2016年4月23日土曜日

意識の支配外に現れる無意識的な個性・場と化す身体・踊り・音楽(tweetまとめ)

「美術鑑定家ジョバンニ・モレッリは作家が描画の際、個性的な努力がもっとも弱まる部分にこそ動かしがたい無意識的な個性が現れてしまうことを説いた。これをカルロ・ギンズブルグはこう評した。則ち「重要なのは、意識の支配外にある要素を芸術家の個性の中核と見る態度である」と。鑑賞も然りである。」中島智

「ではギンズブルグのいう「意識の支配外に現れる無意識的な個性」は美術 (芸術) に限られるものなのか。もとより否である。ではアウトサイダーアートとアートとを分断したがる「社会構造」とは何か。結論を言ってしまえば、その分断はアートを自らのアイデンティティとする人々の領有化にすぎない。」中島智

踊りを鑑賞する際にYouTubeなどの動画でそれを鑑賞することを僕は好まない。そうした鑑賞では踊りそのものを鑑賞することはできないからだ。なぜか。踊りは、少なくとも舞踏的なるものは、視覚体験ではないからである。

もちろん舞台をまなざすとき鑑賞者である僕の眼は舞台に立つダンサーの身体をまなざしており、そこには視覚作用が働く、がゆえに、視覚体験としての鑑賞という側面は一面としてはある。が、時空間を共有することでしか知覚不可能な身体と身体のまぐあいというものがある。

それは身体動作の記号論的解釈を退ける鑑賞であり、視覚情報を超脱する全身感受としての官能の体験である。少なくとも舞踏はそのようにして鑑賞しなければ体験することはできないと僕は考えているので動画ではその〈踊りそのもの〉が視覚情報に卑小化されてしまうと感じるのである。

踊り手のAと話をした。〈身体を開く〉ことのできる踊り手は稀であるとのこと。これが意味するのは〈身体を拓く〉ということとはまた別の位相である。〈拓く〉という訓練は内的なるものに親しい。〈開く〉という訓練は外的なるものに親しい。あえて区分するならばそういうことになる。

人間が歌をうたう際に、その時空間の共存のなかで僕はその歌い手の身体を取り巻く一種の〈聖域〉を知覚する。それは”見える”種類の境界領域である。たとえば青葉市子さんの歌を同じ時空間で聴くとき僕の眼には青葉市子さんの身体を包み込むなめらかで小さな半球体を”見る”という体験をした。

その境界領域は動画では知覚できない。同じ曲を聴いたとしても。同じ時空間でしか知覚できない時空間の変容作用というものがあるのは確かなことで、それを含めて音楽体験というものはある。それは聴覚体験を超脱する。

「重要なのは、意識の支配外にある要素を芸術家の個性の中核と見る態度である」ギンズブルグはこのように述べるが、それはこのような舞踏や音楽の体験において正しい。もうすでにそこにいるということでそれは疑いようもないリアルを現前させるものでありうるということ。ただ立つだけでも踊り足りうる。

「ある場所に、この身を置いてみる、それだけで、この身は、場に感応、官能して、そこでしか成り立たないものを、踊りはじめる」踊り手Aとの対話のなかでの合意。

「意識の支配外」にある身体と場の官能の〈理〉のなかで、身体は身体としての〈思考〉を起動する。どのように、なにを踊るか、ということを頭で考えることはそこでは不要だ。身体は場に置かれて場に官能することで〈場〉となり、〈場〉としての身体そのものが〈思考〉しはじめるのを踊り手は知っている。

「その場における踊りは、その場に入ってみなければ、どのようなものになるかはわからない。わからないものを練習しようがないから、私は練習というものをしない。というかできない。」とのことを踊り手Aは語った。僕は共感した。

「練習しようがない」というのは、”その場での踊りはその場でしか生まれ得ない”というリアルな知覚的認識に結びついたパロールであると言える。”その場での踊り”は練習できない。練習できるのは、〈身体を拓く〉という意味での鍛錬である。

身体技法の鍛錬としての練習は〈場〉としての身体、〈場〉としての〈踊り〉の生起の強度や質を変容させるのでそれは不要どころか必要である。その鍛錬をもとにして、〈拓かれた身体〉をもとにして具体的な場所に入り込み、場所に官能する=〈身体を開く〉のだと言えるのではないかと思う。

〈場〉と化した〈身体〉がその場所においてどれほどの広がりや密度や気配や圧を持つのかということは鑑賞する側がその場所に〈身体を開く〉こと、そしてその場所に官能することで知覚できるものであり、先ほどの青葉さんの〈聖域〉は〈開かれた場所〉とも言えるものであり、それは”見える”のである。

そこで”見える”ものがなんなのか、それを科学的に検証・実証・論証することは僕の手には余るが、そのような場所への知覚というものがあるということは確かなことであるとひとまず言える。

自身がうたうとき、演奏するときにも、そうしたことを遊んでみたりもする。壁によって仕切られた一つの空間のなかに〈音としての身体〉を開く、その開き方を色々に変えてみることはできるものだなと先日の東京滞在の時にも色々に実験をした。

「畳の敷かれたこの範囲まで」とか「視界には入らない向こうのほうでしゃべっている男の人のところまで」とか、耳に聴こえる音や気配を頼りに、〈音の領界〉を変容させる。僕は「音の飛ばし方を変える」と言うけど、そういう〈聖域〉の物質的な距離を操る作法というものもあると思っている。

高円寺のライブハウスでこどもとセッションをしたときはそれが顕著に自覚された。こちらが彼のところまで〈音の身体〉ないし〈音の意識〉を”飛ばさないと”彼は僕の音になにも反応しない。しかし、彼のところに、彼の場としての身体の領界に正確に音を”飛ばす”と、彼は僕の音を聴きそれに呼応する。

それを意識という言葉で呼ぶべきかどうか僕にはまだよくわからないがそうした〈接続〉による場と場の溶解作用というものがあり、そうしたものが成り立たないとフリーセッションというものはよいかたちで生起しないとひとまず言えるのではないかと考えている。

森に入ったときに「あ、森に入った」とわかる、その体感、感覚。〈森を知覚する〉。バターが蕩けるようにして大地としてのパンの上で僕らは形を溶かして踊り歌う。固形同士では混ざりあえない。

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