2015年7月12日日曜日

[断片小説]空白


「誰かに寄り添うことで寂しさを埋め合わせることはできても、それは一時的なものでしかないわ。裸になって、愛しあっているふりをして、あなたのことが必要なのと泣いてみても、現状はなにも変わらない。私たちはどうせ元々がバラバラなんだから。そんなわたしたちに、ほんとうに必要なことは、誰かに寄り添うことじゃなく、たとえば、虫たちの鳴き声が泣き声に聴こえた夜に、誰に電話をかけるでもなく、ひとり、自分の部屋のベッドの上に横になって、胸と頭の奥のほうを見つめて、そこに向かって新鮮な空気をそそぎこむこと、そして、ほんとうにひとりになることなのよ。わたしはそう思う。寂しさは、いつでもわたしたちの余白をうかがっている。その闇は、いつでもそこにあるものなの。それから逃れる手立てはないわ。逃れようとしたらすぐさま奴らは、あなたの胸の中にぬめりと侵入する。生暖かいぬめりを帯びた寂しさにふれるとき、わたしたちの心は凍えてしまう。だから、だれかの体温を求めるときもある。そんなときもあってもいいわ。欲望をすべて禁じることもまた、別の余白を生み出す力になってしまうから。余白を埋めること、そのやり方は人それぞれね。けれど、ひとつ間違えてほしくないのは、わたしたちのなかにある余白は、決して、永遠に埋まることはないということなの。余白は余白としてあるべきかたちであって、わたしたちは、それを恐れてはいけない。恐れが余白に闇を侵入させるから。余白を恐れないためには、そうね、ひとつには、空白のなかに飛び込むことよ。空白に飛び込むために必要なことは、あなた自身が、あなた自身のなかに、確かな空白を感じること、そして、その空白を愛することよ。そこにはなにもない。大きな大きな空白。それはまるで、色をなくした空のように広大で、すべてを包み込んでいる。そんなもの。あなたは、あなたのなかにある欠落を埋めるのではなく、欠落の穴に蓋をする見えない扉をひらくことが必要なの。その先には、なにが待っているかしら。それはあなたにしかわからない。そこには、おのおのの答えというものがあるだけだから。そして、扉は、どこまでも続いていく。無限に続く迷宮の館。わたしたちのいるこの館には、外壁というものがないの。だから、館の外にでることはできない。わたしたちは、いつまでもこの館のなかで生きていく。でも、怖がらないで。出ることができないということは、支配を意味しない。それは、こう言ってもよければ、わたしたち人間に許された自由というものの在り方なの。わたしたちは、何処かのなかでしか自由になることができない不自由な生き物で、不自由な生き物であるわたしたちは、何処かからの逃走を試みることはできない。ここからの逃走はあり得ない。だから安心して。あなたはいまここにいる。そして、わたしもいまここにいる。ここにいるということだけが確かなことよ。ここ、というのが、あなたにとって、どこなのかは、わたしにはわからないけれど。わたしはいま、iPhoneの画面を見つめて、無心でこの文章を綴っているわ。タッチパネルで文字が打てるなんて、ほんと、便利な時代よね。わたしがどこにいようとも、わたしはわたしをどこにでも現すことができるし、わたしはいつでも消えることができる。これって不思議なことよね。まるでどこでもドアのよう。あなたはいまどこにいますか?そこは快適ですか?ご飯を食べましたか?だれかのことを想っていますか?そこは暑いですか?そこは安全ですか?そこは放射能に汚染されていますか?無駄な建築物が建てられようとしていますか?光をうしなった目をした総理がいますか?国ですか?地域ですか?家ですか?人ですか?動物ですか?植物ですか?あるいは










わたし、ですか?

遠くの山で獣の鳴く声が聞こえたような気がした。わたしはこれからその山へと向かう。わたしは、もう、つかれてしまったのだ。人間らしい生活とか、権力とか、権威とか、名誉とか、評価とか、誰それが死んだとか、高校生が母親を殺害したとか、アザラシの子供が荒川に逃げ込んだとか、金がないとか、家がないとか、女がいないとか、当たり前とか、常識とか、保険とか、そういう、人間が人間として生きていく上での当たり前のことすべてに嫌気がさしたのだ。わたしは「わたし」をやめようと思う。しかし、それは世に言う「自殺」というものではない。わたしはまだ死ぬつもりはない。わたしはできるかぎりわたしを生きていこうと思っている。わたしはわたしをやめない。わたしをやめるときはわたしが死ぬときだ。

あの女が死んだのはいつのことだったか、もう忘れた。しかし、あの女は突然に死んだ。この文章の冒頭の「」でくくられたセリフをだらだらとわたしに吐いて、女は姿を消した。ヨンちゃんに尋ねてみたけれど、女の居所はつかめないままだった。ある日の新聞の見出しに、女の顔写真が掲載されていて、わたしは起き抜けに苦いコーヒーをすすりながらその写真を見た。女だ。わたしはそう思った。女は渋谷のとあるラブホテルの一室で殺されていた。手足はタオルで縛られていて、目には目隠しをされていたらしい。首を絞められて殺されたようだ。女には、そういう性癖があった。わたしは知っている。だからわたしは、女が、虫の鳴き声のことを忘れてしまったのだと思った。あんなことを言っていたのに。けれど、責めるつもりはない。人間は弱い生き物だから。

タバコを一本口にくわえて、ライターで火をつける、これはわたし。西暦2015年7月12日、日本国岐阜県恵那市大井町にいるわたし。わたしはどこにでもいる。

ヨンちゃんが死んだのは2ヶ月まえのことだ。買い物袋を自転車のカゴに入れて口笛を吹きながら住宅街の小さな交差点を曲がろうとしたときに、正面から来た車にはねられて頭を強く打って死んだ。ヨンちゃんの葬式にわたしは行った。ヨンちゃんの顔は青白くなっていて、冷たそうだった。それがヨンちゃんなのかわたしにはわからなかった。ヨンちゃんは火葬場で燃やされて灰になった。わたしはヨンちゃんの遺骨を鉄箸で摘まんで、ひとつ、ポケットに入れた。ヨンちゃんだったものの一部をわたしは盗んだ。いま、ヨンちゃんだったものの一部は、わたしの机の上に飾ってある。木の板の上に乗せるとそれは、古代のマンモスの化石の一部のようにも見えた。

マンモスだった頃のわたしは、いつも退屈していた。わたしの身体は誰よりも大きくて、牙を突きさせば大抵の敵は殺せた。わたしは無敵だった。だから退屈だった。退屈だったので、火山の麓にある洞窟のなかへ冒険に出かけた。洞窟のいりぐちはわたしの身体より大きかったので、わたしはなんなくそこに入ることができた。わたしは洞窟の奥へと進んだ。どれだけ進んでも洞窟の果てにはたどり着けなかった。わたしは怖くなった。生まれてはじめて、怖いということの意味を知った。わたしは帰りたかったが、後ろを振り返ると、そこはもう行き止まりになっていた。わたしはここからでることはできない。わたしは泣いた。わたしの目から涙がボロボロと溢れた。洞窟のなかは真っ暗でなにも見えなかった。目に浮かぶ涙のせいで、視界はさらに滲んだ。透明な視界がゆらいだ。ゆらいで、ゆらいで、ゆらいで、ゆらいで、ゆらいでいたら、わたしは、涙になっていた。わたしはマンモスであることをやめて、マンモスの涙になっていた。わたしには形がないので、下り坂になっていた洞窟の奥へと自然に流れ出していた。わたしは流れに身を任せた。どうせらここからは出られないのだ。わたしの好きにしてやろう、と涙であるわたしは思った。そう思うと、安らかな気持ちになった。どこまでも流れていくことができるような気がした。

「あなたは、わたし?」
「いや、わたしはわたしだよ」
「でも、わたしは、あなた」

気がつくとわたしは洞窟の岩から一滴一滴と垂れて固まっていた。いま、西暦5年7月12日。今日も外はよく晴れている。わたしは何億年か経って、固体になった。鍾乳洞というもののなかで、わたしは石になった。わたしは動けなかった。でも、動きたくもなかったから、別にかまわなかった。わたしはじっと洞窟を壁を見つめていた。女が立っていた。女はわたしのほうを見ているが、わたしのことを見ているのかはわたしにはわからかい。石になったわたしのことを女は気づかないかもしれない。無理もない。わたしだったら気づかない。女は、壁に絵を描いていた。不思議な絵だった。動物のようなものがいた。馬だろうか。植物のようなものがいた。稲だろうか。人間のようなものもいた。わたし、だろうか。あなた、だろうか。

わたしは、ただ、その絵を見つめていた。そしてわたしは、泣いた。わたしは、この絵こそ、わたしの探していたものだとわかったから泣いた。でも、涙は出なかった。わたしは石のまま、石のするように泣いた。女は、そこで息絶えた。


壁に引かれた無数の線を
わたしの目が辿っていく
それは
わたしの自由な散歩であり
わたしはわたしの目となる
線は夥しく己を繁茂し
生命の息遣いが
岩肌を震わせる
わたしの輪郭は
沙羅双樹の樹のように
目には見えない天空へと
光をのばす
手を
のばす
薄い空の色がわたしの目を染め
わたしは
わたしの空になる
空はどこまでも続いていた
わたしは鳥になり
歌をうたう
鳥は空を飛ぶことを知らない
だから
鳥は空を飛ぶことができる
わたしは空の青さを知らない
だから
わたしは
この空のした
無限の青の沈黙のなかで
本当に
自由の意味を知る

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