2015年3月9日月曜日

分かたれた波たちの還る〈一なる魂の海〉へ / 河瀬直美監督「2つ目の窓」を観て

一本の映画について語ることのできる事柄は無数にある。しかし、言葉を尽くせば尽くすほどにぼくたちは映画そのものを語ることはできないということを知ることになる。

どのような細部でもかまわないからひとつの細部を映画のなかから取り出してみよう。細部に踏み入るほどに語られるべき事は増殖し、ついには無限とも言えるほどの広大な世界の様相に言葉を用いる者は途方に暮れることになる。

語られる対象は時間的に限定されている。映画は映画であるという時点で既に過去のものだ。それは流れゆく時間の流れから作者の手によって切り離されたひとつの痕跡である。しかしぼくたちはたった2時間ばかりの映画についてさえすべてを語り尽くすことはできない。どれほど単調な日常を送る人間の過去を語り尽くすためにも、その人間の残りの人生のすべての時間を費やすことになるのと同じように。

それでもなお、ぼくはここにひとつの映画についての文章を綴っている。何度かやめようと思ったのだが、結局のところぼくはこの文章を書くことをやめられなかった。書かれた言葉は痕跡としてぼくのなかに残り、その文章の不備をぎゃあぎゃあと喧しく教えてくる。書けば書くほどに足りないものが見えてくる。ぼくは言葉という名の蟻地獄に嵌りもがき苦しむ一匹の蟻の姿を自分に重ねる。終わりは見えない。そもそも完成というものは自然発生するものではないのだから、そろそろぼくはここにひとつの裁断をしなければならないと思った。終わりは常に自分で決定するしかないのだといういたたまれない気持ちをぼくはタバコの煙に乗せて空へと軽やかに吹き飛ばす。

河瀬直美監督の映画「2つ目の窓」を観たのはちょうど一週間前だ。その作品が優れているのか否かについてはぼくの語るところではない。それはぼくには関係のない仕事だ。美の強度を裁断する美の裁判官(そんな役職の人間がいる世界をぼくは想像する。彼らは法律の専門家みたいな重厚で断定的な口ぶりで美を裁断する。彼らのいる国では、美的強度の判断は個々の国民には任されず、その決定は常に美の権力を有する裁判官の手に委ねられている。なんて嫌な世界だろう、とぼくは想像の国の国民たちに同情する。しかし、ぼくたちの暮らす世界の実情もそうした想像の世界さほど変わらないのではないかという気もする。言説は常に権力となるし、盲目的な人間にとっては少なくとも美の裁判官は「存在する」のだから。)に任せておけばいい。ぼくは単なる凡庸な一市民である。決定的なことを語ることはできないし、そのつもりもない。第一ぼくにはぼくの意見だと言い切れるものがひとつもない。それでもなおぼくがここにひとつの文章を綴るのはおそらく、この映画のなかにぼく自身がぼく自身にたいして言葉にせざるをえないひとつの律動を見たからだと思う。

主題(というものがあるとすればだが。それはいつも受けとる者によって造られるのかもしれない。)を語ることもまた映画を語る上で特段意味はないかもしれないけれど(真に映画を語るものは映画だけである)、ぼくは少なからずこの映画を通して見たものを思い出し、そこに見たものを辿り直すことで、自分のなかにひとつの律動を確かめたいと思った。それは写経のようなものかもしれない。あるいは翻訳のようなものかもしれない。いや、そのような正確さはここにはない。映画はすでにぼくのなかで異なるパラフレーズとともに断片化され、登場人物の台詞も逐一正確に記憶してはいない。そのような不正確さをもとに、あえて記録ではなく記憶を辿ることでぼくはぼくのなかに残る痕跡を確かめたい。その意味でこれはとても個人的な行為である。正確さを求めるならば映画を観たほうがいい。そこにはどんな言葉よりも正確な映画そのものが映し出されている。

(「確かめたい」という言葉を使いながらぼくはその言葉の座りの悪さも感じる。ぼくが確かめたいというよりも、ぼくはぼくによって確かめさせられている、という気もする。暖かい茶でも飲みながら、取るに足らないぼくの個人的な営みにしばしお付き合いいただければ幸甚である。)



奄美大島に暮らすふたつの家族。高校1年生の杏子と界人がこの映画の主人公だ。

杏子は飲食店を営む父と島の祭祀を司る「ユタ神様」である母と共にこの島に暮らしている。杏子と同じ高校の同級生である界人は母親と2人暮らしだ。東京に生まれた界人は両親の離婚を契機に母親と2人、奄美の地へと移り住んだ。映画はふたつの家族のふたつの物語を軸に進行する。


杏子の物語、それは母親の死の物語だ。

杏子の母イサは病に伏していた。彼女の生命はもう長くはない。杏子は母親の死が近いという事実をうまく受け入れられずにいた。

「人が、なんで、生まれたり死んだりするのか、わかんないよね」

夕暮れの浜辺に腰かけた杏子は独り言つように界人に言った。「わかんない」と界人はちいさく返した。

杏子と界人のふたりに親しい老人は浜辺に腰かけふたりにむかってこう言った。

「人は、死なんとおもっておるだろう。人は、死ぬんだ。誰でも、死ぬんだ。」

その言葉を聞いて界人は「でも、杏子のお母さんは神様だよ」と言う。老人はその言葉に返す。

「神様でも、死ぬんじゃ」


死を象徴する場面が映画のなかで2度描かれる。老人がヤギを屠殺する場面だ。

両足を縛られ木の棒に逆さに吊るされたヤギ。その首に老人は剃刀の刃を押し当てる。白い柔らかな毛に覆われた首がふたつに裂けてゆく。ピンク色の肉のあいだから真っ赤な血が音もなく滴り落ちる。吊るされたヤギは鳴く。弱々しく、何度も。

老人は優しい目をしていた。晴れわたる奄美の海によく似合う目だ。老人は映画のなかで2度ヤギを殺す。1度目は老人ひとりで。2度目は杏子と界人の見守るなかで。

2度目の屠殺のシーン。杏子は死にゆくヤギの姿をじっと見つめていた。その様子を杏子と共に見つめていた界人は「これ…いつまでつづくの?」と顔を歪める。死にゆくものを見つめている時間の長さ。

ヤギの声が消えいる瞬間。杏子はつぶやいた。

「魂が    ぬけた」

死の瞬間まで杏子の両の目はヤギを見つめていた。いや、それは正確な描写ではない。杏子が見つめていたものは死という現象そのものだった。ヤギが目の前で血を流しながら死にゆく様を見つめている杏子の目には、ヤギが老人によって屠殺されてゆくという事実以上の出来事、生と死の交流点が映し出されていた。生き物としてのヤギは死んだ。そして、ヤギの魂が肉体からぬけだす瞬間を杏子の目は捉えていた。魂がぬけるその瞬間の静けさを、その沈黙を杏子は確かに感じていた。


死んだヤギの魂はどこへゆくのだろう。どこか遠く、ぼくたちの知らないところへゆくのだろうか。それとも、どこかへと消えてしまうのだろうか。首から血を流して死んでいるヤギの体。それは魂を宿さぬ肉の塊となり果てていた。現前する死という現象を杏子は目撃したのだった。


病状が悪化し、イサの死が迫る。イサは病床で彼女の手を握る娘に対して言う。

「生命は、もう、繋がっているから、死ぬのは怖くない」

生命は、もう、繋がっている。生きていることの内に既にして生命は繋がっている。死は消失ではない。死者と生者のあいだの不可視の繋がりをイサは語り、杏子はそれを感じていた。

イサの死の間際、イサのベッドの周りを取り囲む村人たちは、彼女の望みに応え歌をうたい踊る。三味線の軽妙な響きが木霊する。村人たちは陽気に歌う。イサもまたその音楽を聴きながらベッドの上で静かに手で踊る。「どうしても逝ってしまうのね」鎮魂の音楽。生と死の架橋。音楽は生と死の交わりを祝福する。

「しあわせ」

そう言い遺し、イサは逝った。


界人の物語は、家族の繋がりの回復の物語である。

界人は母親にたいする自分の心にうまく折りあいをつけられずにいた。

両親の別離。壊れてしまった家族のなかで界人が感じていたのは家族の繋がりの喪失である。繋がっていたはずのものが自分の力の及ばぬところで喪われる経験は人に孤独の意味を教える。

とある出来事をきっかけに界人は東京に暮らす父親を訪ねた。なぜ母親と別れてしまったのかと父親に問う界人の心には、あるはずの繋がりが喪われてしまった哀しみが滲んでいた。

その繋がりはしかし、不可視のものとして、離れた場所で暮らす者たちのあいだに続いていた。

たとえ離れていたとしても、俺がお前の父親であることには変わりないんだぞ」

父親の言葉に界人は、喪われたかに思えた繋がりのあることを確かめた。島に帰った界人は紆余曲折を経ながらも母親との絆を回復する。

ふたつの物語を通して河瀬は、人間の生と死の不可視の繋がりを描き出す。生きている家族の繋がり、生者と死者の不可視の繋がりを。

しかし、河瀬のまなざしは人間という境界に収まることなくそれを超え出ていく。登場人物の語る言葉や映画の各所に映し出される奄美の映像を通して、映画を、あらゆる存在の生命、生と死の繋がりの物語へと拡張する。


波乗りとは「どこか遠くで生まれた波の最期の部分を引き受けること」と杏子の父親は語る。

ぼくたちは波の生まれる場所を知らない。波の生まれる時を知らない。ぼくたちの知っていることはただ目の前の広大な海に悠然とゆらめく現象、過程としての波の姿だけだ。浜辺で海を眺めるときぼくたちの目に映る波は、ぼくたちの知らない遠い遠いところからやってきて、砂浜にたどり着くとすぐに波としての形を喪う。形を喪った波は、波という名を忘れ去られる。ぼくたちと波は出逢うとすぐに別れることになる。永遠に別れつづけてゆく波と人。人が波に乗ることは波の最期の部分を引き受けることだというのは、現象としての波に物体としての人間が乗るということ以上に、ひとつの儚い生命としての波の最期を看取るということなのだ。波乗りは波の生命の鎮魂の営みなのである。

「海って、生きてるじゃん」と界人は言う。杏子はかつて父親が話したサーフィンにまつわる話を界人に話す。

「(父親は)自分はまだまだだって言うけど、でも、そんな自分でも、時々、波に乗ることで、海とひとつになるっていうか、海と調和するような気がするんだって」

杏子は続ける。

「セックスみたい」

海とのセックス。それは海という生き物とひとつになることだ。ひとつになるとは物理的な意味ではない。名前も形も異なる存在同士が形としてひとつになることはできない。ひとつになるということは、物体としてひとつの物になることではなく、分かたれて在ることを前提としながらも、ひとつの生命として交わり、分かたれたものたちの元々のひとつのかたちへと還る営みなのだと思う。

〈エロティシズムについては、それが死にまで至る生の称揚だと言うことができる〉と語ったバタイユは、人間存在は個別に分かたれた非連続的なものであると言う。非連続的であるがゆえに人間は、連続性を獲得するための運動として性を志向すると考えた。間違いではない。しかし、ぼくたちは〈本当の意味〉で分かたれて在る非連続の存在なのだろうか。名付けられ分かたれた存在のあいだには、もともとは、一なる〈存在〉の地平があるのではないか。河瀬はこの地平を見つめている。

「生命は、もう、繋がっているから、死ぬのは怖くない」

生命は繋がっている。それは、すでに繋がっている。繋がっているから生命は生まれ出づるのだ。名前も顔も知らないぼくたちの祖先から連綿と連なる生命。生命のはじまりをぼくたちは知らない。波のはじまりを知らないように。

この映画のタイトルとして付された言葉は「2つ目の窓」。窓は少なくとも2つある。では1つ目の窓とは。それはおそらく、生命がこの世界に生まれてくるときに通るところだ。1つ目の窓が開かれたとき、生命は地上に生まれ出ずる。肉体としての生。それは一なる〈存在〉の地平から個別の存在が顕れる場所だ。その生が自らを全うしたときに通るところ、それが「2つ目の窓」である。

母神様は杏子に言った。

「死んでしまっても、あなたの心の中に生きている。心のぬくもりとして生きている。」

人は誰でも死ぬ、と老人は言った。神様でも死ぬのだ。でも、消えてしまうわけではない。心のぬくもりとして生き続ける。誰もが誰かの心のなかで。

「イサという波は、俺の人生のなかで、最高の波だった。」

杏子の父親の言葉だ。波。人は波である。単なる比喩ではない。ひとりの人間は、あらゆる存在にとっての〈一なる魂の海〉から生まれるひとつ波なのだ。波はいつか必ずどこかの浜辺と辿り着く。そこで最期のときを迎える。家族とは、波の最期を引き受ける他者たちの名である。誰もが必ず死を迎える。最期の時を引き受ける家族は、生命の波の最期を引き受けるその意味で皆〈魂の海の波乗り〉なのである。

愛しあう杏子と界人。「セックスしよ」界人の目を見つめながら杏子は言う。まっすぐな目だ。界人は怖じ気づき「無理だよ」と杏子の言葉をはねつける。愛する女性と繋がる覚悟が彼にはなかった。

けれど、東京に暮らす父親との繋がりを確かめ壊れてしまった母親との繋がりを回復した界人と、母親の死に向き合い死別の哀しみを乗り越えた杏子は、映画の最後にセックスをする。

彼らは異なる物語を通して知ったのだ。分かたれたものとして個別の生の語るのではない仕方。一なるものの連続として生をまなざすことの意味を。死者と生者との連綿とつづく円環の交わりのなかにあることを。

リルケは言う。

「死とは私たちに背を向けた、私たちの光のささない生の側面です。私たちは自らの存在世界が生と死という二つの無限な領域にまたがっていて、この二つの領域から尽きることのない糧を摂り込んでいるという、どこまでも広大な意識をもつようにつとめなくてはなりません。〔中略〕真実の生の姿は、〔生と死の〕二つの世界を架橋し、また、貫いていて、そこには終わりなき「血」の循環があるのです。この世というものがなければ、あの世というものもありません。あるのはただの大いなる統一体だけで、そこには私たちを凌駕する存在、「天使」が住んでいるのです。」(『リルケ書簡集  1910-1926』若松英輔訳)

二つの世界を架橋し、貫く、終わりなき「血」の循環。リルケと河瀬は同じものを見ている。

杏子と界人はセックスをした。互いの在ることを、分かたれていながら繋がっていることを確かめるように。〈一なる魂の海〉から生まれた2つの波は、男と女のあいだ、愛と呼ばれる繋がりの確かな行為として交わる。生きている2人は肉体を以って調和する。この儚い生の時間を全うするあいだに確かめられるべきぬくもりを確かめ合うための調和の営み。

2人は裸のままガラスのように青く透きとおった奄美の海のなかを手を取りあい泳いでいく。遊ぶように愛しあって。

海。生き物は皆そこから生まれた。その海は〈あの日〉の海とおなじ一つの海である。

映画の冒頭に映し出されたのは黒々と荒れる海の姿だった。その海の姿を見つめながらぼくは知らず知らずのうちにすこしずつ忘れてきた〈あの日〉のことを思い出していた。

あの海の姿は〈あの日〉ぼくがテレビのニュースで観た海によく似ていた。建物や車や人、その地にあるすべてのものをことごとく押し流してゆく〈あの日〉の海の恐ろしさを、ぼくはそこに見ていた。

〈あの日〉の海もまた、いまの海へと繋がっている。過去は消え去らない。死者が消え去ることのないように。すべてのものが〈一なる海〉に抱かれ、繋がっている。

1つ目の窓をくぐりぬけたものたちはみな2つ目の窓をくぐりぬける。2つ目の窓が開け放たれたとき辿り着くのは、森羅万象の一なる魂の故郷。〈一なる魂の海〉へすべてのものは還ってゆくのだ。


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