2015年3月1日日曜日

〈なめらかさ〉の合理と喪失

早朝。目を覚ます。ぼやけた目をこすりながら部屋の窓を開け放つ。アメリカンスピリットのタバコを一本取り出し口に咥え、ライターで火をつける。青みがかった灰色の煙を深く吸い込み、青々とした空に向け静かに吐き出す。煙は音もなく宙空に広がり慎ましやかに消えてゆく。窓越しに見えるは裏山の木々。冬の木々はみな慈愛に満ち満ちたくすんだ色に幹や葉を染め、平らな雲に覆われた灰色の景色によく似合う。人目をひかぬ地味な色合いの光景には、褐色を纏う赤色のギザギザした葉や抹茶色のまあるい葉、その他様々の形や色を顕にした木々が静かに息づいている。いずれの木もそれぞれに違い、みなそれぞれに美しい色や姿を見せてくれる。

近頃以前にましてよく歩くようになった。特段目的は無い。単なる散歩だ。目的も無く歩き、そして、見る。眼下に映るものたち。生物も無生物。ちいさなものたち。速く歩くと見落としてしまうものたちに目を向ける。散歩の醍醐味はそこにある。目的地を定めた歩行の道程にあるとき人はその道程にある様々なちいさなものたちの存在を見落としてしまう。目的地へ向けた歩行はその道程をなめらかに仕立て上げる。微細なものたちを無きものとして扱わんとする無意識が散歩の道程に〈なめらかさ〉を作り出す。

今の世の中はどうも〈なめらかなもの〉が好きなように思える。僕たちが何気なく歩行する都市を具に観察しながら歩いてみるとその嗜好のひとつの形態が僕たちの目にありありと映り込む。現代の建築技術によって作り出される建築物を見てみよう。壁や屋根、床などの建築物を構成する構造全体、それらの建築物を媒介する街路など、都市空間を構成する人工建築物は、主に直線的かつ平面的なものを設計思想の根底に暗黙裡の内に据えているように思われる。自然界では見かけることの無い人工的な直線構造が都市空間のほとんど全てを覆っている事に気づく。建築物の〈なめらかさ〉。こうした人工的直線構造によって構成された現代日本の都市空間を観察すると、現代建築は、大きな意味での「合理性」と密接に結びつきながら己を発展させてきたのだという気がしてくる。社会経済システムの合理的な現実に建築はフォルマライズされてきたのだと。

道はなめらかな方が車で走りやすいし床もなめらかな方が歩きやすい。走行と歩行の合理への適合である。其処彼処に石が転がり無用な草花が咲き乱れ、不意な雨風によって容易に侵食されてしまうような無舗装の田舎道は何かと不便である。建築物のフォルムばかりではない。建築物が占有する空間としての土地もまた〈なめらかさ〉を旨に切り分けられている。直線により切り分けられた土地という境界領域には権利が付与され、所有者が決定される。都市空間は物質的にも観念的にもなめからな線が無数に引かれているのだ。目に見える形で、目には見えない形で。ここからここまでは私のもの。ここからここまではあなたのもの。そうした線引きは「所有」のためには必要なことである。線引きの曖昧なものは法的に処理できないからだ。法律は社会における線引きの強力なメソッドである。自由は、なめらかに引かれた線による規制の境界領域内でのみ容認される。〈なめらかさ〉を志向する法と都市。公的な物の共有を徹底するためにはなめらかな線引きが必要である。理に適ってはいるのだと思う。

人間の思考もまた〈なめらかさ〉を好む。言語はカオティックな世界に線を引く〈なめらかさ〉の魔術である。定義、名付けることは、存在世界全体から名付けられたものを分節する。そして、名付けられたものとのみ僕たち人間は関係する事ができる。名付けられぬものを人は恐れる。名付けられぬものは理解できないからだ。思考はカテゴライズを好む。線引きは人間の本性である。白なのか黒なのか。分けることができないものを僕たちは分かることができないからそれを疎ましく思うのだが、ほんとうはどんなものも白と黒の中間領域にあるのだろう。本当の意味で分けることのできるものがあるのだろうか。白と黒の中間色である灰色のグラデーション。言葉や認識がそこに線を引いていく。思考の直線構造。

色。多種多様な色がある。色も分かたれている。何事も分かたれている方が何かと便利だ。理に適っている。合理的である。それは良い事のようにも思える。けれど、本当にそうだろうか。本当に分けることなんて出来るのだろうか。

珈琲カップを片手に携えて開け放った窓の外を再び眺めてみる。色々な木々がのっそりと立っている。それぞれの色。しかしどれも木の色だ。それらの色をひとつひとつ定義することはとても難しい。色々な色の混じり合ったそれぞれの色。木の色ひとつとってみても僕にはそれを正確に線引きし定義することができない。なめらかに区切られた色はどこにもない。小学校の美術の授業で使った絵の具。林檎を描くためにパレットに「赤」という文字の印刷されたアクリル絵の具を搾り出す。あの「赤」。あの「赤」は一体なんだろう。「赤」と定義されたあの色こそが真の「赤」だというのなら、僕は日常の中に本当の赤を知らない。なめらかに区切られた「赤」。色はそこにある。しかし、色もまた名付けられることによってなめらかになる。日常のあらゆる場面に潜む〈なめらかさ〉。

現代日本を代表する音楽家である武満徹によれば、音楽には「持ち運べる音楽と持ち運べない音楽」がある。固有の民族、文化に結びついた音楽(今時の言葉ではそれを「民族音楽」と言う。その言葉の定義もまた、あらかじめ措定されたスタンダードに対して「外部」を切り分け境界化するという思想を前提とする)は、「持ち運べない音楽」であるという。なぜ持ち運べないかというと、そうした音楽はその定義通り固有の民族、文化に結びついているから。認識し説明する事のできないほどに不可視なレベルで存在する固有の風土や人々の生活習慣と密接に結びついているために、ある種の音楽はその土地を離れる事ができないのである。琉球琵琶を海外に持ち出し演奏しようとしたところ、演奏会場のある国の湿度の影響で琵琶が乾燥し割れてしまったというエピソードもある。音楽的特徴と共に、楽器もまた固有の風土に結びついているため風土が変わるとそこから奏でられる音が変わってしまう。音楽を構成するのはその構造だけではなく種々の楽器の音色にも依るため、同じ楽曲を演奏しようとしても同じ音を出せないならばそれは同じ音楽ではなくなってしまう。ゆえに、ある種の音楽は持ち運ぶことができないという話だ。

「持ち運ぶことのできない音楽」という音楽の性質は元来、音楽の本来的な性質として自明視されていたわけだが、近代において、西洋音楽はその公理に対する革命を起こした。「持ち運ぶことのできる音楽」の誕生は西洋音楽の革命が齎した発明であった。高度に理論化された平均律を代表とする音楽理論体系や風土に左右されない楽器の発明がこの革命を現実のものとした。ピアノという楽器はその革命思想の物象化の粋である。微細な音の差異を切り捨て平均化することにより音楽を抽象化することに成功した西洋の革命の功績は音楽文化の豊穣さに対する多いなる収穫をもたらすこととなった。持ち運ぶことのできない音楽に出会うためには、聴取する人間がその肉体を彼の地へ持ち運ばなければならない。持ち運ぶことができる音楽の誕生はその困難を華麗に解決したと言える。どこにいても「同じ」音楽を聴くことができるという豊かさ。それは素晴らしいことだと思う。しかし、そればかりが善であると考えると見落としてしまうものがある。「持ち運べる音楽」は「持ち運べない音楽」の持っていた細やかな音色な音程の差異やゆらぎの有する豊かさを喪った〈なめらかな音楽〉とも言えるのではないだろうか。

西洋音楽の確立した記譜の方法では拾い上げることのできない微細な音のゆらぎや音色というものがある。抽象化には限界がある。そもそも理論化すること、抽象化することとは細部を切り落とすことと同義であるからして、当然その行為によって喪われてしまうものがある。

合理的な思考に基づいて不必要と判断された細部を切り落とすことによって作り出される〈なめらかさ〉。これは、都市も言葉も音楽も同じだ。〈なめらかさ〉の合理的な豊かさと〈なめらかさ〉によって喪失される豊かさ。これらは物事の表裏である。こうした事を見落としてしまうと、僕たちはなにか大切なものを見捨てることになってしまうのではないだろうか。どちらが良い悪いではない。それぞれにそれぞれの利点があり欠陥がある。優れたものには必ずそれに見当たった毒がある。良いとされるものには必ず悪しきものが隠されている。陰陽。分けられるものではないのはここでもまた同じだ。一方のみを信じてはいけない。

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