2015年3月12日木曜日

第14章 白紙の大地に打たれた黒点としての僕の目は9つの月を見つめる

ここにひとつの点を打ってみるとしよう。白紙の紙の上。点が打たれた。点はそこに存在しはじめる。僕の目はその点のあることを眺めることができるし、その点をじっと見つめていることもできる。一度打たれた点はもうそこに打たれてしまったものだから動いたり逃げたりはしない。そんな自由は点には許されていない。点は点であることしかできないし、点は点であることをやめることもできないのだ。点は点だ。

しかしどうだろう。点から目を離して、もういちど、あたらしい仕方で見つめる作業に取り掛かってみよう。すると見えてくるものは変わるかもしれない。白紙という一面を前提にして点を眺めるならば、それは点に違いないけれど、点を中心に白紙を眺めてみたならば事態は一変する。黒いインクで打たれた点が僕の目だ。僕の目はこの黒い点のひとつからだけで構成されていて、僕の目はこの広大な白紙の上に印字されている。僕の目は点だから、当然僕の目は自分が点であることを見ることができない。僕の目は点だから、僕の目が印字された広大な白紙の大地を眺めることはできる。点である僕の目から見ると、この白紙の紙の上は大地そのものなのだ。大地の定義は辞書に書いてあるけれどこの際そんなものはどうだっていい。僕の目がここにあって、僕には目しかない。したがって、僕は目であり、目であることでしかない。すると、僕の目、つまり、僕のいるここは、僕にとっての生きる場所であり、僕の眺める日常の風景であり、それはつまり、僕にとっての大地である。大地は土で構成されているとは限らない。それは土で構成された大地の上で生活をする人間の慣習的な思い込みにすぎない。大地は、何によって構成されているかということではなく、誰にとっての生活の場所であるかということによって決定される定義である。その定義は相対的なものだから、誰かにとっての大地は、別の人にとっては海かもしれないのだ。そういう意味でこの白紙の紙は点である僕にとっての大地である。ああ広大な大地。純白に染められたなめらかな大地よ。ここにはなにもない。僕以外はなにもない。なんて自由。なんて途方もない自由なのだろう。神よ。そして、紙よ。

僕は空を見上げる。空はすでに夜の黒色に染められている。時刻は20時49分。空には無限の星々が輝いている。僕の目は月を見つめる。あれ、おかしいな、僕の目は節穴か?月が9つに見える。そうか、そういえば近頃視力が落ちたから裸眼じゃうまく見えないんだった。でも僕は点だから眼鏡をかけることができない。仕方ないからそのままの目で僕は空を見つめなおす。僕の目は乱視が入っているからいろんなものがぼやけて見える。物の境界線ていうものがよくわからない。物と物とのあいだにははっきりとした線が引かれていて、だから僕たちの目がリンゴを見つめるとそれがリンゴだとわかるし、鍋を見つめるとそれが鍋だとわかる。そんなふうにして僕たちは物をみているのだけれど、僕の目のように乱視が入っていると物と物とのあいだの境界線がうまく見えないから、物と物とのあいだにあるはずの境界線がぼやけてしまって、リンゴも鍋も人間も空もみんなぼんやりとつながって見えてしまう。輪郭線がどろりと溶けだして見える世界はなんだか全部がひとつのものみたいにも見えてくるんだ。境界線はきっとほんとうはあるんだろうけど、僕の目にはそれが見えない。だから僕は、境界線の見えないままの僕の目で世界のあらゆるものを見ている。それは目のいい人からするととても奇妙な光景なのかもしれない。

境界線がぼやけるだけでなくて、僕の目は乱視だから、ひとつの物の境界線がダブって見えたりもする。ダブるどころか物自体が奇妙に溶けだしていくつものそれに見えるときだってある。今、僕の目に映る9つの月はたぶん僕の乱視のせいでそう見えているんだろう。僕の目には9つに見えるけれど、目のいい人にはそれは1つにしか見えないのだろう。僕はそう推測する。でも、点である僕の目は眼鏡をかけることができないから乱視であることをやめられないので、僕の目に映る月はいつまでたっても9つのままだ。それが僕にとっての真実というものだ。1つのものだって9つに見えているならばそれは9つなのだ。今夜の月は9つでとても綺麗だ。

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