできません。し、物理的に猫さんになることは素敵ですけどたぶんできません。できるのはそうした意識の変性状態における〈猫化〉ということでそれは身体性を伴うということです。
一時期、井の頭公園の野良猫さんたちと何時間も何時間も見つめあったまま微動だにしないという遊びをしていました。どのようにまなざすことができれば猫さんは僕のことを自然にまなざしてくれるのかということを実験していた、というほどの意識はないんですが、あの眼はとてもおもしろくてね。
うちで飼っていたコロという猫さんはもう死んでしまってそれをアパートメントの記事にも書いたんですけど、いま生きているコロがまた僕のまえにひょっこり現れてくれたら僕は以前よりもずっとあいつと仲良く暮らしていけるのになあとすこしさみしい気持ちにもなったりするものです。
もちろん猫の考えてることなんてわかりっこないのでそんなことはわかろうとしなくていいんです。わからないことをわかろうとして相手に詰め寄るのは相手を遠ざけるだけだと僕は猫さんから学びました。わからないことをわからないままにそれこそそのままを鏡のようにまなざしてからだをひらいてあげる事。
そういう視点に立つならば、猫さんにむきあうのも赤ちゃんにむきあうのも、それよりもなんだかいろいろと余計なものが多い人間にむきあうのも、本質的にはかわらないんじゃないかと思ったりするんですよね。猫さんになっちゃえばいい、というのはとてもいいはなしやなあと僕は思って読みましたあの本。
”動物になる”というのは、山下澄人さんの小説「ルンタ」にもそういうシーンがあって僕はあれを読むといつもどきどきします。近代的個人が個人のまま閉じているというものにあまり惹かれないというのは僕の嗜好なんですが、”動物になる”ってのは神話的思考の対称性がそこに働いていて、どきどきする。
そもそもが人間も動物なんですけどね。でも動物から切り離されちゃった。バタイユが言うことを簡単に言うとそういうことで人間が動物から切り離されて「人間/動物」という「/」が抽象的認識として発展してこびりついちゃった。その「/」はなかなか消えない。その「/」を「非対称性」という。
人間と猫は種も違うんで非対称なのはそれはそうなんですがバタイユなんかが嘆いていたのはその非対称性から人間が”動物性を剥奪され・喪失してきてしまった”ということなのかと僕は読んでいるんですけど、読みの正確さには自信はありません。ともあれ、動物性の恢復というのは色んな人が言う。
神話的思考はそうした「非対称性」の覚知から人間と動物・植物・自然界への「対称性」へとむかう〈接続回路〉のようなものを世界各地に現出してきたようですが、実は現代日本においてとても身近でささやかな実践として、そんな風に野良猫と見つめ合うこと、そして猫さんになることがいいやないかと。
神話を読む人を増やそうとするよりは猫さんとのむきあいかた、まなざしあい方、見合い方、というものひとつとってみても、ヒトが猫になるということの意義深さのようなものは覚知できるんやないかと僕なんかは今こうしてぼそぼそと書き綴っているなかでそう感じました。神話を日常の所作におとしこむ。
とか言うと大げさなんですけど、猫と見つめ合うのはいろいろととてもいい訓練になるものだなあとむかしをふりかえり思いましたいま。そのまんま井の頭公園のベンチでスーツのまんま昼寝しちゃったりね、してたんですけど。動物への回帰ってそんなに高尚なものでもないよねって、吉本隆明さんへ〈接続〉。
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