2016年4月20日水曜日

これは18日の深夜0時13分、僕は岐阜の僕の部屋で、いい歌い手のことと禅のこと、鈴木大拙のことを考えたりしていた。

「いい歌い手ってのは、聴いてるといっしょに歌いたくなるようになる歌い手だってことに気づいた」

Tがぼそりと呟いた。

「うん、せやね」

僕はそう言ってうなずいた。



「いい歌い手」って言葉は誤解を招く言い回しかもしれないので僕はあまり進んで使うことはないけれど、そう言いたくなる歌い手というものはときどきいる。あまり多くはない。それは僕の個人的な嗜好もあるかもしれないけど、それでもやはりそう感じさせる人とそうでない人がいるという実感はゆるがない。実感には嘘をつけない。というか実感は嘘をつかない。少なくともそれはその時点時点においての確からしさを最も保証する。

その実感からひとつ考えてみよう。「いい歌い手」は「いっしょに歌いたくなる歌をうたう歌い手である」とのこと、僕はそれを聴き、それにたいしてうなずき、それに共感する。ふだん「いい歌い手」という言葉を進んで使うことはない僕でも少なくともそのうなずきの時点で暗黙的に僕のなかに自明のものとされていたひとつの基準というものが言語化され僕はそれに同意したということになる。いい歌い手の歌を聴いていると僕もその人とその場でうたいたくなる。というかいっしょに歌いはじめてしまう。いわゆるライブというものは演者と聴衆というものが二項対立的な主体として明確に区分されているためそうした「いっしょに歌いたくなる」という衝動が聴衆としての僕のうちにこみあげてきても、僕がそこで聴衆である場合にはその場の衝動にまかせて演者とともに歌ってはいけない、という暗黙の了解がいわゆるライブという場には設定されている。舞台装置というものの構造は二項対立的な主体「演者/聴衆」というその「/」を効果的に設定することに寄与している。

なぜ「いい歌い手」の歌を聴いていると聴き手はそれに導かれるようにして「いっしょに歌いたくなる」のだろうか。それは、「いい歌い手」は、その場において「歌う主体」という主体性の観念を融解させるまでに深々と音楽の場に官能しているからだ。シャーマニズムにおける変性意識状態のことを考えてみるとこのことは理解しやすくなるだろう。変性意識状態に入り込んだ歌い手は、個体としての日常意識状態から解放される。モノとしての身体はそこにある場としての溶けだして、歌う呼吸とともに場と身体の境界面にたいする意識もまた溶けだしてしまう。そこにいるということがもはや意識されることのない無意識の状態。そのなかで歌い手はうたうのである。
ところで、仏教哲学者である鈴木大拙は禅的なるものの本質に「無分別」ということを述べる。無分別。それは分別と対比して用いられる言葉である。分別のある人間というのはつまり理性的な人間のことをさす。それに対比するならば、無分別な人間とは理性的ではない状態の人間であるとひとまず言える。理性的ではない状態を「野生的な状態」と呼んでも大きくは間違っていないだろうと思われる。それはまた「動物的」でもある。分別とは字義通り、分けること、そして、別れることであり、それは言語の持つ本質的な性向としての分節性をさすものである。人間は言語でなにかを分けることで分かり、たとえばそれが石であるならば、石という言葉でそれを名づけ、その本質をそこに換気し、その本質とともにその対象を自己から分ける、あるいは自己が石と呼ばれる対象から別れることによって、石というものを認識することになる。言語の分節性というものはその意味で対象からの別れを意味するのであると言える。構造主義的な文脈でそれを述べるならば、自然界の摂理としてのピュシス=自然の法から追放された言語を有するホモ・デメンス=錯乱する人間であり、ピュシスからの追放がもたらすカオスの力学に対抗するために言語による象徴秩序を形成する、ということが言えるだろう。が、大拙が述べる、禅的なる思考、それは、思考の放棄とも言える事態としての無分別を肯定する志向として、構造主義的な知のありかたに真っ向から否をつきつけるものであると言える。禅的なるものが無分別の知というものを説くのはなぜか、それは、カオスからコスモスをつくりあげる人間の象徴秩序の網の目というものが本来的な秩序、つまり、意識の自然状態としてのピュシスに匹敵することのない仮初めの固定化された構造であることをラジカルに見出し、人間の意識の安定を補完する言語的な象徴秩序をあえて裂開することで、悟りへと向かう道を歩むのである。なぜ安定的に見える秩序の網の目の崩壊を禅的なるものは目論むのか。さきほど述べた言語の本性に深く関わる。言語は分節する。それは分別の知である。言語を使うことで人間はその瞬間にすでになんらかの仕方で線を引き、自己なるものの線描をも確定し、そこから別れる対象なるものをそこに知覚し、孤立することになる。禅的なるものの本性はそれを否定し超越する。言語の境界線はニというものと深く結びついている。分節は二元論と結びつく。私と他者。それらをニとして分ける線、「/」に言語の本質的な機能がある。この「/」を、あらゆる場面から一握にして消し去ること、そこに禅的なるものが志向する無分別状態というものが体現されるのである。

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