2015年4月27日月曜日

〈記憶・生/死・静かなグロテスク〉ギャスパー・ノエ - ゴダール - 山下澄人 - 飴屋法水 - マリオ・ジャコメッリ - ぼくの部屋の死にゆく虫たち

眠れない夜には、ぼくは自分の頭のなかを観察する。そこでなにが起きているのかを眺める。安穏と立ち込める灰色の雲の模様を眺めるみたいに。雲はどこから生まれるのか、気象予報士は科学の力で説明するけれど、それはぼくにはあまり関係がない。雲は気がつくとそこに浮かんでいるし、その生まれる瞬間をぼくは見たことがないので、生まれる瞬間というものがあるのかどうかさえ確かにはわからない。知っているつもりのことのほとんどはきっと誰かからそう教えられたことにすぎないのだ。眠れない夜のぼくの頭のなか。いろいろなものが混沌とわきたっている。ふたつの眉毛の真ん中、そのちょうど1センチくらい上が、ゴワゴワと痛む。ここに何かがいる。蠢いている。ぼくの脳みそのことをぼくは知らない。でも、ぼくの多くはこの脳みそというものから発された信号によって動いたり生まれたりしているらしい。脳科学者の本とか、そういうものでぼくはそういう知識を得たのだろう。なんで知ってるのか知らないことがたくさんある。

記憶。記憶の不可思議さについて考えさせられる小説や映画や演劇ばかり最近のぼくは自分のなかに入れているようにおもう。おもう、というのは、べつにそういうものを自分のなかに入れることを意図して選んでいるわけではないということで、それらはたまたまそういう種類の考えを喚起するようなものだった。こういうことはよくある。ぼくは昔から本を並行して何冊も読む。一冊だけをきれいに読むことができない。退屈してしまうのだ。それはたぶん、そこに書いてあるものを理解するために読むのではなくて、そこに書いてあるもののなかにある、もしくはそのしたにおおきく横たわっているなにかにふれて、自分のなかになにかよくわからないものに、かたちを与えたりするためなのだからだとおもう。並行して何冊も本を読んでいると、ふと、思わぬところでそれらの共鳴するものがぼくのなかにふわりと浮かびあがることがある。そしてぼくはその場に必要なぼくの答えを見つける。もしくはその片鱗にふれる。ひとつのものにふれているだけではわからなくなる。それはたぶん、ひとつのものというものが、本来はいろいろなものとつながっているものだからで、そのつながりを断ち切って目の前にあるひとつのものにたいしてだけでは、本来のひとつのものにふれることができないからだ。

フランスの映画監督ギャスパー・ノエの「アレックス」という映画は、映画の冒頭部で物語のクライマックスのシーンが描かれていて、映画は、そのシーンから物語の時間軸を逆再生するように展開していた。それぞれのシーンは記憶の断片のようで、断片のひとつひとつは通常の時間軸のなかで描かれるんだけど、断片を繋ぎ合わせていく時間軸は時間に逆行するというなんとも奇妙な映画だった。でも、記憶の遡り方って、そういうふうでもあるなとも思う。ひとつの出来事についての記憶を遡るとき、ぼくたちは出来事を無意識に断片化して想起して、断片化されたそれらの記憶を見えない糸でつなぎ合わせるみたいにしてひとつの出来事を思い出す。記憶は、ぼくたちが普通に生きている時間軸からは切り離されたものだから、それを思い出す仕方に普通の時間軸を援用する必要はない。時間を遡ってもかまわないのだ。ゴダールが映画史を描く映画をつくったとき、かつての映画の断片をかき集めて、節操もなく並べていたような気がするけど、映画という痕跡が〈誰かの記憶〉としての記録であるならば、歴史というものは記憶のようなものだから、そんなふうに並べて映画史を描くということはとても普通なやりかただともおもう。断片化された痕跡である映画-記憶の時間軸をシャッフルする。

最近、毎日図書館に行って、山下澄人さんの小説を読んでいる。彼の小説の在り方も、なんだかゴダールのそれと似ている気がする。山下さんの小説のなかでは時間軸がシャッフルされる。過去も現在も未来も、シャッフルして物語上に現れる。しかも、それらをじゃあ時間軸として正しい順番に並べ変えれば正確な物語を理解できるのかというとそうでもない。そこに現れる時間は、主人公である「わたし」だけの時間ではないから。「わたし」はいろんなもののなかにいる。無数の「わたし」の時間軸がごちゃまぜにシャッフルされるから、もうそこに「正しい」時間軸なんてものはたぶんない。ないものに正しさを押し付けても仕方ないから、そこに描かれているものをそのまま辿っていくんだ。ギャスパー・ノエの「アレックス」は時間を遡っていくけど、彼の「エンター・ザ・ボイド」はそういえば時間軸をシャッフルしていたな。その時間は、死んだ主人公の時間だ。死んだ主人公の目線で、生きている世界の時間がシャッフルされている。

死ぬ瞬間、人は走馬灯を見るらしい。そこには、その人の記憶が断片化されてシャッフルされて並べられるんだって。ゴダールの映画みたいなかんじなのかもしれない。生きていることと死んでいることとのあわいにあるものは、そういうかたちをしているのかもしれない。ぼくは死んだことがないからわからないけれど。

生と死のあわい。今日は辺見庸さんの本を読みながら、マリオ・ジャコメッリの写真に浸っていたんだ。彼の写真はすごく好きだ。好きだ、というには、とても深いところにふれてくるので、満面の笑みで好きだというのはちと難しい。モノクロの写真。そこに写し出された人たちや風景はまるで、生と死のあわいにあるようだった。生きているこの時間や空間のなかに、彼の目は死を見つめていたのかもしれない。日常のどんな風景のなかにも〈異界〉はあるんだっていうことをまなざして、彼は写真を撮っていたのかもしれない。

辺見さんが本に書いていて、ああそうだなあ、と思ったのは、「写真」という言葉の嘘について。「真」を「写す」という漢字を当てがわれたphotographという英語は憤慨しているかもしれない。写真は「真」を写すというけれど、「真」ってなんなのかもほんとうのところぼくたちは知らない。目の前にある物体や色彩はたしかにこの目にそう見えるように写真のなかに写されているけれど、でもそのものとはやっぱりちがう。ちがうのだから、その時点で真でもないし、第一、目の前に見えるものだけが「真」なのだとしたら、ぼくたちの目はたぶんなんにも見えなくなってしまう。生のなかに死を見るジャコメッリのまなざしは「真」を見つめようとしていたのかもしれない。だから彼は死にかけの老婆のベッドの脇でカメラのシャッターを押し続けた。

生のあとには死がくると誰かが言っていた。人間は死ぬために生きていると高校の英語教師が授業で熱く語っていて、そう思う奴は挙手!とか先生は言って、ほとんど全員が挙手したのだけど、ぼくは挙手しなかった。なに言ってやがるこのじじいは、とぼくは眉間に皺を寄せてその先生の顔面を睨みつけていた。

「ぼくはそうは思いません。死ぬことは、目的ではありません。死ぬことが目的ならば、今死ねばいいし、生きる意味がありません。ぼくは生きるために生きています。」

ぼくは先生にそう言って席を立った。先生は苦いものを口に含んだみたいな顔をしていた。その先生は、たぶん定年退職したんだろう、最近ぼくがよく行く図書館で彼が本を読んでいるのを見かける。ぼくは彼に話しかけない。彼はぼくに気づいているのかぼくは知らない。なんだかぼくは彼に話しかけたくないし話しかけられたくない。その先生を見ていると、10年後のいま、ぼくが地元に帰ってきて、地元の図書館でその先生と偶然おなじ図書館にいることが、なんだか不思議なかんじに思えてくる。先生は死ぬために生きているのになんでいま図書館に通っているんだろうか。ぼくにはよくわからない。

不安が襲ってきたら、死のことを想え。社会学者・カルロス・カスタネダの著作群 ドン・ファン シリーズの第1巻で、呪術師ドン・ファンがカスタネダにそんなようなことを言っていた。ぼくはその言葉をいまも真摯に自分のなかに受けとめている。その言葉が血肉になっている。絶望的な気分になるとき、どうして生きていかなければならないのかと自分のなかの問いが脳みそを覆い尽くしてしまいそうなとき、その発火を鎮めてくれるものが、死というものに対する冷めたリアリテイだったりする。自分は、たぶん死ぬことが大したことじゃないと思っていると山下澄人さんが言っていた。彼の小説のなかでは人があっけなく死ぬ。そこにドラマティックな感情の高ぶりはない。それがいい。その感じが好きで彼の小説が好きなのかもしれない。ジャコメッリの写真のなかにある死の匂いも、熱くはない。異界の怖さはあるけれど、冷めている。だから死にゆく人間の死を写真に写しとれるのだと思う。今の日本で流行している死への態度は、なんだか過剰なまでにドラマティックだ。人間の死を感動的に描きすぎるきらいがある。それはひょっとしたら、死がこわいからかもしれない。ぼくも死ぬのはこわい。死ぬのがこわくないと言っているひとの言葉はほんとうには信じていない。いまそう思っていたとしてもきっとそれが近づいてきたら怖いだろう。知らないことは怖いものだ。多かれ少なかれ。

山下さんの小説のなかでの死への冷めた目線に通ずるものを飴屋法水さんの演劇のなかに見る。ぼくは飴屋さんの演劇がほんとうに好きだ。彼の演劇のなかにある冷めた目線が好きだ。それはニヒリズムじゃない。そういう冷め方じゃない。絶望じゃない。夏が終わると蝉が死ぬような静かなことだ。そういう死へのまなざしがある。それはときに表現としては突飛であったりグロテスクであったりするんだけど、ぼくたちの生は基本的にグロテスクなものだ。グロテスクさを覆い隠すための装置が世の中にはたくさんあるけれど。ぼくたちが肉を食うのだってグロテスクだ。少年たちは喜んでステーキを食う。ぼくは中学生のとき、肉を食えなくなった。グロテスクさに負けた。でも、グロテスクを避けていた自分はグロテスクな普通の人間の日常に目を瞑っていただけだと気づいて、それからは、グロテスクだけど肉を食うようになった。静かな死のグロテスク。ぼくはそんなものに囲まれて生きている。ぼくもあなたも。今夜もぼくの部屋ではたくさんの虫が死んだ。ぼくの飲んでいた水の入ったコップのなかで勝手に溺れていたりした。そんなふうに当たり前に死んでいく虫たちのなかでぼくは今日も眠る。またそのうちおおきな地震が来るだろう。たぶん。ぼくはリアルに想像ができない。たくさんのひとが死ぬ風景。でもそれは現に起きているリアルだ。リアルなことが、ぼくにはまだ、ぜんぜん、よくわからない。

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