2014年7月13日日曜日

第一章 9つの月の兄弟 永遠に続く螺旋階段



「ねえ、知ってる?月ってね、本当は9つあるのよ。」

彼女は1人つぶやくようにそう言った。ベランダに腰掛け、細い指にラッキースターのタバコを挟み、彼女は月を眺めていた。今宵は新月らしい。僕は月をあまりしっかりと眺めたことがない。それは、僕にとっては単なる月であり、月以上のものではない。ごく普通の日常の中の、単なる部分に過ぎなかったからだ。彼女は続けて、僕に話を聞かせてくれた。

「遠い遠い昔。月は、9つありました。空がまだ、海とひとつだった時代です。月はとても寂しがりやでした。月は、いつも手を繋いでいました。9つの兄弟は、それぞれが違う光をその身に纏っていました。それぞれが、美しい光の衣を纏って、大きな大きな空の上、楽しげに暮らしていました。月は、赤子のように無垢な顔をしていました。月は、夢を見ていました。遠い遠い夢。その夢が何の夢なのか、月は知りませんでした。」

煙を燻らせたタバコを灰皿に押し付け、彼女はタバコの火をもみ消した。ウィスキーグラスに入った、透明な岩石のような氷が、カランと音を立ててくるりと回った。

僕は半年ほど前に、約2年間勤めていた会社を辞めた。辞めた理由は、言葉にすることはできるが、あえてそうする必要も感じなかった。ただ、僕は僕自身がその場所にいることが間違いであると感じたのだ。この場所、この時間から、僕は離れる必要がある。そう感じていた。特に躊躇いはなかった。理由もない事柄には躊躇いさえも存在し得ないのだと思った。

会社を辞めてからの僕は、一日一日のなかにいることを丁寧に感じていた。雑踏を蠢く、スーツに身を包んだ人々の群。映画の早回しのようなワンシーン。東京という街の中で、僕が目にする光景は、いつもそればかりだった。表情を亡くした人々の顔は、灰色だった。何かに怯えているようにも見えた。毎朝、駅前の喫煙所でタバコを吸うたびに、灰色の男たちの顔を眺めては、胸の奥に、酸っぱいものを感じていた。太陽の光は、どこか、造りものじみていて、どこにも逃げ場がないように、乾いていた。

それでね、と、彼女は、ぼんやりと物思いに耽っていた僕に話しかけてきた。話を続けるわね、彼女は、軽く微笑みながら、そう言った。

「月は、いつも、夢をみていました。月は、眠ることはありません。けれど、月は、いつも、夢をみていたのです。不眠の夢。目をあけながらみる夢は、月たちの唯一のたのしみでした。

二番目の月が、ある日、こう言いました。

「ねえ、僕たちは、いま、こうしてひとつだけど、いつかは、離れ離れになるときがくるのかな。そんなときがもしくるとしたら、それはすごくさみしいことだ。僕は、いつまでも、お前たちと一緒にいたい。いつまでも、お前たちと、ひとつの夢をみていたい。そんなことを思うのは、野暮なはなしかな。」

二番目の月は、少しかなしそうに、そう言いました。五番目の月は、こう言いました。

「そうだねえ。離れ離れになるのは、とてもさみしいことだ。僕らはきっと、いつまでも一緒さ。だって、僕たちは、みんなでひとつの月なんだから。みんなでひとつの夢をみて、みんなでひとつの月なのさ。だから、僕たちが離れ離れになることは、きっといつまでもないね。」

五番目の月は、自信満々にそう言いました。でもさあ、七番目の月が、喋り始めました。

「僕たちは、いつから、9つに分かれてしまったのかな。元々僕たちは、ひとつだったのかな。それとも、9つだったのかな。僕は、僕が生まれた日のことを知らない。僕は僕の生まれる前の世界を知らない。僕は、僕以前を、何も知らない。何も知らないことは、わからないことで、わからないことは、いつまでもわからないことなんだと思うんだ。」

七番目の月は、小さく縮こまり、肩をすくめて、言いました。みんな、その話を聞いて、考えてみました。

僕たちは、いつから、僕たちなのだろう。僕たちは、いつまで僕たちなのだろう。僕たちは、僕たち以前の世界を知らない。僕たち以前の世界は、僕たちを知らない。僕たちは、何処にいるのだろう。」

カタン。音がした。玄関の方からだ。あいつがもう帰ってきたのだろうか。いつもは深夜0時を過ぎてから帰ってくるあいつが、今日はやけに早い帰りだな、と思いながら、僕は立ち上がり、玄関へ向かって歩いてゆく。玄関のドアノブを掴み、ドアを開けた。外には、誰もいなかった。

「風の音だったみたいだ。」

僕は彼女にそう告げた。少し安心して、僕は彼女の側へと歩み寄った。彼女は僕の顔をまじまじと見つめていた。ちょうど、初めて幽霊を目の当たりにしてしまった人間が、その存在の不確かさに一切の思考を停止してしまったかのような顔だった。

顔。思えば僕は、彼女の顔をよく見たことがなかった。彼女の顔は、スッキリとした面長で、少し切れ長の目に大きな黒目、小さな耳にお気に入りのガラスのピアス、団子のような少し丸い鼻、薄い唇、白い肌に、セミロングの黒髪を少し乱雑に垂らしていた。彼女の大きな黒目は、まだ僕のことを見つめていた。僕のことを?どうだろう。僕のことを見つめているにしては、少し目の先が遠すぎるようにも見える。彼女の目に、眼球に、僕の姿が映っていることは確かだが、彼女の目に、僕は見えているのだろうか。彼女は、僕の何を知っているのだろうか。僕は、誰だろうか。僕は、僕のことを知っているのだろうか。僕。僕?ぼく。ボク。なんだか少し面倒な問題になりそうだったので、僕はその思考を中断し、彼女に尋ねた。

「それで、月たちは一体その後、どうなったんだい。まだ話の続きだったね。月たちは夢をみる。不眠の夢。眠らずに夢をみるなんて、月たちは器用だな。僕にはできそうもない。ただでさえ、普段の眠りでも夢をみないからね。」

そうかしら、彼女は静かに言った。

「私たちも、月たちと同じかもしれないわよ。私たちは、私たちが見ている世界が、現実だと思い込もうとしているのかもしれない。ちいさなときから、まだ、言葉も喋れないほどちいさなときから、私たちは、私たちの現実を、決めつけてきたのかもしれない。私たち以前に、この世界に何があったのか、私たちは知り得ないんだもの。私たちは、私たちの見ているものしか信じていない。私たちの目に映るものしか信じていない。私たちは、夢を見ているのかもしれない。永遠に醒めない夢。はじまりも終わりもない夢。その中を、魚のように目をあけて永遠に泳ぎ続けているのかもしれない。そうは思わない?」

「どうだろう。僕にはよくわからないな。僕にとって、僕の見ているものは確かにそこにあるし、僕の手の触れるものは確かにそこに触れることができるし、君とこうして会話もできるし、少なくとも、そういうことのすべてが夢だなんて、僕にはちょっと信じられないな。それに、夢は、醒めるから夢なんだろう。醒めることのない夢なら、それはもはや夢とは呼ばないんじゃないかな。」

時計の針が、正確なリズムを刻む。カチコチ、カチコチ、カチコチ、カチコチ…時計の針はは0時31分を過ぎたあたりを指している。窓の外は、静かな夜の闇に満ちていた。どこまでも続く黒い空。今夜は車の通りが少ない。とても静かな夜だ。街から、すべての人間が一晩にして消えてしまったかのような、静寂。仮にもし、本当にすべての人間が何処かに消えてしまっていたとしても、僕はそれに気づくことはないだろう。ある意味で、僕にとってそれは、どうでもいいことだった。すべての人間が消え去った街。想像してみる。どうだろう。悪い気はしない。静かな、静かな毎日が、ただ永遠に続いてゆく。誰もいない街。どんな感情も持たない街。子供たちのいない街。それは、もはや、街なのだろうか。人間のいない街、とは、街なのだろうか。どうだろう。よくわからない。

僕はいつも、気づくとこうした思考の輪の中でウロウロと歩いている。とどまることなく溢れ出す問い。問いが新たな問いを呼び、その問いがまた新たな問いを呼ぶ。答えのない螺旋階段。僕は永遠にたどり着くことのないビルの清掃員のようなものだ。任された仕事を完遂したいのだが、掃除すべき階が見つからない。どこまで登っても、どこまで降りても、そこにあるのは、永遠に渦を巻く、白い階段。僕は途方にくれる。手に握りしめたデッキブラシを投げ捨てて、このままパチンコでも打ちに行ってしまいたいが、どうやらそうすることもできないらしい。永遠に続く螺旋階段。僕は、永遠にたどり着けない。それもまた、いいのかもしれない。

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