2015年4月20日月曜日

第16章 砂場のお城のまんなかで わたしの右手とあなたの左手

ラクダは割れた透明な球体から聴こえてきた音に耳を澄ました。その音は、どこか遠いところからかすかに響いてくるもののようでもありながら、実際には音など鳴ってはおらず、ラクダの脳内に直接響き渡っているもののような親密さをも感じさせるものだった。ラクダは目をつむって意識を集中し、音に聴き入った。耳鳴りのような高音の持続音のなかに、次第に、男の子と女の子の笑い声がかすかに聴こえてきた。次の瞬間、音は一気に膨れ上がり、ラクダの意識を飲み込んだ。ラクダは目をあけた。目の前にはただ白い光の光景が広がっていた。










…ねえ、知ってる?

なにを?

お月様ってね、
ほんとは、地球とひとつだったんだよ
まだ、わたしたちが、どこにもいなかったころ、遠い遠い昔のこと。

お月様はね、地球のことが好きで好きでたまらなくてね、神様が地球をおつくりになられたときに、お月様は神様にお願いして、地球のそばにいさせてもらうことにしたんだよ

ほんとはね、お月様は、どこか遠いところへ旅立たなくてはならなかったのよ

お月様には、お月様のあるべきところというものがあるの

でもね、それでも、お月様は、地球のそばにいたかったの

それがいけないことだと知っていても

お月様は、地球のそばにいたかった
地球のことが好きだったから

わたし、あなたのことが好きよ

だから、あなたといっしょに、いま、こうして、小学校の砂場にいて、いっしょに、砂のお城をつくっているの 

砂のお城が完成したらね、お城のいりぐちに穴をあけるのよ

穴をあけるにはコツがいるの

わたしの右手と

あなたの左手と

その両方の手を

お城のいりぐちと
お城のでぐちと

それが生まれるべきところに
ゆっくりとさしこんで

お城のいりぐちと
お城のでぐちと、を
つなぐ
お城のまんなかで
ふたりの手が
ふれるの

そこで

わたしの右手と

あなたの左手は

見えないままに
手をつなぐの

そうすることが必要なのよ

そうなんだ、なら、そうするよ

うん、きっとよ、きっと、そうしてね、きっとよ

うん、きっとそうする

きっと、そうするよ










あの子の名前は、もう、忘れてしまった。あの子がいまどこでなにをしているのか、想像することも今ではしなくなった。あれからもう、15年も経ったんだ。記憶のなかの女の子。この記憶は、ほんとうのものではないとぼくは知っている。けれど、ほんとうの記憶って、一体どういうものなのか、ぼくにはよくわからない。

ほんとうの記憶
それは、たぶん、
過去にほんとうに起きた出来事のことなのだろうけど、
いまとなっては、
過去の出来事が、
ほんとうに、過去に起きたのかどうかを、いまのぼくが、確かめる術はない。

砂場につくった、砂のお城。
あの感触を、ぼくは確かに覚えている。けれど、この女の子は、実在しない。たぶん。いま、書かれることによってだけ、この女の子は、この文章を読む人間の頭のなかだけに存在する。この女の子は、じゃあ、いるのだろうか、いないのだろうか、どちらとも、言えないのだろうか。

ぼくは、砂のお城のでぐちとなるべき場所へ、いま、ぼくの左手を押し当てる。そして、ゆっくりと力をこめて、砂のお城に穴をあけてゆく。脆く、壊れやすい、砂のお城を壊さぬように、ぼくの左手は、でぐちをつくってゆく。その先に、きみの手は、あるだろうか。お城のまんなかで、ぼくの左手は、きみの右手に遭遇し、そっとふれた、ぼくの左手と、きみの右手は、いりぐちとでぐちをつなぐ、砂のお城の見えないまんなかで、手を繋ぎ合うことが、できるのだろうか。

ぼくは、そう期待する。
ぼくは、ぼくのでぐちから、
ぼくの左手で、
きみのいりぐちから、
きみの右手を、
見つけ出したい。
きっと、見つけ出せるはずだ。
だって、ぼくたちは、
このちいさな、
砂場で、
いま、こうして、
見つめあっているのだから。

砂のお城のまんなかで、
見えない、ぼくの左手と、
見えない、きみの右手と、
見えない場所で、
手をつなぐ。


きっと、できるよ

うん、きっとね


真っ青な空には、白い三日月が浮かんでいた。よく晴れた土曜の午後だった。その日、ぼくの友達のミッチーが車にはねられて死んだ。ぼくが飼っていたカブトムシも死んだ。

夏が過ぎてゆく。
遠くで蝉が鳴いている。

砂場の砂はひんやりと冷たくて気持ちよかった。その一粒一粒を掌の上で確かめていた。いろんなかたちや大きさの砂粒が、ぼくの掌の上に転がっていた。綺麗なもの、汚いもの、丸いもの、尖ったもの、つるつるとしたもの、ざらざらとしたもの、どれも、それぞれにちがっていて、それでいて、どれも、砂粒だった。

ラクダに乗って砂漠を旅してみたいなあ。砂の王国は果てしなく広がっている。ぼくの両の目には、どこまでも続く砂漠の風景がありありと映し出されていた。ピラミッドにだって登ってやるぞ。スフィンクスにまたがって、砂漠のまんなかで、ぼくが砂の王国の王様だ。ヘビだって自由自在に操れる。ぼくはヘビ使いの笛を持っているからね。

真夜中の砂漠のまんなかに寝転がる気分はどんなものだろう。

真夜中の砂漠を覆う空は青紫色に染まっているんだ。星々は、それこそ無限に輝いていて、数え上げる事なんてできっこない。ぼくは手下のヘビといっしょに、この青紫色の大空を眺める。ああ、満天の星空よ。ここでは、きっと、わかるんだ。地球がほんとうに球体で、惑星だってこと、地面はまあるく繋がっているんだってこと、空は、地球の上にあるんじゃなくて、空は宇宙の一部で、地球をやさしくくるんでくれているものだっていうこと。

地球が生まれた日。
地球は、宇宙のおくるみにくるまれて、大きな声で泣いていた。

だから、月は、地球のそばを離れることができなかった。地球があまりに泣くものだから、月は、心配でたまらなくて、月は、自分のあるべき場所にゆくことを諦めて、地球のそばにいることに決めたんだ。そのときから、きっと、なにかが変わってしまった。月は、ほんとうに月であることができなくなってしまった。だから、月は、9つに分かたれてしまったのだ。ひとつであるためには、ぼくたちは、あるべきところにあることを選ばなければならない。そのためには、あるべきところにあることを妨げるものを、捨てることも必要なのだ。月はわかっていた。それでも。それでも。それでも。


わたしの右手と、
あなたの左手と、
お城のまんなかで、
見えない場所で、
手をつなぐ。
手をつなぐの。

きっと。
きっと。





0 件のコメント:

コメントを投稿