2013年9月18日水曜日

『西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事』を読んで

手にとっただけで、暖かみの伝わる装丁。柔らかな空気感。西荻窪という町にひっそりと佇む古本屋、音羽館について、店主自ら言葉で綴られたこの本は、とても穏やかで心地よい。文章に人柄が宿るとはこの事か、と感心してしまうほどに、柔らかな、わかりやすい言葉を紡ぐ筆者。ゆるやかな文章に、 心が洗われていくようです。 本書、第一章では、音羽館の誕生と、日常の仕事の話が語られる。一冊の本の値段をいかにつけるのか、棚をどのような思いでつくるのか、店というものにどのような認識を持ってもらい、そのためにどのような本をどのように売るのか。そうした、古本屋としての日々の仕事の工夫、 客として店に出向くだけではなかなか覗くことのできないお店の裏側が訥々と語られていく。穏やかさのなかに隠された、ささやかでありながらも確かな信念が垣間見られます。この人は、本当に、本が好きで、古本屋さんという仕事を愛しているのだな、と思わず胸があつくなりました。 なぜ古本屋なのか、なぜ実店舗での販売にこだわるのか。それは結局のところ、古本屋という仕事の醍醐味が、目の前にいるお客さんとの本を介したゆるやかなコミュニケーションの中にあると店主が感じているからのようです。古本屋さんという、 儲かりはしないけれど、好きな仕事を選んだ店主の様々な言葉の暖かさ、素晴らしいなと思います。 こういう本が、僕は好きです。普段みることのできない他人の小さな日常の世界を覗き込む事で、自分がぼんやりと感じていた事や、大切にしていることに改めて出会う事ができるからでしょうかね。 一方で、こういう本を読むと僕は、大抵いつもある種類の「ぬるさ」を感じる事も否定できない感覚として感じてしまいます。それは一体、なぜだろう。これが、いま僕のなかにある大きな問いのひとつです。 心地よいもの、とは、同時に、退屈なものでもあると思います。それはきっと、心地よさというものが、既にある程度形を整えられ、完成した土台の上に成り立つものだから。地平線へと続くなだらかな一本道を車でひた走ることは心地よい事です。不安に思うことはなにもない。道に迷うこともない。ただただ、舗装されたアスファルトの道を走ればいいのですから、それは心地よいものです。 ただ、心地よいものに慣れすぎてしまう事には、弊害もあるのです。それは、その心地よさというものが、誰かの手によって造られたものである事を忘れ、心地よいもの中にいるだけでは出会えない、野生の動物たちや未開のジャングルがあることに気がつかなくなってしまう事です。これはひとつのメタファーに過ぎませんが、心地よさの閉鎖性は、本に限らず、文化、表現に纏わるすべてのものに関わるものです。 僕はいま、音楽に纏わる店や場をテーマに据えた本の企画を日々考えています。音羽館の本は、いまの僕にとりとても参考になる教科書であるとともに、よき反面教師となりそうです。 いわゆる「店的な物語」、「西荻窪」という町の表象。そうした心地よさを、僕は逸脱したいと思っています。「店を紹介する」本ではなく、 あくまで僕は「音楽のある場を作り続ける表現者」として、彼らと彼らの店をひとつの作品行為として描き出したいと考えています。それは、これまでの音楽という表現の担い手を拡張する意味を込めて。そして、 場をつくることこそが、音楽という文化がいま求める価値ある表現行為であると僕が考えているからです。 見慣れた風景を一変させる一曲の音楽。 見慣れた街並みを一変させる音楽の現場たち。 心地よさを消費するだけでは、なだらかな道から自分の道を歩む事はできない。魑魅魍魎の蠢く森の中へと足を踏み込んでいくような、心地よさとは相反する、不可知の出会いの感覚。そんな本が作れたらいいな、 と思った今日でした。 音楽の現場を創ること、それは新たな音楽家の ひとつの表現行為であり、音楽の場とは、永遠に終わらない一つの壮大な交響曲である。 なんてね。

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