2014年8月11日月曜日

第9章 追憶 Ⅰ

「ねえ、知ってる?虹の色って本当は9色だったのよ」

僕は、彼女の手を握っていた。いつもの通学路をふたりで歩いていた。蒸し暑い日だった。無数の蝉たちの鳴き声が町の中にまで響き渡っていた。学校がお休みの日にいつもアイスを買う個人営業のコンビニエンスストアを越えて、あの交差点を渡って、左手に見える寂れた倉庫の向こう側に、彼女の住むアパートがあった。彼女はお母さんと妹と二人暮らしだった。

「お父さんはいないの。でも、あたし、平気よ。」彼女は僕によくそう言って聞かせてくれた。彼女には父親がいなかった。そして、同じく僕にも父親はいなかった。いや、その言い方は正確ではないかもしれない。小学5年生、11歳の僕にはまだ、父親がいた。

東京都小平市にある小さな町に、僕らは住んでいた。東京であるにも関わらずその町には、東京の匂いが少しもしなかった。町に建ち並ぶ建物は皆背が低く、空がとても大きかった。夏になると、カブトムシを見かけることもあった。小さな小川も流れていた。僕は近所の空き地で、1人で秘密基地を作って遊ぶのが好きだった。蝉の抜け殻のように横たわって誰からも忘れられた車のタイヤを転がして、何のために組まれたのかもはや自分でも忘れてしまったかのように途方に暮れたまま立っている鉄筋の骨組みにタイヤを据え付けた。壁面を全て覆ってしまうまで、繰り返し繰り返しタイヤを転がして運んで積み上げた。屋根はブルーシートだった。工事現場のおじさんが忘れていったのかしら。そのブルーシートも空き地の端にぐったりと横たわっていた。僕はそのブルーシートを広げて鉄筋の骨組みの上にかけた。

お手製の秘密基地の中に入ると、そこは別の世界だった。壁面として積み上げた車のタイヤの隙間から外の世界を覗き込んでみた。誰もいない空き地が僕にとっての外の世界に変貌した。風に吹かれて草がゆれていた。僕は秘密基地の中に流れている空気をゆっくりと吸い込んだ。

「ここは僕だけの場所。僕だけの秘密の場所。誰も知らない、秘密の基地。」

声には出さずにそうつぶやいた。そう、ここは、僕だけの秘密基地なのだ。誰も知らない、秘密の基地。僕は、なんだかとても安心した。ここなら、やっていける気がした。ひとりになれる気がしたのだ。ひとりになれる場所が、僕には何処にもなかったのだ。

秘密基地の中、横になり、宙を見上げた。僕の目には、おおきな青い空ではなく、ちいさな青いブルーシートの空が広がっていた。

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