2014年11月14日金曜日

エッセイ「台風の目」

ぎしりぎしりと音がするのである。錆びついた鉄と鉄とをこすりあわせるかのような、鈍い、音がするのである。軋みをあげる骨や肉や筋、奇妙に歪んだ臓物、平衡を保つ事さえ叶わぬ顔と腰と。わたしを織り成す物、皆、ガラクタと成り果ててしまったのである。

具に観察セヨ。
マダ私に、何ガ残ッテイルトイウノカ。

軋みあげて踊り狂うことでしか生存の本能さえも放棄せんとする我が身の不自由を嘆くとも分かち合うことのできぬ事柄への寂寥の念を唯深め、己の心の臓の鼓動の唯一定に打ちつける音を独り聴くのである。

かなしくて泣く事さえも忘れてしまう。
かなしくて泣くのではなくて、
両の眼から涙の粒をポロポロと零してみるとことで、
ようやく、悦びを感ずる事が出来るのである。
即ち、涙とは、悦びを逆照射するメランコリーの太陽なのである。
そう言い切ってしまいたい慾望を一旦制止するとしても、はてさて、近頃のわたしは泣かなくなった。一応は、男で御座いますから、それもまた当然でしょう。昔のわたしは、それはもう、毎日のように泣いておりました。泣く事が唯一の仕事なのではなかろうかと思えてしまうほどに、毎日、毎日、泣いておりました。何がそんなにかなしくて、泣いていたというのか、近頃のわたしにはまるでわかりませぬが、兎にも角にも、泣く事でしか、何事をも解決することができなかったのでしょう。どれだけ我慢をしてみても、目頭が熱くなり、沸騰寸前のヤカンのように赤く染まった顔をぐしゃりとつぶし、啜りあげるように泣くのである。なんとも、おかしなことです。泣いたとて、何も変わりゃあせんのだよ、無くしたものは戻らぬのだよ、と、いまのわたしならば言ってやりたくなりますが、言ったところで無意味でしょう。泣きたかったのでしょうから。兎にも角にも。

幸福のど真ん中にあるとき、人は、どうやら、涙を流すことすら、忘れてしまうようです。この事をわたしは、ようやく、学びました。ど真ん中は、静かなのですね。ちょうど、台風の目のようなものです。幸福は、渦を巻くのであります。そして、それは、移動しながら、また、何処か遠くへと消えてゆくのです。必ずや、消えてゆくのです。永遠なる台風などありはしないように。

幸福を望んでいたときもありました。それは、おそらく、夢というものだったのでしょう。夢を見ていたのです。幸福の賛歌。揺るがぬものへの憧れ。未だに完全に消え失せたとは言い難いもので、それは魅惑する美女の有り様のようなもので御座いますが、既にしてわたしという人間は、そのような美の在り方に素直に首を垂れるほどには素朴なままではいられぬようになったということでしょう。

今は、もう、うまく泣く事すら出来なくなりました。耐え忍ぶ事が得意になったのでしょう。なんたることでしょう。それはそれでよいのかもしれませぬが、少しばかりの寂寞の念を感じます。それなりに、歳をとってきたのでしょうか。

幸福のど真ん中。絶えず移動するその中点を、何処かに生み出し続けていきたいのだということを願うのは、一匹の愚かな人間として、身に余ることでしょうか。しかし、誰もが、それを何処かで望んでおることと思います。わたしにも、出来るでしょうか。出来ると信じてみたいのでしょう。

幸福のど真ん中へ。
沈黙のど真ん中へ。
忘れてしまう掌のぬくみのような、
かすかな記憶のふれる場所へ、
いつまでも、旅していたいと願うことは、
野暮なこと、なのでしょうか。

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