2014年8月4日月曜日

第4章 無限定の白い空間

白い光の中。僕は目をあけた。辺りには形らしきものはまるでなかった。唯々、白い空間が広がっていた。何処まで続くのかもわからない無限の白の空間の中、僕は独り立っていた。

「ここは何処だろう」

そう口にしたつもりだったが、僕の耳に、僕の声は聴こえなかった。辺りを歩き回ってみても、僕の靴が地面を叩く音は聴こえない。どうやら、此処には音というものが存在しないらしい。もしくは、音が発された瞬間に、その音の波動が消え失せてしまうのかもしれない。理由はわからないが、此処には何ひとつ音が聴こえないことは確かなことだった。

僕は不安になり、右手の掌を自分の胸に押し当てた。僕は死んでしまったのだろうか。僕の心臓は動いているのだろうか。それを確かめるために。

僕の胸の奥にある心臓は、どくんどくんと力強く鼓動を打ち続けていた。右手の掌に、その鼓動を感じる事ができた。どうやら、僕は生きているらしい。心臓は動いているし、息もしている。白い風景しか見えないが、僕の目も確かに目の前の風景を見ることができている。だから、おそらく僕は今生きているということが言えるだろう。医学的には。動物学的には。

自分の存在の不確かさと目の前に広がる白一色の光景を前にして、僕は様々な仕方で、思考で、自分の存在を確かめようとした。日常的な生活から切り離されてしまうことで、人間は自分の生きていることにさえこれ程の不安を感じるのかと僕は思った。存在の不確かさ。実は僕たちは、本来、その不確かさの中で生きているのだという気持ちもしてきた。

僕の家の前には、大きな家々が並んでいる。朝、目を覚まして、辺りを散歩すると、早起きのおばあさんによく顔を合わせる。様々な種類の植物に覆われた古い一軒家を散歩がてら眺めるのは、僕の日課だ。日に日に一軒家を覆う植物の群れは成長しながら建物全体を静かに呑み込んでいくのだ。外壁は緑色のグネグネと折れ曲がった蔓に覆われ、締め上げられている。時折、その蔓に鳥たちがやってくる。鳥たちは、午前5時の空がとても好きらしい。人間たちが布団の中で夢を見ているまだ薄青い空を、鳥たちは楽しげに歌い、笑い、飛び交う。僕には彼らが一体何を言っているのかはわからない。けれど、僕は、鳥たちの声を聴くことがとても好きだ。彼ら一羽一羽は、それぞれのやり方で鳴き交わす。一羽として同じ声で鳴くものはない。今度、午前5時に目を覚ましたなら、朝の町中をゆっくりと歩いて見てほしい。鳥たちは、自分だけの声を持ち、自分だけの歌をうたっている。無数の声が青白い空の中に響き渡る。その素晴らしさといったら、他に例えようもないものだ。僕は鳥が好きだ。鳥のように歌えたらいいのにと何度も彼らの歌声を真似してみたものだ。僕は歌うことが好きだ。僕の身体の中に静けさが広がり、僕の口は自然と開き、僕の声は、僕の意思とは無関係に空へと差し出される。声は次の声を導き、言葉はなんらかの意味と意味とを一本の見えない糸で結びつけて行く。空に声で刺繍を施すような行為が、僕にとっての歌なのだと思う。目には見えない光の糸で空に僕だけの絵を描いて行く。描いてはすぐに消えてゆく光の声は、一体どこに消えてゆくのだろう。そんなことをいつも考える。光は僕らのそばにある。でもふれることはできない。こんなにも確かに、目の前の世界を照らしてくれているのに。僕は光に感謝する。光よ、有り難う。あなたのおかげで僕は世界を見ることができる。あなたがいなければ、世界はすべて、黒一色に覆われてしまうでしょう。黒一色の世界は、たぶんさみしいところでしょう。どんなに美しいものも、そこでは見ることはかないませんから。黒はすべてを含み混んでいるから、僕たちは黒から色を取り出すことができないのです。黒はこわいものです。黒は重力です。呑み込んでいってしまうのです。光よ、有り難う。あなたはわたしの希望です。


目の前に広がる白一色の光景を眺めながら、僕は独り、声にもならぬ声を用いてそのようにぶつぶつと呟いていた。

その時だった。

それまで何もないかのように見えた場所に扉が現れた。そして、扉は開かれた。僕は少し躊躇いがちに、その扉の方へ歩を進めた。

扉の前に立つと、白い扉には一枚のプレートが貼り付けられていて、そこにはこう書いてあった。

「この先、道先案内人。私は、あなたの中の誰か。ここに住む、小さな居場所。己を己と疑うならば、どうぞ、私のなかへお入りください。粗茶の一杯でも入れて差し上げます。あべこべは私の好きなもの。あなたの好きなものは私の嫌いなもの。でも、だからあなたは私のあなた。私はあなたの私。さあ、どうぞ。ゆっくりとお入りください。」

この先に何があるのだろう。僕は少し尻込みした。が、やがて決意を固めた。

進むしかないのならば、進むだけの事だ。此処は、僕の居場所ではないのだから。

僕は、白い扉の前に立ち、一呼吸をして、白い扉の中へと入り込んだ。

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