西暦2114年9月18日。深夜。午前1時40分。僕は、月の上を歩いている。この日記が記された日の、ちょうど100年後。僕は、月の上を歩いている。それは、紛れもなく、100年前の僕が、小さな街灯の灯る路上で仰いだ夜空に煌々と浮かびあがっていた、あの、月である。僕は、月を眺めるのが好きだった。100年後、まさか僕は、同じ、僕、として、その月の上を、僕の二本の足で歩くことになるとは、想像もしていなかった。それは、可能性として、あり得るはずのない出来事であったのだあら。しかし、可能性は、時に、裏切られる。それは、図らずも、誰かの死を導くトラックの衝突事故のように、唐突に現れるものであり、僕は、不可能性の可能性という問題に対して、少しばかり、ない頭をフル回転させて考えないわけにはいかない奇妙な事態に遭遇したことになる。2114年9月18日。地球は、未だ、青かった。そして、僕は、月の上を歩いている。
灰色に、少しばかりの赤紫色を混ぜ込んだような色をした、小麦粉のように細かな砂と石と岩に覆われた月の表面には、その他に、色という色はなく、見渡す限りこの星にあるものは、単調な色彩の細やかで不器用な変形の連続だけであった。地球には当たり前のようにあった、空、なるものはここにはない。単調な色彩のすぐ上には、一切の色彩を欠いた空間、こう言ってよければ、漆黒の宇宙が少しの隙間もなく貼り付いているのだった。
僕は、ゆっくりと、可能な限りゆっくりと、その、灰色と赤紫色の混じった砂の地面を踏みしめて、歩いてゆく。靴が地面に接するたびに、細かな砂が、霧のように、ふぁっと舞い上がり、パラシュート部隊のように静かに地面に落下する。幼い頃、くりくりとした目を輝かせて足を踏み入れた雪化粧の世界を僕は思い出していた。近所のアパートの駐車場を覆うように立っているコンクリートの壁の上に降り積もった雪を、ちいさな掌でつまみあげ、そのまま口の中にほおばるのが好きだった。ふわふわとした触感と、口に入れた瞬間に舌の上でふわりと溶ける雪の味は、東京の空気の汚れのためか、ほんの少しだけ、苦味のあるものだった。
そんな景色を思い出しながら、僕は、この、月面歩行に精を出す。この星にやってきた理由は、僕にはわからない。ただ、言葉が、僕をこの星の上に導いたのだ。そう。それは、なんらかの天命とも言うべきものであるのかもしれない。それは、あの日。9つに分かたれた月を空に見つけたあの日の夜に、決定されていた事柄なのかもしれない。理由は、常に、物事の後になってから見出されるものだ。それは、単なる言葉であり、それ以上のものではなく、僕たちが発見するのは、いつも、そこでの生活を終え既にこの世の肉体と心と生命を終焉させてしまった魂の痕跡、蝉の抜け殻のような存在の必然の空白であるしかないのである。
月は、ここに、ひとつである。
そう。それは、ひとつでしかない。
僕の足が踏みしめる大地は、この、たった一つの月であることに違いはない。しかし、どうだろう。ほんとうに、月は、ひとつであるのだろうか。ほんとうに、本当のことを知ることは、僕に、できるのだろうか。この足が、この大地を踏みしめている間、僕は、僕であることしかできず、僕は僕の足で歩くことしかできないのであり、僕は、僕であることとは違うあり方で僕のことをまなざすことも、僕以外の生命を生きることも、僕のことを僕が見つめることも、ほんとうには、できやしないのだ。僕は、ここにいる。しかし、それを確かめるすべはない。現に僕は、この月の上にいながら、僕のことをここに想像し、僕のことを詳細に記述せんと試みる飽くなき執筆者、理由も価値もなき物語の連続をただ遊ぶこの筆記者としての、ぼく、と、月面歩行の僕、とは、果たして、どちらが、ほんとうに、僕なのであろうか。僕は、一人でしかなく、同時に、この、月面の僕が存在すること、その思考をあなたに対して示すこと、しかも、この思考の提示のあり方は、口語によるものか、はたまた、思想内部の言語それ自体の表出であるのか、それすらも明確に記述されていない、ただの言葉の羅列としての月面歩行の僕が存在することを保障する僕は、このiphoneを握りしめる僕なのではあるがしかし、その僕の行為自体を、今こうして言葉を紡ぎながら客体としてまなざすことは難しい。僕は言葉を紡ぎながら、2114年9月18日の僕の存在を記述する。僕は、僕を、月面歩行させる。しかし、僕は、月面歩行させられているのではなく、あくまで僕の意思に応じて歩行する。歩行は強制されることはできない。なぜならそれは、歩行という行為で表すことのできない行為であるからだ。僕は、僕のことを記述する僕であり、僕は僕によって記述される僕であり、その僕を、このようにして僕として見つめる僕がいる。僕とは、誰のことなのか。そうした問いを立てる僕は、僕と、同じだろうか。
月面歩行者、僕。
何もない、月面を歩行する。
今夜は、それだけの夜なのだ。
2014年9月18日午前2時16分。
2014年9月18日木曜日
2014年9月11日木曜日
第12章 コスモスと老人と惑星
遠い夜明けのこと。コスモスの花が咲いていた。薄青い空と草原。僕はそこに寝そべり、目の前に広がる無限にも似た空を眺めていた。鱗の連なりのように、びらびらとたなびき流れる雲雲は、何処へと向かうのか。僕はいま、此処にいる。この身体のなかにいる。この心の中にいる。そして、身体にも、心にも、ほんとうのぼく、は、いないことを、何処かで知っている。誰かが教えてくれたわけじゃない。それは、はじめから、知っていたことなのだろう。木は、今日も、あいもかわらず、木のふりをして立っている。おい、そこの、木よ。おまえさんは、どうして、そこに、木として、立ち続けているのだい。おまえさんは、何処へも行きたくないというのかい。僕は、何処かへ行きたいと思う。だって、僕には、2本の足があるのだから。おい、そこの木よ。おまえさんは、この、おおきなおおき碧色の空を眺めて、今日も独り、何を思う。寂しくはないかい。それなら、いいんだ。僕は、そろそろゆくとするよ。この空は、僕にはあまりに、大きすぎるから。
天空の木霊は、夜の闇を連れてくる。そぞろ歩きの宵の群。天空を覆う、時の流れ。僕の身体は、空へと溶けた。濃密な黒色のなか、空が、次第に、僕のなかへと、染みてくる。
僕は、一つ一つの、ぼくに、なる。ほんとうは、はじめから、そうだったのかもしれない。忘れていただけなのだろうか。忘れたとしたら、いつのこと。遠い遠い、過去の、あの、日。僕は、僕に、なってしまった。僕は、僕に、押し込まれて、透明な液体に浸されて、型のなかで、身動きひとつ取れぬまま、ただただ、自分のかたちを、拵えたのだ。そうしてみんな、大人になってゆく。ポロポロと、零れ落ちる、ぼくの、僕の、殻。あなたのも、きっと、そうでしょう。仕方のないことでしょう。石膏のような、白い、パリパリとした殻は、卵のように、やわらかい魂をこぼしてしまわぬよう、必死で、硬く、閉ざしておるのですから。
2014年9月10日。
月は、濃密な色を讃えて。
或いは、こうも言えるかもしれません。
何処か遠く、まだ見知らぬ土地で、…そう、それは、星、かもしれない。まだ見知らぬ星。何処かにある、星の上。灰色に光る、ちいさな星で、僕は、ぼくを探していた。何処かの駅に置き忘れてきてしまった、ぼくの、中身。
卵は、落下する。
地面にぶつかり、割れる。
老人は、ちいさな、嗄れた声で、呟いていた。
月は、ひとつではなかった。
それは、それら、であった。
わしは、それらを、愛していた。
そして、それは、過去となった。
分かたれたものは、二度と、戻ることはない。蛙の卵のように、川辺にたゆたう、透明な粘膜に浸された、奇妙な生命の、前の、形。
生き物はみな、球体だった。それは、凡て、星の姿をしておった。いつからだろう。かたちが、かたくなったのは。わしらは、わしらでしか、なくなってしまった。そうして、わしらは、わしらのことを、忘れてしまった。ひとりひとり、で、あるかのように。
あゝ、こんなにも、自由であることは、こんなにも、独りであることなのだ、と、アダムとイヴは泣いていた。
わしは、もう、帰るよ。
わしは、もう、疲れてしまったよ。
わしは、わしであることから、解き放たれて、かつての、星の、あるべきかたちへ、帰るのさ。
なぁに、怖がらなくてもよい。
ただ、それだけのことなのだから。
おまえさんも、少しばかり、年老いたら、わかるだろうよ。
もう少しの辛抱さ。
なぁに、たいしたことじゃあない。
ありがとよ。お若いの。ではな。
灰色の空に、冷たい風が吹いていた。もう、季節は秋だそうだ。時間は、止まることなく、過ぎてゆく。幾つもの日々を、忘れながら。
あの人は、いま、どんな顔をして、笑っているのだろうか。
僕は、元気です。
左様なら。
天空の木霊は、夜の闇を連れてくる。そぞろ歩きの宵の群。天空を覆う、時の流れ。僕の身体は、空へと溶けた。濃密な黒色のなか、空が、次第に、僕のなかへと、染みてくる。
僕は、一つ一つの、ぼくに、なる。ほんとうは、はじめから、そうだったのかもしれない。忘れていただけなのだろうか。忘れたとしたら、いつのこと。遠い遠い、過去の、あの、日。僕は、僕に、なってしまった。僕は、僕に、押し込まれて、透明な液体に浸されて、型のなかで、身動きひとつ取れぬまま、ただただ、自分のかたちを、拵えたのだ。そうしてみんな、大人になってゆく。ポロポロと、零れ落ちる、ぼくの、僕の、殻。あなたのも、きっと、そうでしょう。仕方のないことでしょう。石膏のような、白い、パリパリとした殻は、卵のように、やわらかい魂をこぼしてしまわぬよう、必死で、硬く、閉ざしておるのですから。
2014年9月10日。
月は、濃密な色を讃えて。
或いは、こうも言えるかもしれません。
何処か遠く、まだ見知らぬ土地で、…そう、それは、星、かもしれない。まだ見知らぬ星。何処かにある、星の上。灰色に光る、ちいさな星で、僕は、ぼくを探していた。何処かの駅に置き忘れてきてしまった、ぼくの、中身。
卵は、落下する。
地面にぶつかり、割れる。
老人は、ちいさな、嗄れた声で、呟いていた。
月は、ひとつではなかった。
それは、それら、であった。
わしは、それらを、愛していた。
そして、それは、過去となった。
分かたれたものは、二度と、戻ることはない。蛙の卵のように、川辺にたゆたう、透明な粘膜に浸された、奇妙な生命の、前の、形。
生き物はみな、球体だった。それは、凡て、星の姿をしておった。いつからだろう。かたちが、かたくなったのは。わしらは、わしらでしか、なくなってしまった。そうして、わしらは、わしらのことを、忘れてしまった。ひとりひとり、で、あるかのように。
あゝ、こんなにも、自由であることは、こんなにも、独りであることなのだ、と、アダムとイヴは泣いていた。
わしは、もう、帰るよ。
わしは、もう、疲れてしまったよ。
わしは、わしであることから、解き放たれて、かつての、星の、あるべきかたちへ、帰るのさ。
なぁに、怖がらなくてもよい。
ただ、それだけのことなのだから。
おまえさんも、少しばかり、年老いたら、わかるだろうよ。
もう少しの辛抱さ。
なぁに、たいしたことじゃあない。
ありがとよ。お若いの。ではな。
灰色の空に、冷たい風が吹いていた。もう、季節は秋だそうだ。時間は、止まることなく、過ぎてゆく。幾つもの日々を、忘れながら。
あの人は、いま、どんな顔をして、笑っているのだろうか。
僕は、元気です。
左様なら。
2014年8月12日火曜日
閑話 第X章 点と線と立体と、世界、そして、希望、生きなおすことについての論考
きっと、どんな人にでも、忘れることのできないある日の記憶というものがあるのではないか、と、ぼくは想像する。
ぼくたちの人生は、人類の歴史からみれば、とてもちいさな点にすぎないものだ。
その点は、おなじく、点にすぎない人間の手によって、いとも簡単に消してしまうことのできるもので、
そんな出来事は、目の前の現実からすこしだけ目を遠くへむければ、どこにでも起きている。
世界中で、いま、この瞬間にも、ちいさなちいさな点の鼓動が、その、振動を終えているというまぎれもない事実に、はたしてぼくたちは、耳を澄ますことができているのだろうか。
ぼくは、正直、心もとなく、そうしたちいさなこえの、ひとつひとつを、ていねいに、できるだけそのままに、まなざすことはできないのではないかと思っている。
それは、ひどく寂しいことなのかもしれない。
だれかのこえが、いま、ぼくのしらないどこか遠いところで、ちいさなちいさな響きを生み出しているのだとすれば、
ぼくは、できるだけ、そのこえに、耳をすませてみたいと、ねがう。
すこしでも、きこえるものがあるかもしれない。
わからなくとも、想像することは、できるかもしれない。
そういうことさえ諦めてしまったとしたら、一体ぼくたちには、どうして、この耳が、あるというのだろう。
諦めることは簡単なことだ。
しかし、諦めることなく、たしかに生まれいづるものたちのこえに、いま、この場所から、すこしはなれた場所にいる、まだしらぬ、だれかのこえをきくことは、ぼくたちにとって、むずかしくも、はかなくも、たしかに、ここに自分が生きているということの、実感としての証明になりはしないだろうか。
過去、現在、未来。
時間というものの上にも、さまざまな点をうつことができる。
それは、とほうもなく、永遠にも似た、現在のなかにある、たしかなものをつかもうとする、ぼくたちの、希望を示す、位置、となるのかもしれない。
ここにも、そこにも、あそこにも、点をうつことができる。
あるいは、自分や、他人や、友達や、家族や、動物や、植物や、この地球という巨大な星でさえも、
ぼくたちは、点として、とらえることができてしまう。
点とは、点である、のではなく、何かに対しての点、なのだ。
その、何かに対しての点、は、ちいさなものでもあるし、
また、同時にそれは、命そのものであるかもしれないのだ。
まなざすことを、そこからはじめてみなければならないのだと思う。
どんなものでも、ちいさな点であり、同時に、とてつもなくおおきな、世界、そのものであること。
そこから出発することで、ぼくたちの、生きることの、認識は、さまざまなおおきさの世界を、縦横無尽に行き来することができるのではないか、それは、希望なのではないか、と、ぼくは、無力にも、そう思わずにはいられない。
なぜなら、ぼくたち、ひとつひとつの点は、過去と、現在と、未来の、絶え間ない関係の糸のなかにあるのであり、
ぼくたちという存在のありかたは、かならず、だれかと、どういうかたちでか、つながり、線となるものであり、
その線と線が、また、この世界のなかに、新たな空間と時間の関係性を、世界をつくりあげていく。
点にすぎないものたちが、点にしかつくりあげることのできない、わけへだてることのできない、連続性のなかで、あるひとつの世界や、また別の世界を描くことのできる、線となるのであれば、
ぼくたちの世界は、とほうもなく、巨大で、縦横無尽に動き回ることのできる、無限の空間と時間、となるのではないだろうか。
ぼくは、そんなことを、イメージする。
そんなイメージは、イメージにすぎないのだろうか。ぼくにはまだ、答えることはできそうにない。
けれど、想像することでしか未来を描くことができないのであれば、ぼくに備わった、想像することの力を、信じてみたいと思うのである。
そして、過去。
過去はすぎさったものかもしれない。それはもう二度と、かえらないもので、ぼくたちはそれを想像することしかできないのかもしれない。
ある日のことを思い出す。
あの日、どんな風がふいていたか。
あの日、あの人は、どんな風に笑っていたか。
あの日。すぎさった、あの日のことを、ぼくたちは、おもいだすことができる。そして、わすれることもできる。
あの日もまた、ちいさなぼくたちにとっての、ちいさな点なのであり、ぼくたちは、その点をみつめることができ、また、その点のなかに無限にひろがる、世界を、まなざすことができる。
記憶とは、そうした、希望、なのではないだろうか。
記憶は、世界、それ自体でも、あるのではないだろうか。
ぼくは、かんがえる。
そして、想像する。
無数の点からなる、過去の記憶。それらを結ぶ、ぼくだけの、あるいは、あなただけの、そして、ぼくたちだけの、記憶、世界、の、在り方について。
かろうじて、そんな想像することが許されるのであれば、ぼくは、想像せずにはいられない。
ぼくたちの、脳内で、いま、この瞬間も、つながりあう、神経と神経の線、それが記憶を、つくりだすものならば、
記憶と、いまと、世界は、
ひとつながりに、なるのではないだろうか、と。
そして、想像する。
それらが、すべて、ちいさな点からなるものであるならば、すぎさった過去を、想像の舞台の上で、生きなおすことも、できるのではないか、と。
再び、生きる、ことが、できるのではないか、と。
だから、いま、ぼくは、物語に導かれている。
絶え間ない運動のなかで、ふとうかびあがる、記憶と、いまの自分と、そして、自分の想像しうる、未来、にもよく似た、世界のことを、
ぼくは、自分の、書きたいときに、書いている。
そうすることで、日常のなかでは忘れている、過去と未来の線上に、無数の点を痕跡として露わにすることができるかもしれない。
それが、物語ることの力だとしたら、ぼくは、それを信じてみたい。
そして、この物語がおわるとき、ぼくは、この物語を、ふたたび、生きなおすだろうと思う。
どのようなかたちかは、まだわからない。
痕跡を遺すことは、過去を過去として捨てさることではなく、未来に、変わってしまう自分の目で、ふたたびそれをまなざすためにあるのだから。
ぼくは、想像する。
この物語が、いつか、誰かの目に映る日を。
そして、そのちいさな点としての、誰かの目と、その現在と、ぼくの、たしかな関係の糸のなかにぼくがあると感じられたならば、
こうして、僕が物語ることに、ちいさくも、無限におおきな、世界が生まれることを、期待して。
ぼくたちの人生は、人類の歴史からみれば、とてもちいさな点にすぎないものだ。
その点は、おなじく、点にすぎない人間の手によって、いとも簡単に消してしまうことのできるもので、
そんな出来事は、目の前の現実からすこしだけ目を遠くへむければ、どこにでも起きている。
世界中で、いま、この瞬間にも、ちいさなちいさな点の鼓動が、その、振動を終えているというまぎれもない事実に、はたしてぼくたちは、耳を澄ますことができているのだろうか。
ぼくは、正直、心もとなく、そうしたちいさなこえの、ひとつひとつを、ていねいに、できるだけそのままに、まなざすことはできないのではないかと思っている。
それは、ひどく寂しいことなのかもしれない。
だれかのこえが、いま、ぼくのしらないどこか遠いところで、ちいさなちいさな響きを生み出しているのだとすれば、
ぼくは、できるだけ、そのこえに、耳をすませてみたいと、ねがう。
すこしでも、きこえるものがあるかもしれない。
わからなくとも、想像することは、できるかもしれない。
そういうことさえ諦めてしまったとしたら、一体ぼくたちには、どうして、この耳が、あるというのだろう。
諦めることは簡単なことだ。
しかし、諦めることなく、たしかに生まれいづるものたちのこえに、いま、この場所から、すこしはなれた場所にいる、まだしらぬ、だれかのこえをきくことは、ぼくたちにとって、むずかしくも、はかなくも、たしかに、ここに自分が生きているということの、実感としての証明になりはしないだろうか。
過去、現在、未来。
時間というものの上にも、さまざまな点をうつことができる。
それは、とほうもなく、永遠にも似た、現在のなかにある、たしかなものをつかもうとする、ぼくたちの、希望を示す、位置、となるのかもしれない。
ここにも、そこにも、あそこにも、点をうつことができる。
あるいは、自分や、他人や、友達や、家族や、動物や、植物や、この地球という巨大な星でさえも、
ぼくたちは、点として、とらえることができてしまう。
点とは、点である、のではなく、何かに対しての点、なのだ。
その、何かに対しての点、は、ちいさなものでもあるし、
また、同時にそれは、命そのものであるかもしれないのだ。
まなざすことを、そこからはじめてみなければならないのだと思う。
どんなものでも、ちいさな点であり、同時に、とてつもなくおおきな、世界、そのものであること。
そこから出発することで、ぼくたちの、生きることの、認識は、さまざまなおおきさの世界を、縦横無尽に行き来することができるのではないか、それは、希望なのではないか、と、ぼくは、無力にも、そう思わずにはいられない。
なぜなら、ぼくたち、ひとつひとつの点は、過去と、現在と、未来の、絶え間ない関係の糸のなかにあるのであり、
ぼくたちという存在のありかたは、かならず、だれかと、どういうかたちでか、つながり、線となるものであり、
その線と線が、また、この世界のなかに、新たな空間と時間の関係性を、世界をつくりあげていく。
点にすぎないものたちが、点にしかつくりあげることのできない、わけへだてることのできない、連続性のなかで、あるひとつの世界や、また別の世界を描くことのできる、線となるのであれば、
ぼくたちの世界は、とほうもなく、巨大で、縦横無尽に動き回ることのできる、無限の空間と時間、となるのではないだろうか。
ぼくは、そんなことを、イメージする。
そんなイメージは、イメージにすぎないのだろうか。ぼくにはまだ、答えることはできそうにない。
けれど、想像することでしか未来を描くことができないのであれば、ぼくに備わった、想像することの力を、信じてみたいと思うのである。
そして、過去。
過去はすぎさったものかもしれない。それはもう二度と、かえらないもので、ぼくたちはそれを想像することしかできないのかもしれない。
ある日のことを思い出す。
あの日、どんな風がふいていたか。
あの日、あの人は、どんな風に笑っていたか。
あの日。すぎさった、あの日のことを、ぼくたちは、おもいだすことができる。そして、わすれることもできる。
あの日もまた、ちいさなぼくたちにとっての、ちいさな点なのであり、ぼくたちは、その点をみつめることができ、また、その点のなかに無限にひろがる、世界を、まなざすことができる。
記憶とは、そうした、希望、なのではないだろうか。
記憶は、世界、それ自体でも、あるのではないだろうか。
ぼくは、かんがえる。
そして、想像する。
無数の点からなる、過去の記憶。それらを結ぶ、ぼくだけの、あるいは、あなただけの、そして、ぼくたちだけの、記憶、世界、の、在り方について。
かろうじて、そんな想像することが許されるのであれば、ぼくは、想像せずにはいられない。
ぼくたちの、脳内で、いま、この瞬間も、つながりあう、神経と神経の線、それが記憶を、つくりだすものならば、
記憶と、いまと、世界は、
ひとつながりに、なるのではないだろうか、と。
そして、想像する。
それらが、すべて、ちいさな点からなるものであるならば、すぎさった過去を、想像の舞台の上で、生きなおすことも、できるのではないか、と。
再び、生きる、ことが、できるのではないか、と。
だから、いま、ぼくは、物語に導かれている。
絶え間ない運動のなかで、ふとうかびあがる、記憶と、いまの自分と、そして、自分の想像しうる、未来、にもよく似た、世界のことを、
ぼくは、自分の、書きたいときに、書いている。
そうすることで、日常のなかでは忘れている、過去と未来の線上に、無数の点を痕跡として露わにすることができるかもしれない。
それが、物語ることの力だとしたら、ぼくは、それを信じてみたい。
そして、この物語がおわるとき、ぼくは、この物語を、ふたたび、生きなおすだろうと思う。
どのようなかたちかは、まだわからない。
痕跡を遺すことは、過去を過去として捨てさることではなく、未来に、変わってしまう自分の目で、ふたたびそれをまなざすためにあるのだから。
ぼくは、想像する。
この物語が、いつか、誰かの目に映る日を。
そして、そのちいさな点としての、誰かの目と、その現在と、ぼくの、たしかな関係の糸のなかにぼくがあると感じられたならば、
こうして、僕が物語ることに、ちいさくも、無限におおきな、世界が生まれることを、期待して。
2014年8月11日月曜日
第11章 追憶 Ⅲ
ともちゃんの家にお泊りをした翌日、母ちゃんが僕らをむかえにやってきた。母ちゃんは、ともちゃんのお母さんにあいさつをしていた。玄関のところで、すこしおしゃべりもしていた。僕は、あのときの母ちゃんの顔が思い出せない。玄関の扉から、少しだけ空がみえた。青い空と白い光で、母ちゃんの顔が霞んでいた。そして母ちゃんは、僕らを連れて車に乗り込んだ。
「これからね、岐阜のばあちゃんの家に行くのよ。ばあちゃん、ゆうたとりょうに会いたがってるからねえ。きっと喜ぶよ。」
僕は後部座席の弾力のあるシートの上に横になって母ちゃんのことばをきいていた。
弟は、いやだいやだと泣いていた。
僕は、わかっていたから、泣かなかった。
僕たちは、この町を出て行くのだ。
今日、この日。この町にお別れをするのだ。
もうたぶん、帰ってくることはないだろうと思った。
ねもちゃんとか、とりちゃんとか、まるちゃんとか、せっきーとか、
みんなとも会えなくなる。
さよならは言わなかった。
言えなかった。
さよならを言ってしまうと、
もう二度と会えないみたいで、
しんでしまうみたいで、
ピコちゃんみたいで、
僕は、さよならを、言えなかった。
母ちゃんと父ちゃんは、離婚をするのだそうだ。僕は母ちゃんからそれをきいていた。母ちゃんはていねいにそのことを僕に話してくれた。母ちゃんは、父ちゃんになぐられたりして、腕とか足とかに傷があった。痛そうだった。
僕は、車の後部座席で、母ちゃんの声を聞きながら、
車の窓でくぎられた、
四角い、ちいさい、
空をながめていた。
空は、あいかわらず、
とても澄んでいて、
あおかった。
僕らは、
はなればなれになる。
いや、ちがうんだ。
ほんとは、
みんな、
もともと、
ばらばらなんだ。
かぞくも、
ばらばらなんだ。
ぼくも、
おとうとも、
かあちゃんも、
とうちゃんも、
みんな、
みんな、
ばらばら、なんだ。
そらは
あおかった
どうしようもなく
きれいだった
ながれるくもと
まちのけしき
ぼくらは
ばらばらなんだ
ひとり
なんだ
ひとりぼっち
なんだ
あの日。僕だけの秘密基地の中で、見上げたブルーシートの空は、あおかった。
その日。僕だけの後部座席の中で、見上げた、ほんとうの空は、あおかった。
ぼくは、
ひとり、だった。
「これからね、岐阜のばあちゃんの家に行くのよ。ばあちゃん、ゆうたとりょうに会いたがってるからねえ。きっと喜ぶよ。」
僕は後部座席の弾力のあるシートの上に横になって母ちゃんのことばをきいていた。
弟は、いやだいやだと泣いていた。
僕は、わかっていたから、泣かなかった。
僕たちは、この町を出て行くのだ。
今日、この日。この町にお別れをするのだ。
もうたぶん、帰ってくることはないだろうと思った。
ねもちゃんとか、とりちゃんとか、まるちゃんとか、せっきーとか、
みんなとも会えなくなる。
さよならは言わなかった。
言えなかった。
さよならを言ってしまうと、
もう二度と会えないみたいで、
しんでしまうみたいで、
ピコちゃんみたいで、
僕は、さよならを、言えなかった。
母ちゃんと父ちゃんは、離婚をするのだそうだ。僕は母ちゃんからそれをきいていた。母ちゃんはていねいにそのことを僕に話してくれた。母ちゃんは、父ちゃんになぐられたりして、腕とか足とかに傷があった。痛そうだった。
僕は、車の後部座席で、母ちゃんの声を聞きながら、
車の窓でくぎられた、
四角い、ちいさい、
空をながめていた。
空は、あいかわらず、
とても澄んでいて、
あおかった。
僕らは、
はなればなれになる。
いや、ちがうんだ。
ほんとは、
みんな、
もともと、
ばらばらなんだ。
かぞくも、
ばらばらなんだ。
ぼくも、
おとうとも、
かあちゃんも、
とうちゃんも、
みんな、
みんな、
ばらばら、なんだ。
そらは
あおかった
どうしようもなく
きれいだった
ながれるくもと
まちのけしき
ぼくらは
ばらばらなんだ
ひとり
なんだ
ひとりぼっち
なんだ
あの日。僕だけの秘密基地の中で、見上げたブルーシートの空は、あおかった。
その日。僕だけの後部座席の中で、見上げた、ほんとうの空は、あおかった。
ぼくは、
ひとり、だった。
第10章 追憶 Ⅱ
僕はその日、幼馴染のともちゃんの家に遊びにきた。小学1年生の弟を連れて。ともちゃんのアパートは、うちからすごく遠くのところにあったので、僕と弟は、母ちゃんの車に乗せられてともちゃんの家にやってきた。母ちゃんは僕らをともちゃんのお母さんに預けて、「よろしくね」と言って、仕事へ向かった。母ちゃんがなんの仕事をしているのか僕は知らなかった。特に気にもしなかった。しばらく父ちゃんの姿は見ていなかった。父ちゃんは家に帰って来なくなっていた。どうして父ちゃんが家に帰ってこないのか僕は知らなかった。特に知ろうともしなかった。僕は父ちゃんのことをあまり知らなかったので、父ちゃんが帰ってこないことの理由もたぶん僕にはわからなくても仕方ないと思っていた。母ちゃんは車のエンジンをかけて仕事へ向かった。僕と弟は、ともちゃんの家で、みんなで遊んだ。今日はお泊りの日だ。着替えも持ってきた。わくわくした。そわそわもした。僕はお泊りが好きだったけれど、少しだけ苦手でもあった。
幼稚園の年長さんのときのお泊り保育の記憶が微かに残っている。薄暗い大部屋で、先生とみんなと一緒に布団を広げて、はじめてのお泊りの夜だった。僕はやっぱりわくわくしながらそわそわもしていて、その時どんなことを考えていたのかは、もうよく覚えていない。
僕が覚えているのは、薄暗い大部屋の中に敷かれた僕の布団の中で、年長さんの時の僕が泣いていた、記憶。
僕の視界は、部屋の角に固定されていて、僕は部屋の角から年長さんのときの僕を見ている。
年長さんの僕は、しくしくと泣いていた。みんなに聞こえないように、しくしくと。年長さんの僕は、飼っていたインコのピコちゃんが死んでしまったことを思い出してしくしくと泣いていた。ピコちゃんは、死んでしまった。ある日、突然、死んでしまった。あの日。僕は、ピコちゃんの冷たくなった身体を両手で抱きあげて、声をあげて泣いた。ピコちゃん。ピコちゃん。どうして死んじゃったの。ピコちゃん。ピコちゃん。どうして死んじゃったの。どうして。もう動かないの。もう、空を飛ばないの。からだがつめたいよ。ピコちゃん。いつもみたいに元気にバタバタと羽を動かして、僕の上を飛んでみせてよ。
ねえ、ピコちゃん
しぬのは いたかった?
しぬのは こわかった?
しぬのは いやだった?
いきていたかった?
ねえ、ピコちゃん
ねえ、ピコちゃん
さみしいよ
幼稚園の年長さんのときのお泊り保育の記憶が微かに残っている。薄暗い大部屋で、先生とみんなと一緒に布団を広げて、はじめてのお泊りの夜だった。僕はやっぱりわくわくしながらそわそわもしていて、その時どんなことを考えていたのかは、もうよく覚えていない。
僕が覚えているのは、薄暗い大部屋の中に敷かれた僕の布団の中で、年長さんの時の僕が泣いていた、記憶。
僕の視界は、部屋の角に固定されていて、僕は部屋の角から年長さんのときの僕を見ている。
年長さんの僕は、しくしくと泣いていた。みんなに聞こえないように、しくしくと。年長さんの僕は、飼っていたインコのピコちゃんが死んでしまったことを思い出してしくしくと泣いていた。ピコちゃんは、死んでしまった。ある日、突然、死んでしまった。あの日。僕は、ピコちゃんの冷たくなった身体を両手で抱きあげて、声をあげて泣いた。ピコちゃん。ピコちゃん。どうして死んじゃったの。ピコちゃん。ピコちゃん。どうして死んじゃったの。どうして。もう動かないの。もう、空を飛ばないの。からだがつめたいよ。ピコちゃん。いつもみたいに元気にバタバタと羽を動かして、僕の上を飛んでみせてよ。
ねえ、ピコちゃん
しぬのは いたかった?
しぬのは こわかった?
しぬのは いやだった?
いきていたかった?
ねえ、ピコちゃん
ねえ、ピコちゃん
さみしいよ
第9章 追憶 Ⅰ
「ねえ、知ってる?虹の色って本当は9色だったのよ」
僕は、彼女の手を握っていた。いつもの通学路をふたりで歩いていた。蒸し暑い日だった。無数の蝉たちの鳴き声が町の中にまで響き渡っていた。学校がお休みの日にいつもアイスを買う個人営業のコンビニエンスストアを越えて、あの交差点を渡って、左手に見える寂れた倉庫の向こう側に、彼女の住むアパートがあった。彼女はお母さんと妹と二人暮らしだった。
「お父さんはいないの。でも、あたし、平気よ。」彼女は僕によくそう言って聞かせてくれた。彼女には父親がいなかった。そして、同じく僕にも父親はいなかった。いや、その言い方は正確ではないかもしれない。小学5年生、11歳の僕にはまだ、父親がいた。
東京都小平市にある小さな町に、僕らは住んでいた。東京であるにも関わらずその町には、東京の匂いが少しもしなかった。町に建ち並ぶ建物は皆背が低く、空がとても大きかった。夏になると、カブトムシを見かけることもあった。小さな小川も流れていた。僕は近所の空き地で、1人で秘密基地を作って遊ぶのが好きだった。蝉の抜け殻のように横たわって誰からも忘れられた車のタイヤを転がして、何のために組まれたのかもはや自分でも忘れてしまったかのように途方に暮れたまま立っている鉄筋の骨組みにタイヤを据え付けた。壁面を全て覆ってしまうまで、繰り返し繰り返しタイヤを転がして運んで積み上げた。屋根はブルーシートだった。工事現場のおじさんが忘れていったのかしら。そのブルーシートも空き地の端にぐったりと横たわっていた。僕はそのブルーシートを広げて鉄筋の骨組みの上にかけた。
お手製の秘密基地の中に入ると、そこは別の世界だった。壁面として積み上げた車のタイヤの隙間から外の世界を覗き込んでみた。誰もいない空き地が僕にとっての外の世界に変貌した。風に吹かれて草がゆれていた。僕は秘密基地の中に流れている空気をゆっくりと吸い込んだ。
「ここは僕だけの場所。僕だけの秘密の場所。誰も知らない、秘密の基地。」
声には出さずにそうつぶやいた。そう、ここは、僕だけの秘密基地なのだ。誰も知らない、秘密の基地。僕は、なんだかとても安心した。ここなら、やっていける気がした。ひとりになれる気がしたのだ。ひとりになれる場所が、僕には何処にもなかったのだ。
秘密基地の中、横になり、宙を見上げた。僕の目には、おおきな青い空ではなく、ちいさな青いブルーシートの空が広がっていた。
僕は、彼女の手を握っていた。いつもの通学路をふたりで歩いていた。蒸し暑い日だった。無数の蝉たちの鳴き声が町の中にまで響き渡っていた。学校がお休みの日にいつもアイスを買う個人営業のコンビニエンスストアを越えて、あの交差点を渡って、左手に見える寂れた倉庫の向こう側に、彼女の住むアパートがあった。彼女はお母さんと妹と二人暮らしだった。
「お父さんはいないの。でも、あたし、平気よ。」彼女は僕によくそう言って聞かせてくれた。彼女には父親がいなかった。そして、同じく僕にも父親はいなかった。いや、その言い方は正確ではないかもしれない。小学5年生、11歳の僕にはまだ、父親がいた。
東京都小平市にある小さな町に、僕らは住んでいた。東京であるにも関わらずその町には、東京の匂いが少しもしなかった。町に建ち並ぶ建物は皆背が低く、空がとても大きかった。夏になると、カブトムシを見かけることもあった。小さな小川も流れていた。僕は近所の空き地で、1人で秘密基地を作って遊ぶのが好きだった。蝉の抜け殻のように横たわって誰からも忘れられた車のタイヤを転がして、何のために組まれたのかもはや自分でも忘れてしまったかのように途方に暮れたまま立っている鉄筋の骨組みにタイヤを据え付けた。壁面を全て覆ってしまうまで、繰り返し繰り返しタイヤを転がして運んで積み上げた。屋根はブルーシートだった。工事現場のおじさんが忘れていったのかしら。そのブルーシートも空き地の端にぐったりと横たわっていた。僕はそのブルーシートを広げて鉄筋の骨組みの上にかけた。
お手製の秘密基地の中に入ると、そこは別の世界だった。壁面として積み上げた車のタイヤの隙間から外の世界を覗き込んでみた。誰もいない空き地が僕にとっての外の世界に変貌した。風に吹かれて草がゆれていた。僕は秘密基地の中に流れている空気をゆっくりと吸い込んだ。
「ここは僕だけの場所。僕だけの秘密の場所。誰も知らない、秘密の基地。」
声には出さずにそうつぶやいた。そう、ここは、僕だけの秘密基地なのだ。誰も知らない、秘密の基地。僕は、なんだかとても安心した。ここなら、やっていける気がした。ひとりになれる気がしたのだ。ひとりになれる場所が、僕には何処にもなかったのだ。
秘密基地の中、横になり、宙を見上げた。僕の目には、おおきな青い空ではなく、ちいさな青いブルーシートの空が広がっていた。
2014年8月8日金曜日
第8章 黒色の通路 シルクハットの男は語る
ピカピカに光る四角い黒色の通路を歩きながら僕はシルクハットの男に尋ねた。
「さっき僕が通ってきた通路の名前をあなたは「大腸のトンネル」と仰いましたね。不思議な名前だなと思いましたが、いま、僕らが歩いているこの通路にも名前があるんですか?」
男はシルクハットのツバに隠された顔から浮遊する木の葉のような奇妙な笑い声を微かに響かせたのち、僕にこう告げた。
「この通路の名前、ですか。不思議な質問をなされますね。いやはや、面白いお方だ。名前が気になるなんて。いやはや、すみません。お気を悪くなさらんでください。わたくし、笑い上戸なもので。笑い上戸と言っても、酒は一滴たりとも呑んでおりませんのよ。けれども笑いが止まらなくなることがしばしば。愉快なものです。愉快なことは素晴らしいことです。わたくしは愉快なものが好きであります。愉快なものはわたくしに幸福を与えてくれるものですからね。小さな子供が熊に見立てたぬいぐるみを嬉しそうに抱きしめながら遥かな夢の旅路をゆくような感慨がありますね。わたくしには、そのようなものこそが最もらしいもののように思われますの。ええ、それこそが至高。わたくしは至高のみを愛しております。ですからわたくしは、笑うのです。お気を悪くせんでくださいまし。あ、そうそう。この通路の「名前」でしたね。貴方様の質問は。お間違いないでしょうか。その質問に関してはわたくし、こう答えることにしておりますの。
「この通路に、「名前」なんてものは存在しませんのよ。おほほほ。」
と。あらやだ。そんなお顔をなさらないでくださいな。わたくしには、貴方様をからかう気なんてさらさら御座いません。貴方様の質問に対して、わたくしからの誠心誠意正直で明確明瞭なお答えを申し上げますと、答えはそのようなものにならざるを得ないということですので。「この通路に「名前」はない」これが貴方様の質問に対するわたくしの唯一のお答えで御座います。おほほほ。」
シルクハットの男の返答に僕は些か不快感を覚え、さらに質問を付け加えた。
「そうですか。でしたら先ほど僕が通り抜けてきた「大腸のトンネル」という名前の由来は何ですか。確かに、通路の形態として人間の大腸にも似た形をしていましたが、その名前はあなたが付けたものですか。それはなぜ「大腸のトンネル」という名前を付けられたのですか。そもそもここが一体何処なのか、僕にはまるでわからないのです。僕は、巨大な虹色の海月にふれて、気づいたらこの場所に辿り着きました。まるで時空を飛び越えてしまったかのように、光の中で一瞬にして。僕には、今の僕が置かれた状況というものがまるでわからないのです。僕はなぜ今ここにいるのか。僕はなぜ「大腸のトンネル」を通り抜け、今、あなたと共にこの「名無しのトンネル」を通り抜けているのか。そして、この先に何があるのか。さらに付け加えるならば、この通路は、一体何処にあるのか。今の僕には、僕自身のこと以外、明確なことは何もないようです。何かご存知でしたら教えて頂けませんか。」
シルクハットの男は、ピカピカに磨かれ手入れされた黒い革靴のカカトを通路の床にあたかも軽妙なタップダンスを奏でるかのように歩きながら暫らくの間何も語らなかった。黒い通路の中に、冷えた鉄にふれるかのような冷たい沈黙が漂っていた。
シルクハットの男は突然立ち止まり、くるりと身を翻し、僕の真正面を向き、無表情な冷笑を浮かべながら僕にこう言った。
「いやはや。貴方様は、少し物事を複雑に考えすぎるところがお有りのようですね。ふふふふふ。いや、まあ、それはそれで退屈な人生を生きるための少しの娯楽にもなり得るものでありましょうから、わたくしとしてはそれを否定するつもりはさらさら御座いません。わたくしも、無駄なものが好きで御座います。無駄なもの、取るに足らないもの、遊びは、人間に与えられた時間なるものの余剰を産み出すものでもありますからね。時間は人間に与えられておりますが、それは預金残高のような決められた数値で測定可能な代物では御座いません。時間は常に減少したり増加したりするもので御座います。多くの人間はご存知ないようですが、これが時間なるものに隠された一つの真理で御座います。かつてアルバート•アインシュタインという稀有な学者は、相対性理論という世界の見方を創り上げました。彼の発見は時間の真理に迫るものでしたが、真理に到達するまでには至らなかった。多くの愚かな人間が彼の探求の邪魔をしたためです。全くもって残念な事です。彼が時間の真理に到達してそれを人間社会の常識として流布してくれさえすれば、わたくしの仕事も少しは少なくなったはずですのに。いやはや、そんな愚痴を零しても仕方ありませんね。時代はまだ彼を求めてはいなかったのですから。これは悲劇です。悲劇以外のものがこの世界の何処にあるのかわたくしは存じ上げませんが、兎にも角にも悲劇というものはこの世界の中心のひとつの環を成すものです。それはひとつの惑星のようでもあります。それは周回するもので御座います。それはわたくしとあなたの間にある、いまこの瞬間にも周回する惑星であり、それはこの瞬間瞬間の中で絶えず生起し生まれ変わる生命活動のようなものでも御座います。兎にも角にも、そのような仕方で存在する物事は、可能な限り確からしく感ずることのできるもので御座いましょう。
如何ですか。貴方様はいま、この場所におられる。わたくしの前にこうして立ち、わたくしの口から発された声を聞くことができる。この文章を読んでいらっしゃるそこの貴方様。その目に映るこの不可解な文章は貴方様の脳内に何を想起しておりますでしょうか。わたくしは何者でしょうか。わたくしはそもそも「何者か」でありましょうか。わたくしと名指す存在。わたくしはいまこうして話をしております。「」で括られた部分が、物語の登場人物の発語内容であるとの文学的規範に乗っ取り、この文章のこの部分を、わたくしの発話として認識なさっておられる貴方様。そう、画面の向こうの貴方様です。金曜日。お仕事お疲れ様です。今宵は皆様、一週間の労働の疲れを癒すために、花金なるものを堪能なさっておられる事でしょう。
新宿の街はとても賑やかな場所ですね。わたくしも一度は訪れてみたいものですが、あいにくわたくしには、貴方様の所属する世界における、具体的現実的な肉体なるものが御座いません。こちらの世界のわたくしには、もちろん肉体が御座います。このように、高価なシルクハット、スーツに革靴を優雅に着こなし、黒い通路の床に革靴のカカトと叩きつけながら、流麗なタップダンスを踊ることだって容易にできます。わたくしには肉体がありますから。貴方様から見れば、こちらの世界にいる、わたくしの、こちらの世界における三次元の具体的現実的な肉体が御座います。それは死ぬこともできます。女を抱くこともできます。望みさえすればなんだってできます。わたくしは、自由です。貴方様方がお呼びになられる、自由なるもの、それ自体と考えていただいて差し支えないかと思います。
わたくしは、いま、ここ、におります。確かにいます。でなければ、貴方様にこうして言葉を投げかけることもできないでしょう。どうですか。聴こえていますか。貴方様の目は、この言葉を読んでおられます。そして、わたくしの声を聴いておられます。声ならぬ声を。
わたくしは、発話しております。
パロールがここには存在します。
貴方様は、
わたくしのパロールを、
ランガージュとして読まれております。
この不思議を、貴方様はどのように感じておられますか。もしくは、このようなことを不思議だと感じてはおられませんか。だとしたら貴方様もまた、ここにおられる「僕」の1人で御座います。いえ、非難しているわけでは御座いませんよ。わたくしはただ、ありのままの真実をお話させて頂いているだけであります。わたくしの目の前におられる「僕」と、わたくしの言葉を文字へと変換しいまこうしてiPhoneの画面に、何かに取り憑かれたように文章を書きつけている百瀬雄太という男と、インターネットというテクノロジーを介して届けられるわたくしのパロール=百瀬雄太のランガージュを、今、この文字へと目を走らせ、脳内にその言葉の発する口の動きとシルクハットの奇妙な質感を想起する貴方様。ここにある不思議な関係性。
どうですか。
ここは何処で御座いましょう。
わたくしは、何処におられると思いますか。
わたくしは通路におります。わたくしは言葉におります。わたくしは百瀬雄太の脳内におります。わたくしはiPhoneの画面の上におります。わたくしはこの物語の主人公の目の前におります。わたくしは貴方様の脳内におります。わたくしはおります。
同時に、わたくしはどこにもおります。この文章が消されれば、あるいは、この文章が誰の目にもふれることがなければ、わたくしはどこにもおりません。
わたくしは、いますか?
「大腸のトンネル」は、名前で御座います。そして、いま、わたくしのおりますこの通路には名前が御座いません。その事に、何か大きな差異がありますでしょうか。
名付けられることで人々は安心なさいます。それはそれとして、幸福なことでもありましょう。しかし、それは、至福なことでは御座いません。この事だけはお忘れにならないようにして頂きたいものです。
わたくしと「貴方様」との出逢いは、必然性という名のもとに生起した、極めて運命論的な出来事で御座いますから。
貴方様の世界では、いま、時計の針が22時52分を指しました。しかしそれは、百瀬雄太の所属するいまこの場所にある時間の指標でしか御座いません。この物語をお読みの貴方様。いま、あなたはどこにおられるでしょう。いま、あなたの時間は、どこにあるでしょう。
時計の針は、無限に存在しますよ。
そして、あることとないことは、ともにあることなのかもしれませんね。
おほほほほほほほほ
あ、「」を閉じさせて頂きますね。
それでは、佳き宵をお過ごしくださいませ。
」
「さっき僕が通ってきた通路の名前をあなたは「大腸のトンネル」と仰いましたね。不思議な名前だなと思いましたが、いま、僕らが歩いているこの通路にも名前があるんですか?」
男はシルクハットのツバに隠された顔から浮遊する木の葉のような奇妙な笑い声を微かに響かせたのち、僕にこう告げた。
「この通路の名前、ですか。不思議な質問をなされますね。いやはや、面白いお方だ。名前が気になるなんて。いやはや、すみません。お気を悪くなさらんでください。わたくし、笑い上戸なもので。笑い上戸と言っても、酒は一滴たりとも呑んでおりませんのよ。けれども笑いが止まらなくなることがしばしば。愉快なものです。愉快なことは素晴らしいことです。わたくしは愉快なものが好きであります。愉快なものはわたくしに幸福を与えてくれるものですからね。小さな子供が熊に見立てたぬいぐるみを嬉しそうに抱きしめながら遥かな夢の旅路をゆくような感慨がありますね。わたくしには、そのようなものこそが最もらしいもののように思われますの。ええ、それこそが至高。わたくしは至高のみを愛しております。ですからわたくしは、笑うのです。お気を悪くせんでくださいまし。あ、そうそう。この通路の「名前」でしたね。貴方様の質問は。お間違いないでしょうか。その質問に関してはわたくし、こう答えることにしておりますの。
「この通路に、「名前」なんてものは存在しませんのよ。おほほほ。」
と。あらやだ。そんなお顔をなさらないでくださいな。わたくしには、貴方様をからかう気なんてさらさら御座いません。貴方様の質問に対して、わたくしからの誠心誠意正直で明確明瞭なお答えを申し上げますと、答えはそのようなものにならざるを得ないということですので。「この通路に「名前」はない」これが貴方様の質問に対するわたくしの唯一のお答えで御座います。おほほほ。」
シルクハットの男の返答に僕は些か不快感を覚え、さらに質問を付け加えた。
「そうですか。でしたら先ほど僕が通り抜けてきた「大腸のトンネル」という名前の由来は何ですか。確かに、通路の形態として人間の大腸にも似た形をしていましたが、その名前はあなたが付けたものですか。それはなぜ「大腸のトンネル」という名前を付けられたのですか。そもそもここが一体何処なのか、僕にはまるでわからないのです。僕は、巨大な虹色の海月にふれて、気づいたらこの場所に辿り着きました。まるで時空を飛び越えてしまったかのように、光の中で一瞬にして。僕には、今の僕が置かれた状況というものがまるでわからないのです。僕はなぜ今ここにいるのか。僕はなぜ「大腸のトンネル」を通り抜け、今、あなたと共にこの「名無しのトンネル」を通り抜けているのか。そして、この先に何があるのか。さらに付け加えるならば、この通路は、一体何処にあるのか。今の僕には、僕自身のこと以外、明確なことは何もないようです。何かご存知でしたら教えて頂けませんか。」
シルクハットの男は、ピカピカに磨かれ手入れされた黒い革靴のカカトを通路の床にあたかも軽妙なタップダンスを奏でるかのように歩きながら暫らくの間何も語らなかった。黒い通路の中に、冷えた鉄にふれるかのような冷たい沈黙が漂っていた。
シルクハットの男は突然立ち止まり、くるりと身を翻し、僕の真正面を向き、無表情な冷笑を浮かべながら僕にこう言った。
「いやはや。貴方様は、少し物事を複雑に考えすぎるところがお有りのようですね。ふふふふふ。いや、まあ、それはそれで退屈な人生を生きるための少しの娯楽にもなり得るものでありましょうから、わたくしとしてはそれを否定するつもりはさらさら御座いません。わたくしも、無駄なものが好きで御座います。無駄なもの、取るに足らないもの、遊びは、人間に与えられた時間なるものの余剰を産み出すものでもありますからね。時間は人間に与えられておりますが、それは預金残高のような決められた数値で測定可能な代物では御座いません。時間は常に減少したり増加したりするもので御座います。多くの人間はご存知ないようですが、これが時間なるものに隠された一つの真理で御座います。かつてアルバート•アインシュタインという稀有な学者は、相対性理論という世界の見方を創り上げました。彼の発見は時間の真理に迫るものでしたが、真理に到達するまでには至らなかった。多くの愚かな人間が彼の探求の邪魔をしたためです。全くもって残念な事です。彼が時間の真理に到達してそれを人間社会の常識として流布してくれさえすれば、わたくしの仕事も少しは少なくなったはずですのに。いやはや、そんな愚痴を零しても仕方ありませんね。時代はまだ彼を求めてはいなかったのですから。これは悲劇です。悲劇以外のものがこの世界の何処にあるのかわたくしは存じ上げませんが、兎にも角にも悲劇というものはこの世界の中心のひとつの環を成すものです。それはひとつの惑星のようでもあります。それは周回するもので御座います。それはわたくしとあなたの間にある、いまこの瞬間にも周回する惑星であり、それはこの瞬間瞬間の中で絶えず生起し生まれ変わる生命活動のようなものでも御座います。兎にも角にも、そのような仕方で存在する物事は、可能な限り確からしく感ずることのできるもので御座いましょう。
如何ですか。貴方様はいま、この場所におられる。わたくしの前にこうして立ち、わたくしの口から発された声を聞くことができる。この文章を読んでいらっしゃるそこの貴方様。その目に映るこの不可解な文章は貴方様の脳内に何を想起しておりますでしょうか。わたくしは何者でしょうか。わたくしはそもそも「何者か」でありましょうか。わたくしと名指す存在。わたくしはいまこうして話をしております。「」で括られた部分が、物語の登場人物の発語内容であるとの文学的規範に乗っ取り、この文章のこの部分を、わたくしの発話として認識なさっておられる貴方様。そう、画面の向こうの貴方様です。金曜日。お仕事お疲れ様です。今宵は皆様、一週間の労働の疲れを癒すために、花金なるものを堪能なさっておられる事でしょう。
新宿の街はとても賑やかな場所ですね。わたくしも一度は訪れてみたいものですが、あいにくわたくしには、貴方様の所属する世界における、具体的現実的な肉体なるものが御座いません。こちらの世界のわたくしには、もちろん肉体が御座います。このように、高価なシルクハット、スーツに革靴を優雅に着こなし、黒い通路の床に革靴のカカトと叩きつけながら、流麗なタップダンスを踊ることだって容易にできます。わたくしには肉体がありますから。貴方様から見れば、こちらの世界にいる、わたくしの、こちらの世界における三次元の具体的現実的な肉体が御座います。それは死ぬこともできます。女を抱くこともできます。望みさえすればなんだってできます。わたくしは、自由です。貴方様方がお呼びになられる、自由なるもの、それ自体と考えていただいて差し支えないかと思います。
わたくしは、いま、ここ、におります。確かにいます。でなければ、貴方様にこうして言葉を投げかけることもできないでしょう。どうですか。聴こえていますか。貴方様の目は、この言葉を読んでおられます。そして、わたくしの声を聴いておられます。声ならぬ声を。
わたくしは、発話しております。
パロールがここには存在します。
貴方様は、
わたくしのパロールを、
ランガージュとして読まれております。
この不思議を、貴方様はどのように感じておられますか。もしくは、このようなことを不思議だと感じてはおられませんか。だとしたら貴方様もまた、ここにおられる「僕」の1人で御座います。いえ、非難しているわけでは御座いませんよ。わたくしはただ、ありのままの真実をお話させて頂いているだけであります。わたくしの目の前におられる「僕」と、わたくしの言葉を文字へと変換しいまこうしてiPhoneの画面に、何かに取り憑かれたように文章を書きつけている百瀬雄太という男と、インターネットというテクノロジーを介して届けられるわたくしのパロール=百瀬雄太のランガージュを、今、この文字へと目を走らせ、脳内にその言葉の発する口の動きとシルクハットの奇妙な質感を想起する貴方様。ここにある不思議な関係性。
どうですか。
ここは何処で御座いましょう。
わたくしは、何処におられると思いますか。
わたくしは通路におります。わたくしは言葉におります。わたくしは百瀬雄太の脳内におります。わたくしはiPhoneの画面の上におります。わたくしはこの物語の主人公の目の前におります。わたくしは貴方様の脳内におります。わたくしはおります。
同時に、わたくしはどこにもおります。この文章が消されれば、あるいは、この文章が誰の目にもふれることがなければ、わたくしはどこにもおりません。
わたくしは、いますか?
「大腸のトンネル」は、名前で御座います。そして、いま、わたくしのおりますこの通路には名前が御座いません。その事に、何か大きな差異がありますでしょうか。
名付けられることで人々は安心なさいます。それはそれとして、幸福なことでもありましょう。しかし、それは、至福なことでは御座いません。この事だけはお忘れにならないようにして頂きたいものです。
わたくしと「貴方様」との出逢いは、必然性という名のもとに生起した、極めて運命論的な出来事で御座いますから。
貴方様の世界では、いま、時計の針が22時52分を指しました。しかしそれは、百瀬雄太の所属するいまこの場所にある時間の指標でしか御座いません。この物語をお読みの貴方様。いま、あなたはどこにおられるでしょう。いま、あなたの時間は、どこにあるでしょう。
時計の針は、無限に存在しますよ。
そして、あることとないことは、ともにあることなのかもしれませんね。
おほほほほほほほほ
あ、「」を閉じさせて頂きますね。
それでは、佳き宵をお過ごしくださいませ。
」
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