2016年4月15日金曜日

《断章》 息・主体・僕という言葉への不信と名指しの力学からの脱却的思索

息をすることで生きている生命がいる。それは人でもあり動物でもあり息をすることで生きている生命がいる。それは無数にいる。それぞれは人、や、動物、という言葉で分けられている。言語の分節化作用というものがある。井筒俊彦氏の著書『意識と本質』という書にそれは詳しい。本質喚起作用。人がある物を、対象を対象として認識する、その時に、いわゆる意味での意識というものをしなくても僕は僕の眼に映る”それ”がどのような本質を備えたものであるのかということを”知ってしまう”。それは意識と結びついた言語の分節化作用、海の波のように絶えず揺れ動く流動体のなかにしかないものをも固定化する、そこに、もの、がある。ものの本質。それがそれ以外ではなくそれである、ということ。そのことの不思議というものはいつもどこにいても感ずることができる。なぜそれはそれなのか。それはいつまでたっても不思議な問いとしてある。

なぜこのかたちなのか、ということを問わざるをえなかったヒトはどれほどいる、いた、だろうか。なぜこのかたちなのか。そして、なぜこの名前なのか。僕は僕という言葉に回収されながら僕という人間のことを僕として書き読み、僕は僕であるらしいことを意識させないようにまで僕が僕とこうして書くことには不思議さがないように思われる、というふうにして僕という一人称の奇妙な在り方は当たり前のものとして文章に現れる。それはいまは書き手をさす。それが小説と呼ばれるものなど、書き手としての私ではないところの誰かであるところの僕であるならばそれは別の僕であり、僕はそのとき私に書かれることで存在する僕であると言える。とこんなことを突き詰めてなんになるという気持ちがありながらもしかしそうした僕という僕の呼称の不思議さを抜きにして僕たちは僕たちの創作について語ることは不可能なのであると僕は考えているようである。

「みずからの名において何かを述べるというのは、とても不思議なことなんだ。なぜなら、自分は一個の自我だ、人格だ、主体だ、そう思い込んだところで、けっしてみずからの名において語ることにはならないからだ。」

ジル・ドゥルーズは『記号と事件』においてこのように語る。「みずからの名において語ることにはならない」この自覚を抜きにして本来的には書くことはできないのではないかと僕には思われてしかたない。

それは語ること、ばかりに限らない。前断章においてすこしふれた絵画、音楽においても事態は変わらない。

描く主体、書く主体、奏でる主体、歌う主体、踊る主体…あまたの主体がありうる。しかし、そこで言う主体というものはなにか。それを問うことが必要である。なぜか。主体とは〈線〉よって裁断されたものだからだ。主体という言葉もやはり言葉でしかないのである。

生きているもの、生命は流動体である。それは流れている。たとえば時制的秩序(これもまた言説である)のなかでは「流れている」という動詞をもって語られるものである。「流れている」という動詞もまた言葉ではあるがそれがなんとか指し示そうとする現象そのものはたしかにそのようにしてある、とはこのように説明はできるものではある。身体における「流れ」というものは生滅にも関連する。不可知の数の細胞群が絶えず動き活動し、「死んでいく」。そうして身体組織は循環を繰り返して生成変化を続けていく。身体の同一性というものは1秒も持続しないものである。がゆえに、生きている、と言える。だから、生きているものが行う行為はかならず、どれだけ同じようにしようと意識してみても、ズレる。ズレるゆえに生きていると言える。そのズレ。そのズレが重要なのである。

息をする。息を吐く。その日常のささやかな運動、生命を持続するために必要な気体を体内に流し込み循環させる無意識的な活動、そのなかに、当然、微分=差異化は生じる。「息をする」と言葉にすればその動詞はあらゆる「息をする」という行為を同一性のもとに回収し、「息をする」という行為を同一のものとして認識するよう仕向けるが、人が息をするとき、はたしてその一回一回の息は同じ「息をする」という言葉に回収されるものだろうか。否。それはありえない。物理的に考えるならば、同じ気体の量を吸い込むということがまずありえない。肺の筋収縮もいつも同じではなくいつも違うものであり、その時々に吸い込まれる酸素の量、また、「新しく吸い込む」というその都度の酸素の新しさからしてすでに同じ呼吸は異なる呼吸としての連続性のなかにしか現象しえないものだと言える。息をすることで生命はなにをするか。そこで吸い込んだものを体内に取り入れる。まさにその瞬間にすでにして身体は新たに組成されているのであるからしてその一回一瞬の息のうちに僕は僕という同一性からすり抜ける身体の流れのなかにいて、僕は僕として名指されようともすでにその先に名指された僕とは異なる身体をもつ僕としてしかその瞬間には僕はいないのである。とすると、僕という名で指し示す僕ははたしてだれだ。ということになる。このことを考えてみることが、ひとつ、地震と音楽と、それを体現する身体としての僕、主体なるものを考え、転覆させるひとつの視点につながるものであろうと思われる。

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