2014年8月12日火曜日

閑話 第X章 点と線と立体と、世界、そして、希望、生きなおすことについての論考

きっと、どんな人にでも、忘れることのできないある日の記憶というものがあるのではないか、と、ぼくは想像する。

ぼくたちの人生は、人類の歴史からみれば、とてもちいさな点にすぎないものだ。

その点は、おなじく、点にすぎない人間の手によって、いとも簡単に消してしまうことのできるもので、

そんな出来事は、目の前の現実からすこしだけ目を遠くへむければ、どこにでも起きている。

世界中で、いま、この瞬間にも、ちいさなちいさな点の鼓動が、その、振動を終えているというまぎれもない事実に、はたしてぼくたちは、耳を澄ますことができているのだろうか。

ぼくは、正直、心もとなく、そうしたちいさなこえの、ひとつひとつを、ていねいに、できるだけそのままに、まなざすことはできないのではないかと思っている。

それは、ひどく寂しいことなのかもしれない。

だれかのこえが、いま、ぼくのしらないどこか遠いところで、ちいさなちいさな響きを生み出しているのだとすれば、

ぼくは、できるだけ、そのこえに、耳をすませてみたいと、ねがう。

すこしでも、きこえるものがあるかもしれない。

わからなくとも、想像することは、できるかもしれない。

そういうことさえ諦めてしまったとしたら、一体ぼくたちには、どうして、この耳が、あるというのだろう。

諦めることは簡単なことだ。

しかし、諦めることなく、たしかに生まれいづるものたちのこえに、いま、この場所から、すこしはなれた場所にいる、まだしらぬ、だれかのこえをきくことは、ぼくたちにとって、むずかしくも、はかなくも、たしかに、ここに自分が生きているということの、実感としての証明になりはしないだろうか。

過去、現在、未来。

時間というものの上にも、さまざまな点をうつことができる。

それは、とほうもなく、永遠にも似た、現在のなかにある、たしかなものをつかもうとする、ぼくたちの、希望を示す、位置、となるのかもしれない。

ここにも、そこにも、あそこにも、点をうつことができる。

あるいは、自分や、他人や、友達や、家族や、動物や、植物や、この地球という巨大な星でさえも、

ぼくたちは、点として、とらえることができてしまう。

点とは、点である、のではなく、何かに対しての点、なのだ。

その、何かに対しての点、は、ちいさなものでもあるし、

また、同時にそれは、命そのものであるかもしれないのだ。

まなざすことを、そこからはじめてみなければならないのだと思う。

どんなものでも、ちいさな点であり、同時に、とてつもなくおおきな、世界、そのものであること。

そこから出発することで、ぼくたちの、生きることの、認識は、さまざまなおおきさの世界を、縦横無尽に行き来することができるのではないか、それは、希望なのではないか、と、ぼくは、無力にも、そう思わずにはいられない。

なぜなら、ぼくたち、ひとつひとつの点は、過去と、現在と、未来の、絶え間ない関係の糸のなかにあるのであり、

ぼくたちという存在のありかたは、かならず、だれかと、どういうかたちでか、つながり、線となるものであり、

その線と線が、また、この世界のなかに、新たな空間と時間の関係性を、世界をつくりあげていく。

点にすぎないものたちが、点にしかつくりあげることのできない、わけへだてることのできない、連続性のなかで、あるひとつの世界や、また別の世界を描くことのできる、線となるのであれば、

ぼくたちの世界は、とほうもなく、巨大で、縦横無尽に動き回ることのできる、無限の空間と時間、となるのではないだろうか。

ぼくは、そんなことを、イメージする。

そんなイメージは、イメージにすぎないのだろうか。ぼくにはまだ、答えることはできそうにない。

けれど、想像することでしか未来を描くことができないのであれば、ぼくに備わった、想像することの力を、信じてみたいと思うのである。


そして、過去。

過去はすぎさったものかもしれない。それはもう二度と、かえらないもので、ぼくたちはそれを想像することしかできないのかもしれない。

ある日のことを思い出す。
あの日、どんな風がふいていたか。
あの日、あの人は、どんな風に笑っていたか。
あの日。すぎさった、あの日のことを、ぼくたちは、おもいだすことができる。そして、わすれることもできる。

あの日もまた、ちいさなぼくたちにとっての、ちいさな点なのであり、ぼくたちは、その点をみつめることができ、また、その点のなかに無限にひろがる、世界を、まなざすことができる。

記憶とは、そうした、希望、なのではないだろうか。

記憶は、世界、それ自体でも、あるのではないだろうか。

ぼくは、かんがえる。
そして、想像する。

無数の点からなる、過去の記憶。それらを結ぶ、ぼくだけの、あるいは、あなただけの、そして、ぼくたちだけの、記憶、世界、の、在り方について。

かろうじて、そんな想像することが許されるのであれば、ぼくは、想像せずにはいられない。

ぼくたちの、脳内で、いま、この瞬間も、つながりあう、神経と神経の線、それが記憶を、つくりだすものならば、

記憶と、いまと、世界は、
ひとつながりに、なるのではないだろうか、と。

そして、想像する。

それらが、すべて、ちいさな点からなるものであるならば、すぎさった過去を、想像の舞台の上で、生きなおすことも、できるのではないか、と。

再び、生きる、ことが、できるのではないか、と。

だから、いま、ぼくは、物語に導かれている。

絶え間ない運動のなかで、ふとうかびあがる、記憶と、いまの自分と、そして、自分の想像しうる、未来、にもよく似た、世界のことを、

ぼくは、自分の、書きたいときに、書いている。

そうすることで、日常のなかでは忘れている、過去と未来の線上に、無数の点を痕跡として露わにすることができるかもしれない。

それが、物語ることの力だとしたら、ぼくは、それを信じてみたい。

そして、この物語がおわるとき、ぼくは、この物語を、ふたたび、生きなおすだろうと思う。

どのようなかたちかは、まだわからない。

痕跡を遺すことは、過去を過去として捨てさることではなく、未来に、変わってしまう自分の目で、ふたたびそれをまなざすためにあるのだから。

ぼくは、想像する。
この物語が、いつか、誰かの目に映る日を。
そして、そのちいさな点としての、誰かの目と、その現在と、ぼくの、たしかな関係の糸のなかにぼくがあると感じられたならば、

こうして、僕が物語ることに、ちいさくも、無限におおきな、世界が生まれることを、期待して。

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