2016年4月21日木曜日

〈妖怪=溶解〉=〈無分別=禅なるもの〉=闇=夜への散歩による接続

浅田彰は『構造と力』において思考の基層として〈ピュシスからの人間の追放〉というものを据えているように僕には読める。〈錯乱する人間〉というモランなどの視座に立つならばそれもまたひとつ確かに言えることではあろう。

追放は追放であり、それゆえの象徴秩序の生成パラダイム、そうした位相での論理形成というものは可能ではある、が、果たして彼は夜の森に足を踏み入れたことはあるだろうか、という想いもまた、僕にはある。追放されていながらも、という視座の置き方というものができるだろうと。

闇のなかに音が聴こえる。門のなかに音が刻まれる。これは漢字の表記の話で別にそれはそれでもある。が、闇の力とはその溶解作用にあるのではないかと思う。無分別を織り成す闇。それはカオスにも似て。しかしカオスに似てはいてもそれはそれとしての秩序もまた内包するものであり、そこに夜の森がいる

そこに溶解するとき人間もまた闇の一部となる。ひかりがそこに灯ることがないがゆえに境界や輪郭や形を喪い、見えるものを失い、そこに見えないものが溶け合い、夜を織り成す。そこで人間が人間の共同体を離れて妖怪とともに見合いヒトのある一面を曝け出すということもまたひとつ確かに感じられる。

そこで夜が演じている。演じ手は夜を纏って夜をうたう。そうしてうたを授かることもある。そういえばそれはまえに〈鳥獣戯歌〉といううたを授けてくれた。そこで俺は俺かというとそれは俺ではあるが俺でもないところの俺であり、それを演ずるのはやはり夜であると言える。

暗闇は分け隔てなくすべてを覆い、それやこれと名づけられたあらゆるものにおのれを纏わせてそこに一なる影の連なりを織り成す。影のやさしさとはつまりその、一、にあるのだと僕には思われる。溶解するところ、妖怪がいる、というその音の連なりは果たして偶然の産物だろうかとこの頃は考えてみたりも

境界線を溶解させる影の現象学、そこに、昼のひかりには隠された夜の炙り出すおのおのの闇、溶解するところ、魑魅魍魎が蠢き、無数の虫の知らせを聴きながら、唇を震わせる。振動。動揺。恐れはまた畏れとして、そこには期待というものもあり、待っているのだと。

溶解=無分別の現象形態は夜の官能へと誘う。過剰なサンス。噴出する漆黒のマグマ。裂開はなにも動的なダイナミズムを伴うとはかぎらないのかもしれない。それは夜の森の闇のなか呆然と立ち尽くすその身の静かな溶解のなかにでもあるものだろうと僕には感じられる。

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