2016年4月22日金曜日

Aの踊りの追憶にまつわるエクリチュール

Hot Buttered Club。溶けだしたバターの香りが立ち込めていそうな名を冠したその店は渋谷にあり、その店でぼくはある女性に再会した。その人はぼくが心から尊敬する踊り手であり、ぼくはかつて一度だけ見た彼女の踊りを今尚全く忘れられずにいる。

彼女の踊りを見たのは何年前だったか。ぼくは数字というものに疎いしこの頃は曜日感覚すらなくしてしまったような時間感覚の崩壊のさなかにだらだらと生活をしているのでそれを正確に思い出そうと思う気持ちも起きないし、仮にそれを正確に思い出してみたところでそれにはさほど意味はないのでそれは別にいい。いつそれを見たかというのは体験にとっては重要な事柄じゃない。重要なのは、今尚ぼくは、今ここにいながら彼女の踊りの時空間の感覚のなかへはらわたとともにそこに滑り込むことができるということで、つまりそれはいつでも再起動できる感覚としての記憶であって、つまりそれはいつでも再起動できる感覚としての記憶であって、その感覚だけはもうなにがあっても忘れないだろうと思われるほどにぼくのはらわたのなかにひっそりと、それでいていつでもそこにいるものとして、感覚だけはもうなにがあっても忘れないだろうと思われるほどにぼくのはらわたのなかにひっそりと、それでいていつでもそこにいるものとして、ぼくのはらわたはそれを記憶している。それを記憶と言うのだろうか、それをぼくは概念的には知らないが、確かにそれははらわたの記憶というしかたでしか言い表すことのできない、たとえそう言ったとしてもそれもまたたいした意味はもたないかもしれないのだけどそういう類の一撃をはらわたに喰らい、いまでもなおその踊りがぼくのはらわたを踊らせることがある。

熱く蕩けたバターの香り。その店のカウンターに腰掛けてぼくはその夜彼女といた。彼女とはときどき思い立ったときに会うことにしている。そして話をする。いろんな話。どんな話をするかは特に決めてはいない。それはそうだ。別にディベートをしにいくわけじゃない。ただその場でその時々に二人のあいだに沸き起こるものを話す。会話に計画はいらない。それはいつも即興であり、パンのうえのバターが熱を帯びて溶けだしてゆくようにおのおのの地図のような模様を描くようにしてゆっくりと親密に進行していく。

Aの踊りに驚かされた理由をあえて端的に一言で言葉にするならばそれは、彼女がその場所で踊ることでそれを見ていたぼくの内臓がそれに導かれるようにして踊りはじめてしまったからだ、ということだ。これをもうすこし詳細に記述してみたい。これはあくまで記憶を遡行する追憶の試みであり、ここで記述される記憶は当然ある種のフィクションである。体験そのものを言語化することはできない。人は愛するものを語ることに失敗すると語ったのはロラン・バルトだったか、まあそれはそれでいい、失敗するならすればいい、失敗に先に見えてくるものもまたあるのだから。

某日。ぼくは彼女の踊りを見るためにひとり、その場所へむかった。そこは古びた場所だった。劇場というにはあまりに簡素なその造りと、古びた建築物だけが醸し出す重厚な沈黙の気配。ぼくがその舞台を眺める観客席に着いたときそこはもう人で埋め尽くされていて、あたりはもう暗く消灯されていたので座る場所を見つけるのも一苦労だった。ようやく席についたぼくは肩をすぼめながら踊りのはじまりを待った。

その頃のぼくは踊りの舞台をよく見に行っていた。それはぼくが当時引き受けていた舞台音楽制作の仕事柄の事情もあったけれど、それとともに踊りというものへの興味関心、という言葉を超え出るくらいの熱量の、踊りというものをこの身に体感したいという欲動によるものだったのではないかといまでは追憶する。それはひとつの衝動だった。

友人と井の頭公園で酒を呑んでいたときがあった。ふと彼と踊りについて話をしていたとき、彼は、日常的にダンスが見たいとかそれを体感したいとかそういう欲求はないなと話して、ぼくもその時はそれに頷いた。ダンスというものがその時のぼくには遠いものだった、少なくとも、マスメディアを踊らせるダンスにまつわる情報のなかにぼくの心を踊らせるものはなかったし、その当時いくつも体験・体感した踊りのなかに自身に贈与の一撃を与えるようなものはぼくにとってはなかった。ぼくの日常から切り離されたところにダンスがあり、ダンサーがいた。それは遠い感触だった。

開場時間がせまっていた。ぼくはカバンのなかからペットボトルのお茶を取り出して一口それを含みそれをカバンに戻した。のどが渇いていた。会場はすでにむあっとした熱気を帯びていた。客席と客席の距離が近すぎるのもあった。となりの人と肩が触れ合っていてまるで満員電車のなかみたいで不快だった。けれどそれでも見に来たのはぼくだからそれはしかたない。開始の時間を待った。

暗い舞台。それはもう黒い舞台と言ってしまいたいほどに真っ暗闇のなかに埋もれていた。そこになにがあるのか、なにがないのかもぼくの目には見えなかった。濃密な暗闇。けれどそれは嫌いじゃない。幕があけるまえの静かな闇。それからでないと見えないひかりもまたたしかにあるものだとぼくは知っている。

記憶。次の瞬間。舞台にスポットライトが当たった。女の背中が見えた。女は黒い薄手のドレスのような、ドレスというにはあまりに簡素な造りのそれを一枚だけ纏って、こちらに背を向けて立っていた。

その瞬間。

その瞬間にもう、ぼくは、そこにいるなにものかに捕らえられていた。

女の背中を見ていた。女はすこしも動かなかった。それは立っていた。おそらく立っていたのだろう。けれどそれはぼくの知っている普通の意味での立っているということをすでにあまりにも軽々と超えてしまっていて、ぼくにはそれをぼくやだれかが普段それをしているような、いわゆる立っているという状態のことを指す言葉と同じ言葉でそれを呼んでもいいものかよくわからない。そういう、立っている、ということがある。ということをまずぼくはその時はじめてそれを知った。それはもうすでにそれだけで踊りだった。それは間違いのないことだった。

ぼくは微動だにしない彼女の身体の立ち姿に眼を含めた全身を釘付けにされたまま彼女のことを凝視していた。腹が痛くなってきた。いや違う。正確には腹が痛いわけではなく、その身体を見ることで捕まえられてしまった自身のはらわたのある場所に自然と手を当ててしまっていた。それは痛みにも似ていながらべつに痛いわけではなく、見えない手のようなものに腹の内部をしっかりと掴まれてしまった感覚への驚きへの反射的な対応であったというほうが近いのかもしれない。それは痛みにも似ていながらべつに痛いわけではなく、見えない手のようなものに腹の内部をしっかりと掴まれてしまった感覚への驚きへの反射的な対応であったというほうが近いのかもしれない。ぼくは、というか僕の身体は彼女の身体を垣間見たその瞬間にすでに彼女の身体に捕らえられてしまったということは確たる事実であった。この感覚を正確に記述する術がぼくには見当たらずいまこのようにして冗長にそれを追憶して記述してみるがやはりそれはそのままのそれを記述することは不可能だという結論に達さざるを得ないという諦めの感触とともにしかしそれでもなおそれを書いてみたいのだといまこうして書いている僕がここにいま文字をつづっている。文字を綴るグルーヴ。いまは止まらない。

というのは嘘だ。グルーヴは一度止まった。というかそれは止められた。同居人がぼくに話しかけてきたからだ。それは今日の出来事。ぼくはベッドに寝転がってこれを黙々と書き綴っていたのだけど、それはもうそれだけですでに踊りだったとそう上に書いたそのときにぼくは彼女に話しかけられてぼくは一時的にこれを記述するのをやめて、この文章はそれゆえ一時的な断絶ののちにいまこうしてその過去の地点から数時間経ったいまにこうして綴られている、というのは文章における時間性の不思議というもので、ぼくはその不思議のこともいつも不思議がったりもする。がそれはいまの本題ではないのでそれを記述することはいまはやめておくことにしよう。ぼくはもう一度あの舞台をまなざすぼくへと回帰する。

ぼくは腹に手を当てていた。ぼくは彼女の身体を見ていた。見つめたり、ながめたり、彼女の身体の境界線を辿ってみたり、その境界線の外部にあたるいわゆる空間と呼ばれる場所に眼を泳がせてみたり、彼女の身体をもふくめた空間の全体の気配をながめてすくいとってみたり、それこそいろいろなしかたでそこに眼はいた。ぼくは見ていた。それは確かだ。どのように見ていたか、それは書ききることはできない。見ることと語ることは違うからだ。どれだけ詳細な記述もその現場で起きていたことをそのままに書ききることはできない。痕跡というものはそういうものだ。エクリチュールの困難、その不可逆的な圧縮作用、つまりは、記憶を頼りに出来事を追憶して記述するということはドキュメンタリーの作法のようでもありながらそれは結局のところ必然的に嘘、フィクションにしかなりえないのである、ということを前提にしてしかこのようにこうしたことを書くことはできないので、ぼくはいまぼくの見た風景と感覚をある種のフィクションとして記述している、それは先ほどの時間性の断絶と接続が読者の知らぬところで時間を削ぎ払い圧縮してしまうことと同様にして、ということを前提にしてしかこのようにこうしたことを書くことはできないので、ぼくはいまぼくの見た風景と感覚をある種のフィクションとして記述している、それは先ほどの時間性の断絶と接続が読者の知らぬところで時間を削ぎ払い圧縮してしまうことと同様にして、れてしまいやすい視座であり視界である。視界の外にもまた視界のうちがわに連なるリアルが潜んでいるというのは、無意識が抑圧されることでここに浮上することになった意識との関係にも似ているものである。

彼女の身体が、その動かない踊りが、その停止時間が、彼女の意図されたものであるのか、あるいはどこまで意図されたものであるのか、ないしはすでにもうその時点で意図などを越え出てしまっているものなのかをそれを見ているぼくには判断できなかった。その停止時間はどれほどだったか。長いようで短いようで長いような、その時間感覚はすでにそこで日常的な時間感覚、時計の指し示す時刻の単一性をバターのように溶かしてしまい、ぼくは彼女の踊りの時空間とその時間感覚のなかにすでに全身で取り込まれてしまっていたのだ。

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