2014年7月18日金曜日

第三章 水族館の記憶 虹色に輝く海月



それは、酷く不可解な夢のような出来事として僕の前に現れた。辺りに、光らしきものはまるでなく、僕は、僕の身体の輪郭線を認識することすらままならない場所にいた。

ここは、何処だろう。
言葉にしようとしたが、声が出ない。自分では声を出しているつもりなのだが、発されたはずの僕の声は、僕自身の耳に届かない。

声を忘れた人間。
暗闇の底に沈んでいる。

僕は自分の置かれた状況を冷静に整理しようと試みた。しかし、その努力は、意味という意味をすべて削りとられた行為の死骸のようなものであった。

僕には、僕が見えない。
僕には、僕の周りが見えない。
僕には、なにも見えない。
ただ、暗闇の中に、僕のものらしき思考の断片が声もなく浮かんでいる。実体のない言葉。言葉を発する自己の消滅。ここはどこだ。

僕は目をつむる。
音すらも聴こえぬ闇の中。







大きさは、1mあまりだろうか。傘の厚さは、30cm。足の長さを含めると、全長はおよそ2m。虹色の光を放ち、深海をたゆたう、クラゲの群れが見える。

2009年7月21日。眩暈がする程に晴れ上がった空をこの身に浴びて、僕は1人、片瀬江ノ島水族館へ向かった。愛していた女にフラれた腹いせのつもりで、僕は、独り身の男にしかできない突発的な出来事を自分の力で起こしたいと考えた。そこで、水族館へ向かったのだ。あまりにも馬鹿馬鹿しいその行動は、今になって思い返すと呆れかえるが、その夏の真ん中で1人哀しみに暮れていた僕にとり、その行動は、この上なく必然的な行いのように思えた。

チケット販売所で、大人一枚の入場チケットを購入し、いざ、水族館の中へ。入り口付近では、焦げたサンマのように日焼けした金髪のカップルがイチャイチャと写真を撮っていた。その横を僕は無表情に通り過ぎた。そんなことに気を取られている場合ではないのだ。僕は、奥へ進まなければならないのだ。僕のために。

水族館には、たくさんの海の生き物が飼育されていた。

みなさん、お元気ですか!僕は元気!みなさんのために、芸を披露するために、この狭い水槽の中で生きてます!飼育されています。餌を与えられて、育てられています!毎日、好きな魚を食べられます!見てくださいよ、このお腹。なんともまあ、でっぷりと肥ったお腹です!ポンポン!ね、いい音がするでしょ!わはは。僕たちは、見世物です。僕たちは、あなたたち人間に見られるために生きています。鑑賞されることを目的に生命活動を持続しております。この水槽の中は、とても狭いです。少し肩が凝る時もあります。けれど、僕たちは生きています。心臓が動いています。息を吸ったり吐いたりしています。汚らしいウンチもします。つまり、僕たちは、生きています。おそらく、生きています。狭い水槽の中ですが。おそらく、あなたたち人間と、同じようなものでしょう。わははわはは。

皇帝ペンギンが、声を高らかに、そのような饒舌な演説をしていた。

僕は、部屋の奥に進む。

大きなガラスの水槽が、ペンタゴン型の空間を包み込んでいた。六角形の部屋の中で、僕は、ガラスに仕切られた偽物の海の中を泳ぐクラゲを見た。

クラゲ。漢字で書くと、海月だ。
海の中を泳ぐ、月。彼らは、暗闇を照らす月なのだ。とても綺麗だ。色とりどりの海月たちが偽物の海の中をたゆたっていた。様々な名前が付けられた海月たち。人間はなんでも名付けたがるものだ。名前がないと不安なのだ。名前などなくても、海月は確かにここにいるのに。この、偽物の海の中を、優雅に泳いでいるのに。

海月の、身体を、見つめた。
僕は、海月の身体を、あまりよく見たことがなかった。

半透明な身体。小さな斑点。これは口か。垂れ下がりゆらゆらとゆれる触手。青や黄色、赤や紫、緑や茶色、沢山の色をその身に纏う海月たち。優雅に泳ぐ。たゆたう。

2014年7月18日。
僕の前にいるこの巨大な虹色の海月。暗闇を照らす、七色の身体。ツルツルと光り輝き、黒い海水を掻き分け泳ぐ海月。その触手の一つに、僕は、ふれた。

目の前が、白く、光りはじめた。

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