2014年11月30日日曜日

Magik Voices - 音の河 - 海と空の還る場所へ

2014年11月27日、28日。Oddelos関東連合という奇妙な名前を冠する集団による二夜連続公演「Magik Voices」が執り行われた。今、僕は、独り、その2日間を思い返している。得難い夜だった。感慨に耽りつつ、からだのあちらこちらにバクテリアの如く侵食している疲労感を酒で溶かしてしまおう。戦場に駆り出された一般市民。取りも直さず僕らの日常は何も変わることなく続いてゆく。物語の終焉はいつも唐突にやってくる。或いは、唐突であることこそが僕らにとっての唯一の救いなのかもしれない。奇妙な疲労感。ウィスキーのように深く、濃厚で芳醇な愉悦。官能。その心地を少しでも描写できたらと筆をとる僕だが、言葉は本質へと届くことなく、あくまでそれを回避するかのようにグルグルと螺旋わ描き奇妙な言葉の連なりばかりがいまここに綴られてゆく。言葉にできる事など、ほんとうに、ないのだと思う。

どうやら僕は、ほんとうに、音楽というものを信じているらしい。信じているらしいというのは奇妙な言い回しだが、如何せん、僕という人間は、じぶんの有する感覚感情思考思想志向というものをはっきりと把握することのできない人間であるから、ほんとうに実感に根付く言葉を使おうとすると、必ず、伝聞のような言葉になってしまうのだ。じぶんのことなどわかるはずもなし。わかるものなんて、つまらないものだと思う。予想外、想定外、わかると言い切れてしまう安易さを常に裏切り続けなければ精神は硬化してゆくばかりだ。わからないことを悦びたい。常に、じぶんのなかにあるじぶんなる枠組みなど破壊し、世界と自己なるものの境界線を融解させ、絶えず、生成変化してゆくような、例えばそう、南方熊楠が描き出した世界、菌類のような人類、そのようなものを真ん中に据えながら、僕は、僕のなすべきこと、それもまた僕が意識的に知ることのできるようなものではないものへと対峙し続けていきたいと思うのだ。分かる…分かたれたものたちの、還る場所は、何処かに在る、のではなく、常に其処にありながら、常に変容してゆく時空、それ自体なのだから。逃げるのではない仕方で、颯爽と、静かに、深く、己の場所へ還り続けよう。其処には何が見えるかい。僕には、虹色の海月の群れが見えている。虹色の海月を通り抜けて、僕は、意識の深層へ、深く深くダイブする。

武満徹は、音の河という言葉をよく使う。この言葉、最近、つとに、よくわかるようになってきた。音の河。それは、音楽、という言葉が指し示すような一般的な意味での音楽ではない。武満は、日本の雅楽などの音楽を評しながら、その内奥に潜む、所謂西洋的音楽精神では捉えることのできぬ生成変化するプロセスのみで成立する東洋的音楽の在り方を、音の河という言葉でそっと指し示そうと試みた。そう。音は、本来、河なのだと思う。ポール•ヴァレリーが、かつて、言った。批評家は、作品自体を批評するのではない。その、作品を、作品として切り出した、作家のその切断行為、その、断面、その裁断の仕方をこそ批評すべきなのだ、と。これは、武満の云う、音の河、という言葉の指し示す芸術觀によく似たものであろうと思う。つまり、切断する前にあるものは、常に、接続されているということ。世界は、連続するひとつの織物であり、それを裁断するハサミの役割をするのが言葉、例えば、作品、という言葉であるのだということだ。織物ならば、裁断は可能であろう。それは、人間の手によって織られたものであるから。しかし、同じ連続体でも、河を裁断することは出来ない。河は、水の流れそのものであり、水を切ることは出来ず、水は、手ですくえば手のなかにおさまり、宙にほうれば飛び散り、河に帰れば河の一部となる。水に形はない。しかし、水は、絶えず、なんらかの物体、現象によってその場限りのかたちを与えられ、そして、流れてゆく。水は、その意味で、完璧に決められていながら、完全に自由なのである、と言うことを言い始めると、もはやそれは仏教哲学のおはなしである。僕の手には負えないおはなしはここらできりとしましょうか。

兎にも角にも感ずることは、人間の手によって分かたれたものをはじめの前提にすべきではないということ。それはたしかなことのように思える。切断するのはみな人間である。それに従うと、間違える。遠のく。次第に、何から遠のいてしまったのかすら分からなくなる。分かたれてしまうと、分からなくなるのだ。それはよろしくない。あまり利口とは言えない。分かる、ならば、はじめから。分かたれてしまうまえのところをまなざし、分かつべきだ。そこに、人間である、ことを超えた、1人の人間のまなざしがある。僕はそのことにしか興味がないと言ってしまっても言い過ぎではないかもしれない。分かつこと。分かたれてしまうこと。分かつことのできぬもの。分かること。分からぬこと。そのひとつひとつの、やわらかく繊細な人間の息づかいを、僕は、聴きたいのである。

昨晩。僕は、音の河のなかにいられたのだと思う。少なくとも、これまで以上に、遥かに、分かつことなく、水槽ではなく、水、それ自体のなかで、ひとつひとつの音楽というものを、その場で、曲、というものに編み上げながら、うたをうたうことができた。それが、よかった。ライブという時間、空間のなかで、それがなかなかできぬこと、苦しかった。いつも頭を悩ませ、落胆、なぜすぐに線をひいてしまうのか!とじぶんを叱責し続けてきた。しかし、昨日は、すこし、それができた。曲のなかではなく、つまり、音楽というかたちではなく、かたちを含みこむ、音の河、それ自体をライブという時空のなかで感ずること、それが、すこしばかり、できた。あれは、よかった。求めていたのは、あの感じだった。まだまだ下手くそだが、音の河として曲を演じうたうことそれ自体その時空自体を裁断することなく河としてわが身に受け感ずることができるのだということをこの身をもって知ることができた。得難い夜。そして、やはり、その感覚は、伝わるひとには伝わるのだ。言葉はいらない。言葉では、説明できない。ただただ、感じたい。そして、その、感ずるところを、感じていただきたい。そして、その、感ずるところを、だれかの手にゆだねてゆきながら、僕は、すべてのひとびとのなかにある河、音の河と河との出逢い、それらが融和する官能、その先に生まれる新たな河、そうしたものをていねいに、まなざしてゆきたい。井筒俊彦は、世界宗教なるものを、河に喩えていましたな。おなじこと。音の河は、また、宗教の河でもある。どれがホンモノの河であるかなど、ほんとうにどうでもよいことなのに、なぜ、いまだにひとはその正しさを主張し闘い血を流すのか。僕には意味がわからない。そんな愚かな闘いはもうやめにしましょう。正当な正しさではなく、己の魂の河に素直に耳を澄ます。闘いではなく、ひとつひとつの河が澱みなく流れ、分かたれることなく融和し、ひとつの大きな河となり、それが、海へと、ゆきつくように。音の海へ。そこには、空もある。空と海の還る場所。そこには、境界線はなく、曲はなく、音楽なるもの以前の音楽の総体、それはつまり、音楽でなくてもかまわんものとしての音楽があり、音楽以外があり、すべてが、ひとつであるところ。そこまでをまなざしながら、僕は、僕の、音の河を、ただただ、流れに身をまかせ、流れてゆきたいと、思います。

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