2015年7月11日土曜日

[エッセイなるものについての無意識的接近]「書く」ことについて書く

この頃何気なくいろいろな文章を書いてみたりしているんだけど、そのなかですこし気づいたことがある。それは、「書くという意識を持つ」ことと「何かについて書く」ということの微妙だけどけっこう大きな違いについてだ。

何かを言葉にするにあたって、書くための道具を手にすることはどちらもおなじだ。ペンでも筆でもiPhoneでもかまわないけれど、どんな道具を使うとしても道具がないことには人は言葉を書き記すことはできない。だから、何かを書こうと思うとき、かならず人は「道具を持って、書こうとする」という意識を持っている。これはきっと誰でもおなじだ。意識を持って主体的に「書こう」としなければ人は書くことができない。動作のはじめには意識(それは意思と言ってもいいのかもしれない)がある。意識がある故に人は書くのである。

でも、意識だけでは人は何かを書くことはできない。村上春樹も言っているけれど、物書きの多くは、書くことを決めてからそれについて書くのではなくて、書きながら考えるものだ。ぼくは「物書き」なんていうたいそうな肩書きを語れるほどの力も実績もないし、そんな人たちと自分のことを重ねて考えるのはすこし恐れ多いのだけど、でも、春樹さんの言っていることはこれまで自分が何かを書く上でも感じてきたことなので、感覚としてわかる気がする。

書きながら考えるってのはどういうことだろう。言葉を書き記すなかで言葉はだんだんと連なっていって、そこに意味も現れてくる。書いているときぼくは書くことのなかにいて、もちろん言葉を書くのだから、次に何の言葉を書くのかということについてたぶん考えている。考えながら書いている。でも、自分の書いている最中のことをよくよく検討してみると(ぼくはいまこの文章を書きながら自分の「書く」ということを見つめて、その仕方がいかなるものなのかについて考察し考えている。書くことについて考えながら書く言葉を考えている。なんだか奇妙な感覚だ。)、ぼくは自分の言葉というものを自分で選んでいる感覚がほとんどないことに気づく。言葉は選んでいるのだけど、その判断はあまりにも一瞬の出来事なので、ぼくは自分がその言葉を選んだということのなかにある選択理由を知らないし、それはなんとなくそうだという感じが一番近い。言葉をそんな風にひとつひとつ選んでは書き記していく。気づくとそこにはひとつの文章が出来上がっている。なんとなく選んだものの連続が意味をつくりあげていく。

「なんとなくなんてそんなテキトーなことしちゃあいけないよ」という声もぼくのなかのだれかが訴えかけてくるときもあるのだけど、じゃあ「なんとなく」ではない仕方で言葉を選ぶというのはどういうことか。それはたぶん、意識的に言葉を選んで、何かを書き現わすために書くという事なんだろう。何かを明確に、必要な言葉だけを使って、説明していく。いや、説明だけとはかぎらない。たとえば詩を書く場合だって、必要な言葉を選んだり推敲したりするのだから最後に意識が仕事をすることに変わりはない。

でも、じゃあ、仮に意識が最終的に言葉を決定するとして、つまりそれが「なんとなく」ではない仕方でひとつの言葉を必然的に選んで書き記すのだとして、その「意識」というものはなんでその言葉を選ぶのか考えてみる。意識的になにかを選択することはぼくたちの日頃の生活のなかでもあたりまえにしていることだし、そのことにいちいち疑問をもつことはないだろう。そんなことをしていたらぼくたちは何気ない日常生活を送ることさえできなくなってしまう。意識的になにかをする、ということの裏側にも、かならずなにかしらの無意識というか、隠された理由というか、そんなようなものがあるんだろうし、ぼくたちは日頃そういうよくわからないものに動かされながら行為する。意識的にできることはもちろんたくさんあるけれど、意識したってできやしないこともたくさんある。ぼくは身体を壊してからというものそんなことをとてもよく感じるようになった。

身体って不思議だ。すごくあたりまえの話だけど、ぼくたちの身体のなかではぼくたちの意識なんてものには関係なくいろんなものが動きつづけている。意識的に心臓を動かすことはできないし、意識的に血を流すことも体内の細菌を殺すことも爪を伸ばすことも人にはできない。それらは勝手に動いたり伸びたりする。無意識に、という言葉はぼくが「ぼく」を中心にして考えるときに出てくる言葉だけど、「無意識に動かす」というよりは「ぼく」の体内にある身体の諸器官たちが勝手に動いてくれる、だからその動きをはっきりと意識するのであれば、主体はぼくでなく彼らということになる。もしも彼らの動きというものにもぼくが「書く」というときとおなじように意識、あるいは意思というものが必要だとしたら、彼らは彼らの意識、あるいは意思に基づいて行動していることになるのだけど、ほんとうにそうだとしたら彼らの意識、あるいは意思というものは「ぼく」というものが持っているそれらとは別のものだから、彼らは「ぼく」ではないということになるのだけど、でも彼らがいる場所はぼくが「ぼく」として考えるぼくの身体のなかで、その身体があってはじめてぼくは「ぼく」となり得るのだから、彼らもまた「ぼく」である。言葉で辿っていくとどうにもこうにもややこしい話になるんだけど、要は、ぼくという人間(ぼくにかぎらず世界中のひとりひとりの「ぼく/わたし」たち)には、様々な意思や意識みたいなものを持っているかもしれないものがあって、それらがどういうわけかいっしょになって動いているからぼくはぼくとして生きていることができるし、ぼくはいまこうして「ぼくが書くということ」についての文章を書くことができるというわけだ。なんだかあたりまえの話だけど、とても不思議なことだ。

話がすこし脇にそれてしまったけど、だから、ぼくがなにかをするということはぼくの意識だけでなされるものじゃない。ぼくが「書く」という極シンプルな行いのなかにも、ぼくが感知することできないぼくなかの様々なものが動いているのだ。ひょっとしたら、感知できるもののほうが少ないのかもしれない。息の仕方を知っているなんて奇跡だよと言ったボブ・ディラン。ぼくはあなたに心の底から共感するよ。

「何かについて書く」ということにたいして、ぼくはこんなふうに思うんだ。「何かについて」ということを意識のうえに乗せたまま書くこともできる。その目的にむけてひとつひとつの言葉を選んでいくということもできる。できるというのは全部が「ぼく」の思いのままってことではないのだけど、すくなくとも、ぼくがあたりまえに「ぼく」を生きるうえでの「できる」という意味で。ただし、注意しなくてはならないのは、たぶん、文章というのも生きているのだということ。「生きている」と言うと誤解されるかもしれないけれど、ぼくが「生きている」と言うのは、ぼくが「ぼく」というものの全体をすべて把握して理解することができなくて、ぼくの部分を寄せ集めたところで「ぼく」というものが出来上がるわけではないのと同様に、文章も、実は部分部分にわけてしまうだけでは有機的なものにならないんじゃないか、っていうこと。とてもきれいな言葉を選んで使っていて、文章も整ってきれいなのに、なぜだか読みにくくて仕方ない文章というものはたくさんある。それはたぶん、その文章のかたちを整えようとするあまり、意識的に言葉のひとつひとつを選ぶことにやっきになって、文章全体の流れを殺してしまったからだと思う。文章の流れとはなにか、ということを意識的に説明することはとても難しいんだけど。それは読むひとが感じるものでしかない。だって、言葉は紙の上に痕跡として残っているけど、印字された言葉は動かないからそこには運動性はなくて、運動性のないものには流れというものは生まれないはずだ。だとすれば、文章は、人がそれを読むという運動性のなかで流れというものを再生産するということになるのかもしれない。読み返すことで生き返すとも言えるのかも。これは文章の不思議なところ。ぼくはそれを音楽とおなじように「グルーヴ」という言葉でとらえていて、ぼくはやっぱりグルーヴ感のない文章はうまく読むことができない。文章に大切なのはなによりリズムなんじゃないかとすら思ったりもする。だって、読まれることがなければ文章はそこに書かれたことを理解してもらうこともできなくて、言葉と言葉のなかで生まれるものを味わってもらうこともできないのだから、それはある意味で死んでいるんだと思うから。どんなにいいことを書いたつもりでも死んだままでは仕方ない。

「何かについて書く」という意識はうまく使ってやらないと文章を殺してしまう気がするんだ。目的にむけてとか、部分ばかりに目を奪われて、意識ばかりに頼りすぎてしまうと文章のリズムは悪くなる。文章が呼吸しなくなる。まずは書いているものに呼吸をさせることが大事なのかもね。呼吸をしはじめて、生きはじめて、それをひとつのかたちにしていく。多少の書き直しもあるかもしれない。意味を説明するために必要な言葉と、その意味では必要なさそうに見える言葉と、いろんな言葉が寄り集まって連なって文章というものはできていくから、必然性とかいう言葉に囚われていると言葉がつまらなくなってくるかもしれない。流れに必要なものは自然に残す。あ、なんだか文章って河みたいだな。淀みなく流れる河は美しい。美しい河は愛される。愛された河には人が集まる。淀んでしまった河には人が集まらないから、そこにどんな生き物が住んでいるのかということにだれも気づかない。淀みのなさって大事だ。

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