2014年9月11日木曜日

第12章 コスモスと老人と惑星

遠い夜明けのこと。コスモスの花が咲いていた。薄青い空と草原。僕はそこに寝そべり、目の前に広がる無限にも似た空を眺めていた。鱗の連なりのように、びらびらとたなびき流れる雲雲は、何処へと向かうのか。僕はいま、此処にいる。この身体のなかにいる。この心の中にいる。そして、身体にも、心にも、ほんとうのぼく、は、いないことを、何処かで知っている。誰かが教えてくれたわけじゃない。それは、はじめから、知っていたことなのだろう。木は、今日も、あいもかわらず、木のふりをして立っている。おい、そこの、木よ。おまえさんは、どうして、そこに、木として、立ち続けているのだい。おまえさんは、何処へも行きたくないというのかい。僕は、何処かへ行きたいと思う。だって、僕には、2本の足があるのだから。おい、そこの木よ。おまえさんは、この、おおきなおおき碧色の空を眺めて、今日も独り、何を思う。寂しくはないかい。それなら、いいんだ。僕は、そろそろゆくとするよ。この空は、僕にはあまりに、大きすぎるから。

天空の木霊は、夜の闇を連れてくる。そぞろ歩きの宵の群。天空を覆う、時の流れ。僕の身体は、空へと溶けた。濃密な黒色のなか、空が、次第に、僕のなかへと、染みてくる。

僕は、一つ一つの、ぼくに、なる。ほんとうは、はじめから、そうだったのかもしれない。忘れていただけなのだろうか。忘れたとしたら、いつのこと。遠い遠い、過去の、あの、日。僕は、僕に、なってしまった。僕は、僕に、押し込まれて、透明な液体に浸されて、型のなかで、身動きひとつ取れぬまま、ただただ、自分のかたちを、拵えたのだ。そうしてみんな、大人になってゆく。ポロポロと、零れ落ちる、ぼくの、僕の、殻。あなたのも、きっと、そうでしょう。仕方のないことでしょう。石膏のような、白い、パリパリとした殻は、卵のように、やわらかい魂をこぼしてしまわぬよう、必死で、硬く、閉ざしておるのですから。

2014年9月10日。
月は、濃密な色を讃えて。

或いは、こうも言えるかもしれません。

何処か遠く、まだ見知らぬ土地で、…そう、それは、星、かもしれない。まだ見知らぬ星。何処かにある、星の上。灰色に光る、ちいさな星で、僕は、ぼくを探していた。何処かの駅に置き忘れてきてしまった、ぼくの、中身。

卵は、落下する。
地面にぶつかり、割れる。

老人は、ちいさな、嗄れた声で、呟いていた。

月は、ひとつではなかった。
それは、それら、であった。
わしは、それらを、愛していた。
そして、それは、過去となった。
分かたれたものは、二度と、戻ることはない。蛙の卵のように、川辺にたゆたう、透明な粘膜に浸された、奇妙な生命の、前の、形。
生き物はみな、球体だった。それは、凡て、星の姿をしておった。いつからだろう。かたちが、かたくなったのは。わしらは、わしらでしか、なくなってしまった。そうして、わしらは、わしらのことを、忘れてしまった。ひとりひとり、で、あるかのように。

あゝ、こんなにも、自由であることは、こんなにも、独りであることなのだ、と、アダムとイヴは泣いていた。

わしは、もう、帰るよ。
わしは、もう、疲れてしまったよ。
わしは、わしであることから、解き放たれて、かつての、星の、あるべきかたちへ、帰るのさ。
なぁに、怖がらなくてもよい。
ただ、それだけのことなのだから。
おまえさんも、少しばかり、年老いたら、わかるだろうよ。
もう少しの辛抱さ。
なぁに、たいしたことじゃあない。
ありがとよ。お若いの。ではな。


灰色の空に、冷たい風が吹いていた。もう、季節は秋だそうだ。時間は、止まることなく、過ぎてゆく。幾つもの日々を、忘れながら。

あの人は、いま、どんな顔をして、笑っているのだろうか。

僕は、元気です。
左様なら。

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