2015年7月12日日曜日

野生のオーケストラを聴く。僕は「モモ」。そして、あなたも。

音楽という言葉をつくったのは人間である。人間は言葉の生き物だから、人間は言葉がないと不安になるから、人間は言葉を持ち、ある物事に名前をつけることで、その物事と関係を持つことができるようになる、と、ドイツ文学者ミヒャエル・エンデも言っている。僕はミヒャエル・エンデの文学がとても好きだ。彼の見ている世界や耳にしている世界が好きだ。彼の書いた物語のひとつ、「モモ 時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」は、幼少期から何度も何度も繰り返し読んできた物語だ。読み返すたびに発見があり、名付けることのできなかった感覚に、名付けること以上の確かな感触の輪郭を与えてくれる、僕にとっての宝の書物だ。

モモ、という名前にも、親しみを感じる。僕はみんなに「モモちゃん」と呼ばれている。百瀬のモモで、モモちゃん。大学時代に友人と始めた地域型アートプロジェクトの現場である大泉学園の児童館のこどもたちに、「モモちゃん?! 女の子みたい!」とからかわれたりもした。確かに女の子みたいなあだ名だ。ミヒャエル・エンデの「モモ」も女の子だしね。僕は「モモちゃん」というあだ名が気に入っている。見た目は男臭いどころか老け顔でおっさんみたいな僕だけど、「モモちゃん」というあだ名のおかげで、外見に滲み出るおっさん度がすこし中和されて、男の子にも女の子にも親しみを持ってもらえるような、関係の入り口の広さを持てるような感じがする。百瀬という苗字は、長野県出身の父親の姓で、うちの父親と母親は僕が11歳のときに離婚をしたのでほんとうは僕の苗字は母方の旧姓である「磯村」に変わるはずだったのだけど、母親が気を使ってくれて、僕の苗字は「百瀬」のままになった。もしも僕の苗字が「磯村」になっていたら、いまは「モモちゃん」じゃなくて「イソちゃん」になっていたのだろうか、と想像すると、苗字が変わらなくてよかったなあと思う。「イソちゃん」はなんだか嫌だ。磯。海の生き物みたいで、岩に張り付いていそうで、なんだか海藻っぽくて、地味だ。あ、でも、海の生き物みたいな感じは、いまこうやって書いてみて、悪くないなとも思った。けど、やっぱり「モモちゃん」のまんまでいいや。

ミヒャエル・エンデの「モモ」は、寂れた円形劇場に住んでいて、ボロボロの服を着た女の子。僕はモモが好きだ。モモはなにもできない女の子なのだけど、人の話をほんとうに聴くことができるところがいいところ。モモの元には、多くの人たちがやってきて、困ったり悩んだり怒ったりしたときに、モモのところへ話をしにいく。モモはなにも答えないけど、モモに話をしていると、みんないつの間にか自分のなかの負の感情がなくなって、悩みもすっかり解決してしまうんだそうだ。

ほんとうに聴くことは、なかなか難しい。人と人とは、違うからだ。同じ人間だけど、それは、「人間」という名前を人間がつけただけで、「人間」もみんな当たり前にそれぞれ違っていて、それぞれの気持ちや想いや考えや記憶や未来や身体や魂を持って生きている。だから僕たち人間は、基本的に、わかりあえない。わかったつもりになっても、それは、知っている範囲でわかったつもりになっているだけで、1人の人間のことをほんとうにわかることは、たぶん誰にもできない。みんな、みんなのなかに、それぞれのみんなを拵えている。それぞれの像を拵えている。そうしないと、なにもわからなくて不安になってしまうんだろう。僕たち人間は、わからないということにすごく臆病な生き物だと思う。名前をつけることは、だから、人間が臆病な生き物だからはじまったことなんだろうなと僕は思っている。名前をつけることで関係をすることができるようになるけれど、実は、名前をつけることによって、切り捨てられてしまうものがたくさんあるのだということを、僕たちはふとしたときに忘れてしまうようだ。

恋をすると、その人のことを知りたくなるのはなんでだろう。知りたくなることと、恋をするということは、同じだろうか。恋をするということと、好きということは同じだろうか。好きなもののことは知りたくなる。だって、好きだから。でも、なんで、好きだと知りたくなるのだろう。考えてみるとよくわからない。ただ、知りたくなるのだ。知りたくなって、知っていくなかで、いろんなものが見えてくる。いろんな声が聞こえてくる。好きな人のことがわかったような気がしてくる。わかったような気がしてくると、その人に近づいたような気がしてくる。そうすると、安心する。近づいたような気持ちになるためには、相手にも自分のことを知ってもらうことだったりも必要になる。そうやって人と人とは親しくなっていく。でも、やっぱり、ほんとうにわかることはないのだと思う。わかること、それは、分かること、で、分かること、それは、分けること、だから。人間は分けられない。僕の身体を真ん中で真っ二つに分けてみても、見えるのは、真っ二つになった僕の身体の中身だけで、そこに僕はいない。分けることでしかわかれないのだけど、わけることではほんとうにまるごとのことはわからないのだから、僕たちは、名前を持ってみても、わからないことをわからないままに生きていくことしか、たぶん、できない。そして、僕は、それでいいと思う。わからないことをうれしく思いたい。

「モモ」の物語のなかに、こんな一節が出てくる。

「時間。それは、いつもひびいているから、人間がとりたてて聞きもしない音楽。でも、わたしは時々聞いていたような気がする。とっても静かな音楽。」

モモは、人の話をほんとうに聴くことができる女の子で、だから、人々が聴くことのできない、ほんとうの音楽を聴くことができるんだなあ、と僕は思っている。ほんとうに聴くとはなんだろう。言葉にすることに意味はないかもしれないけど、でも思うのは、人の話をほんとうに聴く、ということは、その人のなかに、すでにある、けれど隠されて見えなくなっている、聞こえなくなっている答えを、その人自身が、見えるように、聞こえるようにするために、耳を澄ましてあげることなんだと思う。話を聞くことは、答えを用意してあげることじゃなくて、もう、答えは、その人のなかにあるのだから、それをただ、聞いてあげればいい。どこに隠れているんだろう。うんうん。そうか。そうだね。うん。わかるよ。うん。ああ、そこにいたのか。聞こえてきた。聴いているよ。

答え、という言葉がふさわしくなかったら、それを僕は、その人のなかに隠された「音楽」だと言ってもいいと思ってる。「音楽」という言葉。そんなものは音楽じゃないだろう、と言う人もいてもいいと思う。言葉は、さっきも言ったように、誰かが作ったものだから、それが意味するもの、つまりは、言葉の線が引かれた領域、を、どこまでのものとするかは、ほんとうは、ひとりひとりの手に委ねられているのだと思うから。ほんとうの意味、は、自分で決めればいいのだと思う。意味は、言葉、から生まれ、言葉、は、人間、から生まれた。そして、人間、は、それぞれに違う生き物だから、言葉、も、それぞれに、ちがってもいいのかもしれない、そんなふうに僕は思う。

すこし話が逸れてしまったけど、「モモ」は、人の話をほんとうに聴くことができる、それは、人のなかに隠された言葉・音楽を聴くことができることだと僕は言った。耳を澄まして、その人の言葉・音楽を聴いてあげることで、その人のなかに眠っていた言葉・音楽は、動き出して、形をつくって、奏でられていくのかもしれない。そんなふうに、「モモ」は、聴く。だから、人間がとりたてて聴きもしない音楽を、彼女は聴くことができる。

だとすると、どうだろう。ほんとうに音楽を聴く、ことも、ある意味では、人の話、人の言葉・音楽を聴くことと同じように、「モモ」の周りに、あるいは、僕たちの周りに、言葉で言うところの「自然」に、耳を澄まして、「自然」のなかに隠された言葉・音楽を、聴きだすということなのかもしれない。僕はそんなふうに思っている。

音楽は人が名前を与える前から、ここにあった。この世界にあった。いまだに「音楽」という言葉を持たない部族もいるくらいだ。彼らは、「音楽」という言葉を持つ必要がなかったから「音楽」という名前を与えることなく音楽とともに生きている。それは、関係をする、ということを自覚的に行おうとしなくても済むほどに当たり前なものとしてある、自分、などというものから、名前をつけて切り離す必要のないところにある、そういう類の音楽、音楽というものをそういうものとして、生きている、のだと思う。

ほんとうに聴くことは、すでにある、隠されたものを、聴くこと、なのかもしれない。

僕は昨日、想像ラジオという名前で、録音物を公開した。そこには、「野生のオーケストラ」というタイトルをつけた。名前をつけたのだ。どうして名前をつけたのかというと、名前をつけてあげることで、そこに録音された、僕がその時にいた、その時に聴いていた、時空間に生きている、すべての生き物、すべての存在を含めて、僕はそれを「音楽」だと思っている、ということを伝えたかったからで、そんなものは音楽じゃないという人たちに、「あ、これも、音楽かもしれない。音楽って、こんなに当たり前で、自然なことなんだ」と思ってもらいたかったのかもしれない。それはすこし僕のエゴなのだけど、でも、そういうふうに耳をひらくことで、世界に隠された音楽は、より一層、多くの人の耳によって奏でられていくことになるのだから、それはすごく素敵なことだなあと僕は思ったのだ。

「野生のオーケストラ」は永続する。いつまでも続いていく。でも、録音物は時間を切り取るから、昨日、僕がいた、僕が録音していた時間のなかに聞こえた音がそこには残されている。それは、生きているものたちの音や声で、それを僕は、うた、音楽だと思っているから、「野生のオーケストラ」という名前をつけた。みんなが、それぞれの生き方で生きている、その瞬間瞬間に発しているすべてが、音楽で、それは、野生のなかにある無数の存在によって奏でられるオーケストラなのだ。そして、録音をしている僕の気配や、呼吸や、聞いていたピアノの音や、思いつきで弾いたギターとうた、が、虫たちのアンサンブルの裏でかすかに聴こえる。こんなにも人間が奥に引っ込んで虫や鳥がメインで歌っているオーケストラの録音物はなかなかないんじゃないかなとか自負したりする。(笑) まあそれはどうでもいいんだけど、とにかく、僕も、野生のオーケストラの一員なのだ。そこが大事。僕は僕の音楽をやっているわけではなくて、僕は音楽によって奏でられているだけだということ。そのことがきっと大事なのだ。

だから僕は、どんなものとでも音楽をする、というか、音楽のなかにいる、し、音楽を奏でる、奏でたい、と思う。それは、ほんとうに聴くことのひとつのかたちでもあるのだと思う。

僕は、百瀬雄太。でも、僕のなかにも「モモ」はいる。ミヒャエル・エンデが、「モモ」という名前を与えることで僕は「モモ」と関係することができて、「モモ」は「モモちゃん」のこどものころからずっといっしょに生きている。僕は「モモ」。そして、僕は、聴くことが得意だ。まだまだ「モモ」には敵わないけど。でも、もっともっと、ほんとうに聴くことができるようになっていきたいと思う。ほんとうに聴くことができるようになっていけば、僕たちは、「音楽」という言葉に囲われて怯えなくても、ほんとうに、音楽を生きることができるのだから、それはきっと、とても愉快で、幸せなことなんだと、そう、思っている。

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