2014年11月17日月曜日

檸檬と皮膚、或いは、羅針盤。

こんがりと揚げられたゲソの唐揚げと共に小さな皿に添えられた檸檬の切り身を友人が囓っていた。檸檬とは囓ることのできるものなのか、僕は目を丸くしてその姿を一瞬眺め、そして、その不躾を恥じた。檸檬の切り身を囓ることくらい、誰にも造作もなかろうに。何を不思議がっておるのか。檸檬と囓るということと、特段、結びつかぬ理由などないではないか。檸檬を囓る友人。とても自然なことなのだ、彼にとっては。それはそれ、これはこれ。自然なことなんて人の数ほど、いや、人の数の中には無数の人がいるので、人のなかにある人の数ほど、それは、或いは、天球の星々の数に及ぶだろう。一体この宇宙空間とやらには、幾つの星があるのだろうか。その数を数学的に知りたいとは思わないが、やはり幾ばくかの興味というものはある。檸檬を囓る人々。この地球には何人くらいいるのだろう。こちらは星の数ほどは気にならぬが、旨そうに檸檬を囓る友人の横顔を眺めていたら、ふと、気にならんではないことだ。檸檬を囓る友人の横顔。

顔は言葉よりも多くを語るものらしい。このところ、わたしの両の目は、必要以上に人間の顔を眺めるために力を注いでおるらしく、それは疲れることでもあるのだが、如何せん、人の顔というものは面白いものである。顔を面白がるなんて失礼な奴め、と、厳格な方々にはともすればお叱りを受けそうな心地もするが、仕方あるまい。人間の顔というものはどれだけ眺めてみても飽きぬものなのだ。これもまたわたしのひとつの自然であり、厳然たる事実なので、お叱りを受けようともやめる気などはさらさらありはしないのである。

顔。眺むることの面白さの多くは、皮膚と眼にあると思う。そればかりではないのだが、要約するならば、焦点はその二つに定められる。顔立ちと顔つきは似て非なるものであり、それらは、人生のはじまりとおわりの双方の両端を黙示録的な暗号化を通して見る者に伝えるものであり、自己では計り知ることのできぬ、その人間の生き様を記し、他者から眺むるに、その人間を推し量るための格好の材料を提示するものであり、ひいては、この、顔、なるものをまなざすことは、他者の生きることのある種の正しさ、いや正しさというと語弊があるのかもしれませぬが、そういう類の、羅針盤のようなものとして計り知るための、そういう類のものなのかもしれないなと思うわけであります。人の顔を見ること、眺むることとは、自分なるものが知り得ぬ自分自身の姿形を通して、その人間の現在から出発して、過去と、これから先歩んでいくことになりそうな可能性としての未来と、そうした時間軸を含めた人間そのものをまなざすことに通ずるものなのだと、近頃のわたしは思うわけであります。だから、人の顔は、とても面白いのです。

愛し合う者たちが互いの顔を見つめ合うのも、おそらくは、そうした、顔の面白みを含んでおるのだとわたしなんかには思われます。それは、愛し合う者たちが、互いの言葉や声だけは計り知ることのできぬ相手の過去から未来という射程の出来事が、顔の、皮膚や、眼、というものに、描かれているからだと思うのです。そんなことは気にしておられぬ方々がほとんどだと思いますが、顔を見たい、顔を見せる、ということが、じぶんはどうにか元気で生きているということを相手に伝えるための最もよい手段だとみなが信じていることと、このこととは、おそらくは、通じているのだと思います。顔には過去と未来が描かれております。だから、彫刻家は、顔を掘るのです。掘ることなく、その対象の顔を石膏の型にはめ込んで、石膏を流し込んで固めてしまえば、現在の顔に瓜二つの顔が出来上がるでしょうが、それでは、ダメなのです。そうして拵えた顔には、現在の物質としての顔しか、彫り込まれておりませんから。顔には、眼差しを与える他者が必要なのであります。見ること、見られることを通して、顔は、ようやく、時間を持ち、息をし始め、未来を語り始めるのです。だから、掘るのでしょう。私はあなたの顔をこのように見ておりますよ、と、掘るのでしょう。言葉には出来ませぬからね。掘るのです。そうして他者の顔を掘ることは、愛のあることだなあと思うわけです。愛がなければ、人間の顔には、現在しか映りませんから。だから彫刻家は掘るのです。たぶん。そして、だから、愛し合う二人は、互いの顔と顔を向け合わせ、時に、顔と顔の最もやわらかいところ、唇を重ね合わせ、互いの顔のあることを、そして、互いの顔の、これからも変わってゆくやわらかさのあることを、そっと、顔で、確かめあうのでしょう。わたしは勝手な事ばかり言いますね。ははは。わたしは、あなたの顔を見ることが好きであります。あなたの顔を、どうかわたしだけにそっと、見せてやってはくださらぬでしょうか。ははは。

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