2015年7月11日土曜日

[童話への接続的自己批評解析]「あべこべの男」の独白文

身の軋みは生への衝動かはたまた苦悩への呪縛か。近ごろよく考える。考えても答えは見つからない。なぜなら答えはどこにもないからだ。いや、どこにもないというのはすこし、ちがっているのかもしれない。それは答えという形を持ってどこかに隠されているものではなく、問い続けることそのプロセスの連綿と続いていくなかに瞬間的に立ち現れるものなのかもしれないとおもう。意のままにならぬということの最も強力な壁は己の身体である。身体自体を自らの意志で組成することはできるか。それはある意味ではできると言えるし、ある意味ではできないと言える。強制を行うことは容易だ。訓練により、鍛錬により、研鑽により、形成を行うことも可能だ。表面的には。いや、内実としても、弛まぬ努力によってそうした身体を獲得していくこともできるだろう。けれど、身体自体に宿る意志そのものを、身体をも含めたひとつの我が身として導いていくことはおそらく簡単なことではないし、はっきりいって人間にはそんなことはできないのではないかというのが現時点でのぼくの回答である。だとすれば、この身体自体に宿る意志そのものを、太陽に向けて自然に成長へと導いていくために必要なことは? その問いに対するかつてのぼくの回答は、意志するところの己をそのままに行動させることであった。それ以外に方法があるだろうか。未分化な状態で、常に変容し、生成し続ける己が心身に対して固定化された方法論を叩きつけ調教することの愚かさをぼくはこれまで幾度となく繰り返してきた。その結果はいつも決まっている。痛みによって動けなくなる自己との衝突である。度重なるこの経験に対してぼくはその度ごとにこう自分に言い聞かせてきたのだとおもう。俺の意志が弱いからである。意志を実現する力が足りない。実行せよ。形づくれ。行為せよ。示せ。立ち振舞え。発言せよ。疑え。狡猾に突き崩せ。明滅せよ。抗え。争え。弱きに手を差し伸べよ。権力を疑え。名声を疑え。疑え。疑え。疑え。そして、信じさせろ。理解させろ。覚えさせろ。正しさを。…

無限の螺旋のなかで死への衝動を撹乱し続ける日々は永遠に続くのだろう。そこに終わりはない。終焉の鐘は鳴らない。街は静まり返ったまま、反逆者は遂には自分の喉元に自らの剣を突き刺すことになるのだ。それではいけない。ゆえにぼくは飛来し、静寂への逃走を試みた。逃走することによる闘争。見えない自己との衝突。この闘いにもまた終わりはないのかもしれない。しかし、そこにはまた別の世界がある。接続過剰の世界の枠組みに自らを追いやりその形を身に刻み付けようとするマゾヒスティックな欲望、あるいは、強いられた欲望にぼくはもうとらわれたいとは思わない。だとしても、静けさをこそ求めているのかと言えばそうとは言えない。疼くのだ。傷が。呪いだろうか。そんなことはわかりはしない。ただひとつ言えるのは、それでも俺は俺だということだけだ。

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