2015年3月11日水曜日

エゴ・痕跡・音楽 「つつましさ」の美徳に憧れながら〈観光〉は続く

「音楽のつつましい願い」と題された書物には11人の音楽家にまつわる11の物語が綴られている。そのなかのひとつ、「ぎこちなさ エルネスト・ショーソン」のなかで中沢はこう語る。

「いっさいの空間現象のマトリックスではあっても、いまだに空間そのものをつくりだすことのない、あの中間領域にとどまりつづけて、自分を拡がりとして、空間に刻みこもうとはしないのが、音楽にそなわった美徳の源泉だ。だから音楽そのものは、エゴへの執着にたいする、強力な解毒剤の効果を発揮する。つまり、音楽はそもそも、つつましさへ向かおうとする美徳を、内在させた芸術なのだ。」(「音楽のつつましい願い」中沢新一 山本容子)

この文章に出逢ったとき、ぼくの心のなかでギシギシと音を立てながら心の壁面に傷をつけ続ける何者かについて、反証的な仕方で気づかされたような気がした。

「中間領域にとどまりつづけて、自分を拡がりとして、空間に刻みこもうとはしない」ということ。ぼくが数ある芸術のなかで最も音楽に馴染む理由のひとつがここにある。中沢の言葉はぼくが長い間感じてはいながらまるで自己の罪を見つめるかのように拭い去ることのできなかった歯がゆい想いに光を与えてくれたのだった。

「だが、考えてもみよう、外面におけるつつましさこそ、音楽にそなわった最大の美徳ではないのだろうか。あらゆる芸術は、心と内面と四大元素でできた外界との、ちょうど中間に形成される、特別な空間でおこる生命的な現象だ。その中間領域には、生命力と生命の「かたち」を生み出すゲシュタルト情報が、しまいこまれている。絵画はそこを出て、物質的外界に向かおうとする、強い欲望をいだいている。外界の空間的な拡がりの中に、自分をつきうごかしているものを実現させ、定着させようとする欲望だ。」(同書より)

中沢の語る絵画のいだく欲望は、絵画にかぎらず産業構造のなかで「アート」と呼ばれるもの全般にたいして一般的に語ることのできる欲望ではないかと思う。

「外界の空間的な拡がりの中に、自分をつきうごかしているものを実現させ、定着させようとする欲望」、それは、「痕跡を遺す」とも言い換えることができる欲望で、ここでいう「痕跡」とは「アート」における「作品」とも言い換えることができる。「作品を遺す」欲望。これは職業的にせよ趣味にせよ、「作品」をつくることに力を注ぐ人たちに通底するものであることは疑いない。何かを残したい、あるいは、遺したいからこそ、人は形をつくるのだろう。

創造性と遊びの親和性について、遊びの研究者が多くを語っている。忘我の状態に入りこむフロー体験において、人は遊び、そして、つくるのである。創造のプロセスにおける悦びもまた、つくる人間にとっての行為の根底にあるものだろう。ぼく自身も、その悦びを慰めとしてこれまで生きてきたように思う。過程にある悦びをぼくは肯定する。

しかし、「痕跡を遺す」ということにたいして、ぼくはこれまでずっとうまく言葉にできない不愉快さを感じてきた。それはたぶん、過程を遊ぶこと、と、作品をつくること、とのあいだに、なにか決定的な差異を感じてきたからで、その差異に潜む何者かがぼくにとって決定的に重要な事柄であったからだと思う。

その差異とは何か。

そのヒントが中沢の言葉に隠されている。それは「エゴ」の問題である。

「外界の空間的な拡がりの中に、自分をつきうごかしているものを実現させ、定着させようとする欲望」は自らを「作品」として完遂させる欲望へと接続される。そして、「定着させようとする欲望」は、ほとんどの場合、己を世界に開示する欲望へと接続されることになる。欲望は痕跡として世界に存在することとなる。そして、存在を求めるものはつねに認知と承認を欲望することになる。存在の認知と承認欲求。これはエゴの本性である。

エゴ。自我。「過程を遊ぶこと、と、作品をつくること」とのあいだにある決定的な差異とは、エゴの存在の有無である。これは極論であるのかもしれない。確かに、創造の過程において、エゴが顔を出すことはあるし、その過程のなかで自己の才能に浸り自尊心を満足させることもままあることだ。そこにエゴがあるかないかということを明確に断定することはおそらく当人にも他者にもできないだろう。しかし、少なくとも、創造の過程に真に没入したことのある人ならば、没入しきることで自己が消え去る瞬間を体験したことがあるだろう。創造の世界に潜り込んでいるとき人はその行為や成果への賞賛を求めたりその結果が自分にもたらすかもしれない未来については想像しない。そこには自己はなく、未来もない。あるのはただその瞬間瞬間の連続を経験する我を忘れたひとつのメディウムとしての人間だけである。〈ホモ・ルーデンス〉。忘我し、遊ぶなかでこそ人は本当につくることができるとぼくは信じている。エゴからの離脱は創造のトンネルを潜り抜けるときにだけ実現される。

我を忘れて没入した世界には、しかし、終わりの時がやってくる。人は創造のトンネルのなかで一生を終えることはできない。ぼくたちはつくることを通してトンネルを潜り抜け、見知らぬ駅にたどり着き、日常の生活へと帰ってゆく。創造行為の連なりは鉄道のようなものだ。何かをつくるとき、ぼくたちは「ここではないどこか」を目指して列車に乗り込み、トンネルを潜り抜ける。トンネルを潜り抜けた先でぼくたちは新たな駅へとたどり着く。

創造行為と観光はよく似ている。

「観光は、その道中のすべてが「ここではないどこか」へむかって動いていくことでなければならない。つまり観光は変化の感覚、動きの感覚、差異の感覚の体験などと言ったものに、終始貫かれながら、変化や動きや差異そのものを味わうという、ほんらいきわめてゴージャスな行為なのである。」(「切片曲線論」中沢新一)

創造もまた「変化や動きや差異そのものを味わう」行為であり、それは肉体的な移動を伴わない〈魂の観光〉ようなものだ。創造の線路を辿る列車の窓から覗く風景を見つめながらぼくは風景に溶けていく。変化や動きや差異を真に味わうためには、それをまなざす自分を客体として固定していてはいけない。主客の分離を促す意識の境界線を溶かし、変化や動きや差異そのものにふれた自分自身の変化や動きや差異をも感じることが肝要である。エゴに固執していてはこうした体験はできない。

エゴが悪いと言うわけではない。エゴのない人間なんてどこにもいないし、エゴがあるから人間なのだとさえ言えるかもしれない。ぼくたちは欲望を捨て去ることができないし、欲望を抑えつければそれは歪なかたちで噴出することになる。だが、それでもぼくは、創造行為の最中にふと顔を出すエゴの存在に言いようもない不愉快さを感じる。エゴの到来によって損なわれ喪われてしまうものがあるからだ。それが何なのかを名指すことは難しいのだけれど。こんな風に文章を書いて公開する事も同じなのだけれど。我執との折り合いというものは難しい。卑しさに塗れた自己の顔をぼくは何度も目撃してきたし、これからもそうしていくのだろう。痕跡を遺したいという欲望は確かにぼくのなかにある。嫌でもそれを感じる。しょーもないなとため息をつく。

港千尋「洞窟へ 心とイメージのアルケオロジー」を読んでからというもの、ぼくは洞窟壁画に魅了され続けている。うつくしい壁画の写真を見る悦びももちろんあるけれど、それ以上に、その壁画を描いた古代の人々の精神に惹かれる。多くの壁面は、人間が容易には足を踏み込むことのできないような狭くて暗い洞窟の奥深くに刻み込まれている。それらはおそらく、誰かに見られることを想定して描かれてはいない。鑑賞を意図的に排除した絵画。岩肌に刻み込まれた痕跡は誰かのためのものではない。誰にも見つかることなく今もなおこの地球のどこかに眠り続ける壁画もあるのかもしれない。ぼくはそんな壁画を描いた人々を敬愛する。誰にも見られることのない壁画を彼らがどうして描いたのか、その理由はすべて推測で、誰も確かなことは知らない。それでも、ぼくはそこに「本来の姿」を見る。そして憧れる。

壁画は空間に刻み込まれている。しかし、その痕跡は見られることを旨とはしない。痕跡が痕跡であるとの存立基盤を獲得するためにはその存在を認知する存在が必要である。とすれば、見られることのない壁画は「存在」するのだろうか。「シュレディンガーの猫」のような話をしているが、すくなくとも、壁画には「アート」としての絵画に潜む欲望は存在しない。エゴのない絵画。壁画の潔白さにぼくはこれからも魅了され続けるだろう。

高度に情報化された社会でぼくたちはなんでもかんでも表に現すようになった。情報は膨大ですぐに手に入る。表面的なつながりはとても容易に手に入るし、ポストされた情報はそのつながりのなかで即座に評価される。☆マークやいいね!ボタンでぼくたちはファーストフードのような承認欲求を毎日補給する。承認ジャンキー。マクドナルドでハンバーガーを食べるようにぼくたちはiPhoneの画面から承認欲求を食べている。もちろんぼくも例外ではない。そんな自分の愚かしさをしっかりと見つめていたい。

拡大するエゴイズムの社会のなかで、ぼくはいま一度音楽のつつましさを想う。

いまだに空間そのものをつくりだすことなく、中間領域にとどまりつづけ、自分わ拡がりとしめ、空間に刻みこもうとしない音楽の美徳。エゴへの執着にたいする、強力な解毒剤の効果を発揮する、つつましさへ向かおうとする美徳を内在させた芸術。

ぼくはつつましさに憧れながら〈観光〉を続けていく。









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